裏切りの日(1)
出会いの日の事を思い返すと、直ぐに脳裏を過ぎるのは雨の音と独特の土埃のにおい――。
声をかけてくる人など、一人や二人ではなかった。当然の事である。リリア・ライトフィールドは、勇者の子だったのだから。
シャングリラに住むようになり、ディアノイアに通うようになり、リリアに近づこうとする人は沢山居た。学園の生徒、教師、教会の神父、大聖堂の神官……。
世界で最も有名な戦士の娘になったことは、彼女にとって決して幸せだけで出来た事実ではなかった。好奇の視線に晒され、近づいてくる人間など信用出来なかった。何よりもゲルトに負い目を感じていた当時のリリアにとって、学園生活は決して楽しいものではなかった。
それでも、なんとかうまくやっていけるようになったのは、リリアが他の生徒よりも劣っているという事実がはっきりと広まったお陰だった。勇者の娘なのに大したことない――そんな言葉が、彼女への興味をゆっくりと人々の中から薄れさせていった。
誰も信じられないから一人だった。学園に行く事を決めたのは自分自身だった。だから誰のせいでもなく、仕方の無いことだと考えていた。
その日は一人、突然の雨に降られて商店街の軒先で雨宿りをしていた。ただただ、静かに振り続ける雨をぼんやりを見上げ、重いリインフォースを引き摺って少女は何をするでもなく立ち尽くす。
「こんにちは」
そんな時だった。ふと、隣を見るといつの間にかそこには一人の少年が立っていた。ウェイター姿の少年はリリアに傘を差し出し、にっこりと微笑む。
「初めまして! 見たところお困りのようだけど、大丈夫かい?」
リリアは答えなかった。無邪気な笑顔を浮かべ、悪意の無い言葉をかける少年。しかしその時のリリアにとってこの世界の全ては恐ろしいもので、全ては信じられないものだった。
内気に凝り固まった疑心暗鬼の心は少年に笑顔を返すことすら許さない。視線を反らすリリアに、少年は困ったように笑いかける。
「雨に降られちゃったんだろ? それとももしかして、一人で雨を見ているのが好きだったのかな」
「……そういうわけじゃ」
「へえ? ねえ君、名前は? 俺はアクセル・スキッド。爽やかイケメン学生さ」
握手を求め、手を差し伸べる少年。リリアは戸惑いながらその手に触れ、それが離れてしまう前にアクセルはしっかりとリリアの手を握り締めた。
暖かい手だった。誰かの手に触れるのは酷く久しぶりで、涙が出そうになった。本当は心細くて、故郷に帰りたくて、どうしょうもないくらい、逃げ出したかった。
顔を上げる。少年は相変わらずにこにこ笑っている。その笑顔を見ていたら、名を名乗るくらいはしても罰は当たらないんじゃないかと思えてきて。
「……リリア。リリア・ライトフィールド……です」
「リリア? ああ、勇者の女の子か! へえ、君みたいなちっこい女の子が勇者ねえ〜……」
やはり好奇の目で見られるのだろうか? そんな不安が脳裏を過ぎる。しかし少年はリリアに傘を翳すと、そのまま雨の中に手を引いて躍り出た。
跳ねる水の中、舞うようにくるりと回り、アクセルは自らは雨に打たれながら、リリアの雨宿りしていた店の正面にある喫茶店を指差した。
「俺、あそこでバイトしてんだ。君があんまり寂しげに雨宿りしてるもんだから、営業したくなっちゃってね。暖かいコーヒーが自慢なんだ。是非飲んで行ってよ」
「……コーヒー?」
「ありゃ、コーヒー飲めないか? う〜ん、じゃあ暖かいミルクとか……」
「いえ! あの……コーヒー、好きですよ? 甘くないほうが……好きなんです」
「そうなの? 意外だな、そんな顔して大人気取りかい? あはははっ!! まあいいや、兎に角寄ってってよ。そうじゃなきゃ、君は雨が止むまであそこで一人ぼっちでいそうだから。そういうの、見てらんないだろ?」
当たり前のようにそう言って店へとリリアを連れ込むアクセル。そうして差し出された暖かいコーヒーを飲み干し、リリアは目尻に涙を浮かべて俯いた。
アクセルは正面の席に腰掛け、テーブルに頬杖を着き、リリアがゆっくりとコーヒーを飲む様をじっと見守っていた。シャングリラの街に来て、初めてリリアが心を開けると思った人物……それが、アクセル・スキッド。
裏表の無い、気さくな青年。リリアにとっては兄のような――友達のような。不思議な関係で。それからも何度もアクセルの店に通い、何度も言葉を交わした。
