折れない心の日(3)
眠りについている間、リリアは夢を見る。その夢は目覚めてもはっきりと頭の中に残り、水で顔を洗っても拭える事はなかった。
眠れば眠るほど、それを忘れようとすれば忘れるほど、はっきりと……鮮明に。心の中から溢れ出す見覚えの無い景色たちが少女の心を振り潰して行く。
見覚えのある景色もあれば、見覚えのある人も居た。ただ自分自身が忘れていた何かを夢の中で繰り返し繰り返し再現する事で、現実の何かさえ変わっていく気がしていた。
夢の中では少女はとてもとても小さな子だった。ぼんやりと揺らぐ景色の中、誰かに手を引かれて歩いていく。
そこはリア・テイル――。オルヴェンブルムの白き回廊の中、ふと見上げる繋いだ手の先を歩くのは父であるフェイトだった。
父に手を引かれ、巨大な扉を潜る。そこに立っていたのは見覚えの無い人々――。しかし、その顔も名前も一致してしまう。自分の物なのかそれとも他人の物なのか、判断さえできない記憶の中でリリアは理解する。その人の顔を、名前を――。
「――やはり、ロギアの封印と同時にリリア本人の記憶にも著しい混乱が見られる」
黒衣の男はそう呟き、リリアを見下ろす。その傍らに立つ女王は眉を潜め、リリアへとその細くしなやかな手を伸ばした。
リリアはその手を取り、両手でそっと握り締める。優しく微笑むマリアに頭を撫でられ、リリアは目を細めて微笑んだ。
「そうだとしても、やはりこの子を一人にしておくわけには行かないでしょう。何よりロギアは……ええ、『彼ら』に対する力、知識で言えば、頼りになりますから」
「魔王を守護者にするとはな……。邪道も邪道、禁術を行使しただけの事はある」
「だが、そうしなけりゃこいつはこいつのままではいられなくなる。それに……全部の思い出を記憶しているのが幸せとは限らない」
「……そうですね。ええ、きっとそう。何もわからなくとも……わからないままでも。それでも幸せになる方法は、いくらでもあるわ」
リリアを抱き上げ、女王は微笑む。何も判らないまま、ただ無邪気にその笑顔に応える。
夢の中での出来事なのに、それはまるで昨日のことのように脳裏を過ぎり、今ははっきりと思い出す事が出来る。そうして一つ一つを思いだして行くうちに、自分のすぐ背後に立ってその夢を懐かしげに眺めているもう一人の存在に気づく。
背後に立つ背の高い影。黒と白のローブを纏い、白銀の神を靡かせるその人は背後からリリアの頭を撫で、そうして遠くへと誘っていく。
だが、リリアにはハッキリと感じ取る事が出来た。恐ろしいのは、この銀色の影ではない。その向こう側――。彼女が遮っている、後ろのまた『向こう』――。
「だれ?」
振り返っても、そこから先を銀色の影は見せようとはしない。立ち塞がり、遠ざけてしまう。
「だれなの?」
だから、わからなくなる。たとえその影がすぐ傍まで手を伸ばしていたとしても、それはきっとリリアには絶対に判らない事だろう。
何故ならリリアは守られているから。その、向こうの向こう、闇の中から手招きするその人の存在から――。
「だれ――――?」
まるで白昼夢のように脳裏を駆け巡った刹那の中、リリアは聖剣を振り翳し、聖堂騎士団の配置した砲台を一刀両断する。
最前線、全ての生徒よりも前に立ち、聖剣を手に敵陣へと斬りこんで行く。その勇猛果敢な姿は敵からすれば恐怖を抱くほどの迫力であった。
どんな魔法も一撃で消し飛ばし、どんなに防御を固めても一撃で吹き飛ばして行く『勇者』――。それは、敵として立ち塞がった生徒にも同様に目に映るもの。
勇者……勇敢な者。誰よりも前に立ち、誰よりも果敢に行動する事でその存在は証明される。誰にも出来ない事をやってのける英雄――。そう在らねば、誰も勇者とは認めない。
少女はどうだろうか? 傷一つ負う事も無く前へと突き進むその姿は誰にも止める事が出来ない。勇者が前に居るから誰も立ち止まらない。誰もが付いていける、そんな存在である事こそ、彼女の持つ勇者の資質そのものだった。
リリアの正面、突然何人かの聖堂騎士の様子が豹変し、騎士たちはどす黒く燃えるような魔力に包まれ、獣のような乱暴な動きで襲い掛かってきた。リリアは剣でそれを受け止めるものの、今までの数倍に跳ね上がった力で吹き飛ばされた。
彼らの持つものは『預言されし者』を産む『悪意の頁』その複写片。持つ物に力を与える神による禁断の強化術式。その強化騎士数名を前に、リリアは全く動じる事もなかった。
「――――ロギア」
小さく息を吸い、その名を呼ぶ。少女の背後、誰にも見えない銀色の影がその呼びかけに応える。
目を閉じたリリアの髪が銀色に染まっていく。途端、魔力が桁違いに跳ね上がり、迫る強化騎士を一刀の元に切り伏せた。
その動きは早すぎて背後の仲間たちにも見る事は出来なかった。一撃で血飛沫をぶちまけながら断末魔と共に倒れる強化騎士……。勇者はゆっくりと目を開き、剣を構える。
「ごめんなさい。私は下手糞だから――全員殺さず倒す、何てことは約束出来ない。でも――」
夏流がそうしたように。アクセルがそうしたように。
願いは願いであり、希望は希望に他ならない。そしてその上で相手を斬り、倒し、その痛みを背負っていく事を覚悟する事……。それもまた、勇者として求められる資質の一つ。
かつて黒の勇者はリリアに告げた。誰かを傷つけ、誰かが傷付けられる事を恐れてはならないと。覚悟せねばならないと。覚悟は、今まで決まっていたのか。
それは甘かったのかもしれない。覚悟を決めたつもりでも、決められていなかったのかもしれない。しかし何かを飲み込み、自らの手を汚す事を厭わず、それでも戦う――その理由ならば、彼女の背後に生まれてしまったのだ。
「――――仲間を、私を信じてくれる人を傷つけさせる訳には行かないから。だから、貴方たちの事は私の剣が覚えておく。貴方達を斬った事実は――私の剣が連れて逝く」
謝る事はもうしない。嘆く事も意味はない。信じられているのならば、期待に応えねばならない。信じたいのならば、信じる努力をせねばならない。
守りたいのならば、何かを傷付けねばならない。その痛みを背負って歩いていく事を決めた時、少女は勇者として一つ大きな階段を登ったのだ。
迫る魔物にも似た動きの騎士たち。三つの影が同時にリリアに襲い掛かり、しかし少女は銀色に輝く軌跡だけを残し、一瞬で三人を切り伏せて見せる。
それはとても頑丈な装甲を持ち、あらゆる攻撃を軽減するマリシアの術式を一撃で粉砕し、『魔』と所有者が判断する物を一切合財無慈悲に切り伏せる聖剣の力――。
背後で見ていた夏流たち、マリシアと戦った事のある者ならば誰もが息を呑んだ。リリア・ライトフィールドは――勇者は、マリシアに対する絶対的な反撃の切り札であるという事実が、目の前で展開されていた。
あっという間に敵となる者を切り伏せ、リリアは聖剣を掲げる。障害となる強化騎士が居なくなった今、リリアの振り下ろした剣は総反撃の狼煙となる。
雄叫びと共に市街地を占拠する聖堂騎士団へとなだれ込む生徒たち。その波の中、リリアは心の中で自分が切り伏せた騎士の顔を一つ一つ思い出し、胸を痛めていた。
⇒折れない心の日(3)
「…………押し返した、のか?」
シャングリラの町が燃えていた。戦闘は終了しても、その痕跡はすぐに消えたりはしない。俺たちの目の前で、俺たちの行動の結果をまざまざと見せ付けるだけだ。
道端に転がる死体、傷だらけの仲間たち……。大地に突き刺さった剣、聞こえてくる人々の小さな声。神威双対をぎゅっと握り締め、周囲を見渡す。でも、そこにはどんな希望も見つからないように思えた。