アクセルはどんなにくだらない、些細な事も丁寧に聞いてくれた。そうして一緒に喜んで、時には怒ってくれた。そこに困っている人が居るから助けるように、そこにリリアがいるから話を聞いてくれる。そんなアクセルの事が、リリアは大好きだったのだ。
辛い気持ちを抱えたまま、それを誰にも語れずに。でも時に話を聞いてくれる誰かがいるだけで、どれだけ救われたかわからない。シャングリラで初めての友達、そして最高の友達――。
それは、ずっと続くと思っていた。ずっと続けていけるのだと、そう信じていたのに――。
「うあっ!?」
アクセルの剣は一撃一撃は確かに軽い。しかしそれはリリアの何倍もの速さで繰り出され、手数でリリアを圧倒する。
防御を貫通し全てを両断する聖剣の一撃も素早いアクセルには命中しない。ただ翻弄され、攻撃を受けるだけでも精一杯で、それでもどんどん押されていく。
友達だと思っていた人が。大切な人が。大切な事を教えてくれた人が。今、自分を殺そうと刃を手にしている――。その事実をどう受け止めればいいのか、少女にはまだ判らない。
「無駄だリリアちゃん。君では俺には勝てない」
「アクセル君……やめてよっ!! リリア、アクセル君を斬る事なんて出来ないよっ!!」
「なら大人しく俺に負けるかい? 抵抗もせず、友達だからという理由で君は戦わないつもりなのか!? そんな甘ったれた事が通用するほど、この世界は甘くはない――っ!!」
三方向から風を纏った剣が回転しながらリリアに迫る。それをリインフォースで吹き飛ばすが、空を舞う剣を空中で受け取ったアクセルがそれをリリア目掛けて投げつける。
まるで舞うように、踊るように――。アクセルは十二本の剣を自由自在に選び、手にし、舞わせ、穿ち、型に嵌らない風のように吹き抜けて斬り抜ける。どんなに防御しても、反撃の糸口が全く見つからない――。
剣を手にするアクセル。指と指の間、両手に合計六本の剣を手にし、爪のように振るう。左右から同時に襲い掛かる交差する一撃をリインフォースで受けた瞬間、聖剣の刀身に亀裂が走った。
リインフォースの刀身が折れる……。リリアの脳裏に焦りが過ぎる。その一瞬の隙を突き、アクセルの放った六つの剣が同時にリリアの両手両足を貫いた。
悲鳴を上げる間も、落としてしまった聖剣を拾う間も無い。投げる動作と同時に身体を捻り、あらかじめ呼び寄せていた剣を蹴り飛ばしてリリアの顔目掛けて飛ばす。全く防ぐ手段も無いまま、目を見開くリリア。その剣が勇者の瞳を貫く直前、背後から伸びた黒い腕がその剣を握り締めていた。
『下がっていろリリア。どうやらお前の適う相手では無いらしい』
「フェ、フェンリル……」
『戦うつもりがないならとっとと去れ。戦えない勇者なんぞに用は無い――。お前は所詮、その程度の人間だという事だ』
「――そんなこと、おまえに言われる筋合いはないっ!! アクセル君はリリアの友達なんだ! アクセル君と戦うなら、フェンリル! おまえだって私の敵だ!!」
リリアの悲痛な叫びを受け、しかしアクセルは微動だにしない。勿論フェンリルもそうだった。リリアはただ、冷や汗を流してぞっとするしかない。
何故こうまで、ただ相手を殺す事だけに集中出来るのか? もう二人ともリリアの事など眼中にないのだ。どんな言葉も交わす積もりは無く、ただ状況を制する為に敵を殺す事だけを考えている。
その算段を、結末を、そしてそれに至るための術を考える。試行錯誤の先にある物は確実などちらかの死で、まるでそれを当然のように行う二人が余りにも遠く感じられた。
本当はわかっている。戦わないわけにはいかないのだと。甘いのは自分なのだと。それでもアクセルは斬れない。斬れそうにない。歯を食いしばり、視線を反らす。
「やっぱりそうなるか……。リリアちゃん一人なら問題外だが、あんたも出てくるなら話は別だ――。まあ、丁度いい。どうせあんたもお尋ね者だ。執行者の仕事が減るなら――手間をかける理由としては充分だっ!!」
二本剣を構え、駆け出すアクセル。ロングソードを片手にそれと向き合うフェンリル。二人がお互いの間合いに踏み込んだ時、大気は激しい剣戟に震えた。
リリアはただ呆然とその様子を見守っていた。二人が強い事は重々承知しているつもりだった。しかしアクセルの剣も、フェンリルの剣も、明らかにリリアに向けられていた時とは質が違う。
強くなれたのだと思い込んでいた。もっと強くなるのだと意気込んでいた。だが、違うのだ。二人は既に遥か高み――。目で追う事がやっとの打ち合い。それを自分には二人とも向けなかったのだという事実。