リリアは一人、死体を前に立ち尽くしていた。リインフォースは今はもう輝きを失い、聖剣としての役割は鳴りを潜めている。その背中は悲しみに暮れているのだろう。風に吹かれて髪を靡かせ、その背中からは悲しみしか感じ取る事は出来なかった。
「……それにしても、驚きましたね」
隣にゲルトが並び、そう口にした。勿論リリアの力の事だろう。
初めてリリアがあの力を発動した時、完全に力に振り回されているように見えたリリアだったが、今ではもう全てを己の意のままに操っているようにさえ見える。ロギアという存在を自らの力にする事が出来たのならば、リリアはそれこそ……そう、無類の強さを得た事になるのだろう。
だが、心に残る一握の不安……その正体は何だ? リリアは自分の意思で剣を取り、自分の意思で人を殺した。俺も……多分、殺した。死んだかどうかなんていちいち確認しない。でも、殺した者も居るだろう。
いつかこうなるかもしれないという覚悟は前から決まっていた。俺は……いいんだ。この世界の人間じゃない。命の重ささえ、結局俺にとっては嘘になる。でも、リリアたちはこの世界で確かに生きる本物の存在。俺のように、虚像ではないから。
その悲しみを胸のうちに閉じ込め、リリアは今何を思っているのだろう。大地に突き刺した大剣の柄に両手を重ね、静かに風を受ける勇者……。その構図は絵には成るが、きっとリリアには似合わなかった。
「……マリシア兵、とでも呼べばいいのか? 大聖堂は何を考えているんだ……。あんなバケモノみたいな兵士を量産でもするつもりなのか?」
「リリアがあの魔獣に対しても絶対的な攻撃力を持つ事実はわたしたちにとっても学園にとっても朗報でしょう。ですが……素直には喜べませんね」
ゲルトもきっと俺と同じ事を考えていた。二人でリリアを背後から見つめていると、視線を感じてかリリアはけろりとした様子で振り返った。
そうしていつもどおりのふにゃけた顔でとことこ駆け寄り、俺たちの前で笑ってみせる。俺はその肩を叩き、そっと目を細めた。
「良く頑張ったな、リリア」
「えへへ、はい。でも、まだですよね」
「……ああ」
大聖堂は一先ずシャングリラの外側にたたき出しただけ。まだこの町が包囲されているという事実は変わらない。
ここから先は篭城戦闘になる。しかしいつまた市街地が戦場になるかわからない。だから、市民の避難も急がせなければならないし、部隊の統率も必要だ。
考え込んでいても仕方が無いが、あまりにも悲惨な状況に身動きも取れなくなる。あんなに平和だったシャングリラが、どうしてこんな事に……。
「……お前の、せいだ……!」
振り返る。そこには剣を手にした傷だらけの生徒が立っていた。少年はリリアに剣を向け、口元から血を流しながら震える声で言う。
「お前が、大聖堂を裏切ったりしなければ……こんな、ことには……」
俺とゲルトが立ち塞がろうとすると、リリアは俺たちを強い力で押しのけて前に出た。少年の剣を自ら握り締め、血を流しながら喉元に突きつける。
二人して慌てている俺たちを他所に、リリアは鋭い視線で少年を見つめて言った。
「いいよ、殺したいのならば殺しても。でも、その覚悟はある……? 私を殺せば、貴方も一緒。人殺し……誰かを傷付けて生きる人間になる」
少年はリリアをじっと見つめ、歯を食いしばっていた。リリアが握り締めた剣を片手で圧し折ると、少年も背後に仰け反る。
「……やっぱり、だめだよ。こういうの……お奨めしないな。だってそうでしょ? 誰だってそう、殺したりなんかしないほうがいいに決まってる」
リリアの言葉を最後まで聞き届け、少年は前のめりに倒れて気絶した。倒れる彼を抱きとめ、リリアはただそっと目を閉じていた。
駆け寄ってきたせ生徒が気絶した少年を運んで行く。リリアは手の傷を心配されたが、気にする事は無いと微笑み、何の呼び動作もなく自らの手を完全に治癒してみせた。
回復魔法は元々得意だったようだが、今の様子ではそれもさらに上達したように見える。自らの身体に触れる事もなく、何もせず回復する……。どういう仕組みなのか。
彼女は振り返り、それから悲しげに微笑んだ。今リリアがどんな気持ちなのかは察するにあまる。だが……だからといって、ここで立ち止まるわけにはいかないから。
リリアの肩を叩く。少しでもその気持ちの揺らぎをやわらげてあげる事が出来るのならばいいのだが……そうもいかないだろう。ふと振り返ると、勇者部隊の仲間たちが集まってくるのが見えた。
俺たちは一度状況を確認するために校舎の中へと移動した。教室の殆どが避難スペースか救護所になっているらしく、校内は学園祭時に匹敵するような込み具合だった。そんな中、俺たちは学園長室を目指す。
巨大な広間の中、アルセリアはアイオーンと共に居た。二人が同時にこちらを見ると、俺は二人に駆け寄る。
「とりあえず一区切りだ。大聖堂騎士団は外に追い出したよ」
『そのようですね。ご苦労様でした、夏流』
アルセリアの労いの言葉は淡々としていた。俺もまた、淡々と話を進めねばならないだろう。嘆いていても、仕方が無いのだから。
「大聖堂は何を狙っているんだ? 何故シャングリラを攻撃するような真似をする? 強硬手段にも程があるだろう」
『彼らは急いでいるのです。時間がないと、そう考えています。彼らが欲しいもの、それは学園の戦力もそうでしょうが、何よりもこの塔――ラ・フィリアにあります』
あっけらかんと答えた学園長にちょっとだけ拍子抜けする。ナナシの知り合いにして謎多き鎧の女、アルセリア学園長……。当然のように俺に簡単に謎は明かさないと思っていたのだが。
『かつてこの塔は魔王の物であった事はご存知ですか?』
「……ああ。確かにそう聞いた事がある」
『それでは、この世界に点在する古代遺跡の存在については?』
「この間体験したよ」
『結構です。では、この塔は嘗て魔王が管理していたダンジョンの一つであると言えば通じるでしょう』
アルセリアはそういいながら巨大な椅子に腰掛けた。しかし、イマイチ意味はわからない。魔王の管理していたダンジョンの一つ……? それが大聖堂と何の関係が?
『この塔は魔王の所持していた建造物の中でも特に重要な拠点であるとされていました。ディアノイア、及びにシャングリラとは、巨大な古代遺跡の真上に作られた街なのです』
という事は、この街の地下には、北方大陸で見たようなアンダーグラウンド領域が広がっているという事になる。
古代遺跡を手にする利点など何があるだろう? 考えてみる。古代遺跡から発掘されるものは機械……その程度ではないのか。
いや、違う。その機械を魔物として意のままに運用していたのが魔王ロギアだ。もしもこの建造物、ならびに地下遺跡にロギアのように魔物を操る術があるとすれば話は別だ。
強大な軍事力……機械兵器と学園が有する生徒達が同時に手に入るのならば、確かに無理をするくらいの意味はあるのかもしれない。だが、どうして今なのか……一体何を急いでいるのか。
『付け加え、ここにリリアが居る事が知られてしまったのならば、彼らは尚の事シャングリラを落としにかかるでしょう。リリアは何よりも今彼らが欲している物の一つですから』
「……魔王の力、か?」
『勿論それもあるでしょう。ですがそれだけではありません。ただそれだけ……というわけではないのは、貴方も既に気づいているのでしょう?』
肝心な事をはぐらかすように彼女はそう語る。まあ確かに、そりゃそうだ。リリアの中にはロギアがいる。でもロギアはリリアを支える陰の人格のようなもの……。しかもロギアは、リリアの中の何かを封じる存在でもあるという。
聖剣リインフォースに纏わる謎は前の勇者であるフェイトしか解き明かす事は出来ないのかもしれないが、何はともあれリリアには謎が多い。格段に強く腕を上げている今だからこそ、その不安は看過出来るものではない。
『預言されし者とは既に邂逅を果たしたようですね』
「……マリシアを知っているのか?」
『大聖堂騎士ですから。しかし、マリシアは何も今日急に現れた存在ではありません。魔王大戦自より、密かに暗躍していたクィリアダリアの兵器なのです』
兵士ではなく、兵器という事場を用いるアルセリア。確かにその言葉の通り、アレはもう人ではない。武器……兵器、そうした類の物だ。
『魔王率いる魔物の軍勢を踏破することに、マリシアは少なからず貢献しました。大聖堂が抱える切り札であり、国を背後から動かしてきた巨大な力でもあります。ですがマリシアの存在は長らく人々に伝わる事も無く、封殺されてきた事実です。本来ならば、簡単に露呈するような事ではありません』
「だったらどうして……?」
『全ては大聖堂の『焦り』が生む事……。預言の時、滅びの戦争が迫っているのです』
そろそろアルセリアが何を言ってるのかさっぱりわからなくなってきた。腕を組んで考え込むが、スケールがどんどんデカくなってる気がするのは俺の気のせいなのか?
『……今の貴方達には、少し支離滅裂な話だったかも知れませんね。ですが直に言葉の意味は判る時が来るでしょう。今は目前の聖堂騎士団をどうするのかが問題です』
「……そ、そうだな。だが、このまま篭城戦ってわけにもいかないだろ? いくらシャングリラが要塞都市だからって、こっちは殆ど戦闘経験のない素人軍隊だ。本物の騎士団相手にどれだけやれるか……」
全滅するようなことは早々起こらないだろうが、戦えば戦うほど被害は広がってしまう。生徒の中にはまだ学園で何も学べて居ないような素人みたいな子もいるし、実戦経験のない生徒や生産学科のやつもいる。戦闘に巻き込まれれば市民同様ひとたまりもない。
だから、出来れば篭城戦は望まない所……。このままここに篭るよりも、なんとか打開策を探さねばならないだろう。
『……これはわたしの勘ですが』
考え込む俺たちにアルセリアは人差し指を立てて告げる。
『敵はそう長い間は包囲を固めないはずです。少しの間様子を見て、今は身を休める事が大切でしょう』
「……また攻めて来るかもしれない。どうしてそう言いきれるんだ?」
『向こうも準備が出来て居ないでしょう。こちらに勇者が居るとなれば戦力不足は確実……。向こうもきちんとした切り札を運用するか、撤退するかを選ぶでしょう。どちらにせよ猶予はあります。浮き足立っている皆を取りまとめ、戦闘に備えてください』
成る程、確かにそうだ。並の戦力では攻めても落としきれないのは目に見えている。だったらむこうはきちんとしたマリシアを投入するなり増援を呼ぶなりするはずだ。それまでには一応時間がかかる、か。
背後の皆と顔をあわせ、一応一時準備のために各自行動という事になった。一先ず前回のオルヴェンブルム戦でそうだったように、パーティーのリーダーを集めて作戦を練る必要があるだろう。
準備のために解散となり、皆が部屋を出て行く中、俺はアルセリアと向かい合って居た。色々と訊きたい事はあるが、一先ず一つだけ。
「リリアが狙われたのは、魔王を有するから……それだけじゃないっていうのは、どういう事なんだ?」
『言葉通りの意味です。彼女には魔王を有する以前に、大聖堂に狙われるだけの理由があるのです』
立ち上がったアルセリアは俺の前までのしのしと歩いてくると、腕を組んで俺を見下ろす。
『大聖堂は来る滅びの戦争に備える為、国を一つに纏めながら戦力を掻き集めねばならないと焦っている。しかし今、国は真っ二つに二分されている状態にあるのはご存知ですね?』
「戦争を好まない女王派……和平派と、その戦争とやらに備えている大聖堂派……その二つだろ?」
『ええ。ですから大聖堂は早々に女王も自らの手中に収めたいと考えている。しかし女王マリアは先の大戦で先陣を切ったほどの剣の腕を持っていますし、魔法にも長けている……。更に彼女を支持する人間も多く、女王を言うがままにするのは余りにも難しい。大聖堂は早い話、女王の代わりを欲しているのです』
それは俺も知っていることだ。だから娘であるアリアを女王に仕立て上げてマリアを暗殺しようという計画さえたてた。それは八はフェンリルの働きで阻止されたわけだが……。
「マリアの身はアリアが見つかるまでは安全のはずだ……確かそう聞いてる」
『そのはずでした。ですが、大聖堂は現在女王を拘束した状態にあるのです』
流石にそれには耳を疑った。何故そんな事になるのかがまずわからないし、余りにも強硬手段過ぎてどうにもそれは上手い手だとは思えない。
マリアを拘束したりしたら国は内部分裂をを起こし、大聖堂の思う通りになど絶対に動かなくなるだろう。今回のシャングリラの件もそうだ。そこまでして焦っている理由は、先を急ぐのは何故なんだ?
『勿論女王が捕まった事は公表はされていません。ですが代わりが手に入れば直ぐにでも彼らはマリアを殺す事でしょう』
「そんな簡単に行くか? アリアは北方大陸にいるんだそんな簡単に見つかるとは思えないが……」
『彼らは女王の血を引く人間を発見する特殊な術を知っているのです。女王の血筋の人間は特別ですから、見つかるのは時間の問題でしょう』
そういえば確かにマルドゥークがそんな事を言っていた気がする。だとすれば女王の身に危険が迫っているというのはやはり避けられない事実か。
『それに、代用品はアリア・ウトピシュトナだけではありません。他の代用品を使う事で、彼らは国を取り急ぎ纏める事も厭わないでしょう』
「……他の代用品?」
聞きなれない言葉に首を傾げる。そんな俺を見下ろし、アルセリアははっきりとした口調で告げた。
『時期女王として相応しいのは、アリア・ウトピシュトナよりもむしろ――リリア・ライトフィールド……いえ、リリア・ウトピシュトナであるというのが、大聖堂の考えでしょう』
「……はっ? 今なんつった?」
そう鎧の顔で抑揚も無く淡々と言われるとリアリティってもんがないんだよ……。今完全に俺の考えの斜め上をぶっちぎる単語が放たれた気がしたんだが。
アルセリアは何度でも繰り返すといった様子で俺を見下ろす。そうして小さく息を吸い、それからもう一度、今度はわかりやすく言ってくれた。
『次の女王に、勇者であり魔王であり、そして女王の血筋でもあるリリア姫を使うのは、大聖堂にとって有意義なのです』
「…………リリア、姫?」
勇者であり魔王であり――女王でもある?
なんだそりゃ。設定多すぎだろリリア――。
だが、そこで色々なものが繋がった気がした。冗談だろと笑い飛ばすシーンかもしれない。でも、今はそんな気分にはなれなかった。
アルセリアは当然のように俺に語る。だからそれは嘘ではなく、当然のようにある自然の摂理。俺がただ知らなかっただけの、当たり前の事実。
『リリア・ライトフィールドは、フェイト・ライトフィールドとマリア・ウトピシュトナの間に設けられた子なのですから』
頭が痛くなりそうだった。
誰か、このどうしようない状況をなんとかしてくれ。俺はこっちの世界に来て、初めて神様ってやつに祈りを捧げた――。
それは、一つの間違いが起こした奇跡?
⇒犬リリア観察日記
今後、同じような失敗を犯す事の内容、自らへの戒めとしてこの記録を残す――。
〇月×日(晴)
記録者であるあたし、メリーベル・テオドランドは長年人間の体内を魔物が侵食する呪い、『魔人化』(女性の場合は魔女化)について研究を重ねてきた。
オルヴェンブルムでも随一の錬金術師の家系であるテオドランド家の学術書にも存在しない外法、魔人化の秘薬の秘密については未だに謎が多く、様々な実験を試みた現在でもその解呪法は明らかになって居ない。
秘薬を作成した兄、グリーヴァであれば何らかの情報を知っているものと推測されるが、彼の行方については不明……。限りなく不死に近づいていたあの肉体強化を見れば、あたしよりも遥かに錬金術の高みに居る事は間違いないのだが、いかんせん生きているのかどうかは微妙なところである。
先日のゲルトの魔女化事件を経て、あたしは今まで以上に呪いの解除に専念している。自分ひとりの問題ではなく、兄の作ってしまった業は妹であるあたしが背負うのが道理。何より、ゲルトの努力する姿を応援したいと思うのは当然である。
兄は魔人化という手段を不死、ないし肉体の強化という目的を持ってアプローチ手段としていたように考えられる。事実、その結果として今のあたしがある。
実際にゲルトの魔力総量を以前と比べると、大幅な能力の向上が見られる。ただし、それは呪いの暴走を伴う危険性がある為、容易に発動する事の無いように注意を促しておく。
今回あたしが取り組んだのは、魔人化を他の薬品の効果で相殺する実験である。以前、人の姿に化ける猫の精霊から採取した素材を元に生み出した魔人化対抗薬を自分に服用した所、魔人化は抑えられなかったどころか猫科動物に好かれてしまうという副作用が発生した。
頭部に残る猫の耳ないし肉体の猫的特長は恐らく化け猫の影響だと思われる。精霊を元にした薬品は人間に奇跡を与えるとされるが基本古くから邪道であるとされてきた。その結果としてがこの耳であるのならば、その罰は甘んじて受けるべきなのかもしれない。
秘薬についての研究を諦めるわけにも行かず、今回は他の精霊薬について実験を行う事にした。擬似的に作成した魔物を濃縮した呪いの小瓶、魔人化薬を作成。ただし、症状は軽度となるように調整。
魔人化薬を野良犬一匹に投薬し、犬に魔人化を施す(小動物では耐え切れず即死する)。犬は意外と落ち着いた様子でなんとも無いように見える。
次にゲルト・シュヴァインに買い物に行かせ、そこで精霊薬を入手。いくつかの薬品を独自の知識に基づき配合し、犬に投薬する。経過を見る為、僅かな期間、この実験体を室内で育成する事に。
〇月×日(曇)
秘薬相殺の経過を見ていた実験動物の様子が明らかに変化していた。どうやら犬から人間に近づいているように見える。全長凡そ40センチほどの犬が、今や二足歩行までしようとしている。
妖精の秘薬の配合に問題があったのだろうか? 薬品の素材にリリア・ライトフィールドの物と思われる頭髪が混じっていた可能性を指摘。犬は現在小型のリリア・ライトフィールドと化していた。
そのままにしておくのも問題なので、服を着せる。寝坊してソファから起きたゲルトが実験動物を見て大層驚いた様子であたしに言った。
「り、リリアです! リリアがちっちゃくなってますっ!?」
寝起きなのでどうやら少々頭がぼうっとしているらしい。あたしは実験の事をゲルトに伝えた。
「成る程、実験動物がリリアのようになってしまったのですか……。それにしても、本当にリリアそっくりですね」
ゲルトはリリアのような犬を抱きかかえた。犬そのものは全くの健康らしく、尻尾と耳を元気良く振っている。犬がゲルトの頬をなでると、ゲルトは目を輝かせてあたしに言った。
「この子はたった今より、犬リリアと名づけましょう」
何を言っているのかよくわからなかったが、とにかくこの子は少しおかしい。
「それは実験動物だから」
「でも、しばらく経過をみるのでしょう? だったらわたしが世話をします!」
「……ペットじゃなくて、あたしたちの身体に関わる大事な実験……」
「リリアの顔をしたものを実験に使うなど言語道断です! 犬リリアはわたしが面倒見ます!! ねー、犬リリア〜?」
犬リリア(仮)にほお擦りするゲルト。どうやら余程犬リリア(仮)が気に入ったらしい。
部屋の中では犬リリアは放し飼いになった。ゲルトが掃除する後につき、犬リリアはとことこ歩いている。二足歩行が容易に出来るとなると、これはこれでちょっとした新生命なのではないかという好奇心が沸いてくる。なんにせよ眠いので、今日は後の事はゲルトに任せて寝る事にする。
〇月×日(晴)
「犬リリア〜! 犬リリア〜っ!」
「わんわんっ」
「きゃーっ! きゃああああっ!! 犬リリアーッ!!」
ゲルトの様子が明らかにおかしい。もしかしたらなんらかあの犬からおかしなものでも分泌されているのかも知れない。危険性を考慮しゲルトから引き離そうとしたが、ゲルトは応じない。
宿主を生み侵食するタイプの魔物と化した可能性も否めない。非常に危険性が高い。ゲルトは涎を垂らしながらベッドの上で犬リリアと転がりまわっている。非常に危険。
「ゲルト、その犬リリアは危ないかもしれない」
「犬リリアは悪い子じゃないんですっ!! だめー!! 犬リリアを連れて行かないでーっ!!!!」
と、引き離そうとすると泣きながらすがり付いてくる。ゲルトの精神状態に何らかの崩壊が発生している事は明らかである。犬リリアを調査する事にした。
犬リリアの身体を調べてみたが、見た目敵には限りなく人間に近いが、中身も頭脳も犬そのものである。精霊に近い存在と成っているようだが、言語を持たぬことからも知性は感じられない。となると、原因は犬リリアにはないように思える。少なくとも人間に寄生するようなものではないようだ。
一安心したのも束の間、ゲルトが犬リリアを追いかけて床にはいつくばって移動を始めた。机の下にもぐりこんだ犬リリアを構うためにおしりを突き出してふりふりしている。パンチラである。
「ゲルト……」
「なんですか? 今いいところなんです、話しかけないでください」
「…………」
ゲルトの病状は悪化の一途を辿っている。
〇月×日(曇)
余りにもゲルトの状態が悪いので、犬リリアを抱いたまま寝ているゲルトの腕からこっそり犬リリアを奪い、犬リリアに解毒薬を飲ませた。しばらくすると順調にただの犬に戻り、それを野に放つ事にした。
目が覚めたゲルトは犬リリアが居ないことを大層悲しみ、部屋の隅で膝を抱えながらわんわん泣いていた。しかしこれもゲルトのためだと心を鬼にする。
〇月×日(雨)
ゲルトが危険だ。ゲルトは昨日から全く食事も喉を通らず、街中を犬リリアを求めて徘徊しているようだ。不眠不休の行動により、流石のゲルトにも疲労が色濃く見える。
状況を打開するためにリリアの部屋を訪ねた。リリアに事情を説明し、翌日に備えて作戦会議を行う。
〇月×日(晴)
「ゲールトちゃーん」
ゲルトの状態がようやく安定した。リリア・ライトフィールドに頼み込み、犬リリアのぬいぐるみを作ってもらったのである。
ちなみにリリアも同じように猫ゲルトなるものを作成し、持ち歩くようにしているという。おそろいというものの効果か、ゲルトは何とか気持ちを落ち着けたようだ。リリアはゲルトに詳しい。
「犬リリア……。どこかで達者で暮らしているのでしょうか……?」
夜空の星を見上げながらそんな事を言うゲルト。その手の中にはリリア手作りの犬リリアぬいぐるみがしっかりと握り締められていた。
今後このようなことにならぬよう、自分自身へと強く戒め、ゲルトの不安定さを考慮した実験を行う予定である。
尚、犬リリア事件については関係者三人だけぞ知る事とし、この記録は金庫の中に保管し、外部への露呈を防ぐ物である。
〇月×日 メリーベル・テオドランド 記