手加減をされたという結果が堪らなく悔しかった。自分は、そう。友達だと思っていた人物に、『本気でやりあう価値もない』と判断されたのだから。
「……どうして」
そんな理由は最早この際どうでもいい。誰に問う事も出来ないのならば、それは意味を成さない。
「……どうしてえっ!!」
それでも言葉を繰り返すのならば、それは既に疑問ではない。
それはそう、端的に言えば――祈り、だった。
⇒裏切りの日(1)
激しく火花を散らす剣舞。伝説の英雄の一人であるフェンリル相手に、アクセルは全く引けを取らない戦いを繰り広げていた。
いや、むしろ状況はアクセルが有利であるように見える。片手で十二本の剣を全てさばききれるはずもなく、戦闘はリリアとの焼き直しのようにフェンリルの防戦一方である。
無数に遅い来る県を靴底や剣で弾き飛ばしながらフェンリルは後退する、刃に魔力を込め、静かに息を吐いた。
『噂に聞いた事がある……。執行者の中に、妙に強いガキがいると。歴代執行者の中で脈々と受け継がれる特殊剣術の唯一の継承者で――そうか、成る程。お前が噂の大聖堂の切り札――舞い踊る剣士か』
「そんなに大したもんじゃないし、ロクな力でもないけどな……。だが、事相手を『殺す』事に関しては一級品の能力だ。魔術は使えないが、その分努力は全てこいつの扱いに注ぎ込んだ……。いくら十年前の英雄だろうが、俺の剣は見境なく踊り狂う」
『魔法は使えない、か。自らの欠点を敵に露呈するとはな――。馬鹿が』
後退したフェンリルは掌に魔力を収束させ、無詠唱で術式を発動する。漆黒の魔力の矢が数十本束ねられ、同時にあらゆる方向から剣士に襲い掛かる。
しかし剣士はそこから一歩も動く事はなかった。ただ両手に握り締めていた剣を空中に解き放ち、風の魔力を発動する。
超超高速で主の周辺を回転する十二本の剣は魔法の矢を全て打ち落とす。まるで何が起きているのかリリアには判らないその状況下、アクセルは全ての魔法を叩き切って見せた。
「魔法が使えないのは俺にとって別に欠点じゃない。ただちょっと――不便なだけ、だ」
『成る程な……大したものだ。よくぞその歳でそこまで練り上げたものだ』
「英雄のお墨付きとくりゃ俺も大したもんだな。だが、これでもまだやるのかい? 魔法剣士のあんたと俺とじゃあ、ちょっとばかし相性が悪そうだが」
アクセルの指摘通り、フェンリルは接近戦一本で戦うタイプの戦士ではない。言うならば魔法剣士――。魔術と剣術を半々でようやく並の戦士と同じ働きが出来る。
剣術も魔術も常人のそれを超越しているとは言え、魔法剣士は中途半端な戦闘スタイル――。生粋の剣士とやりあえば打ち負けるし、生粋の魔術師と打ち合えば魔術は瓦解するだろう。
そう、魔法剣士とはパーティーの中で様々な役割を果たすからこそ有意義な戦闘スタイルであり、単独戦闘に向いているとは言えない。自らより格下相手ならば圧倒的有利に戦えるその能力も、一つを極めた実力者は天敵と呼ばざるを得ないのだ。
勿論、フェンリルはそれを判っていた。ロングソード一本では当然打ち合いには負ける――。魔法は聖剣で弾かれ、剣も通じない。生半可な技術の技はアクセルには通じないのだ。
剣士は風を纏いながらゆっくりと前進する。その両手には鋭い刃を構え、一歩一歩確実に。その姿を前に、フェンリルは僅か、リリアに振り返って剣を収める。
『こんな時、お前ならどうする?』
リリアの戦闘スタイルは、どちらかといえば戦士に近いものの、能力的に魔法剣士――フェンリルに近いと言えるだろう。
足りない剣術と近接戦闘における破壊力は聖剣が補い、魔法もそれなりに扱う事が出来る。しかしフェンリル同様、その二つの能力を持ってしてもアクセルには及ばないだろう。相性が悪すぎるのだ。
魔術師相手ならば絶対的威力を誇る退魔の聖剣で捻じ伏せられる。どんなに頑丈な敵だとしても、バターを切るように聖剣は両断するだろう。だが攻撃が当たらない、圧倒的に技術面で劣る相手を前にしたとき、どう戦えばいいのか。
奇しくもブレイドダンサーの異名を誇る執行者は二人の反逆者に対しての切り札であった。相性的に彼以上の適任はいなかったであろう。それほどに最高の、そしてリリアとフェンリルにとっては最悪の追っ手……。
だが逆に言えば、彼以上に相性の悪い敵など存在しない。彼を退ける事が出来れば、いくらでも逃げおおせる事が出来るだろう。このワンシーンはそう、今後の逃亡の可否を問う、大事な一局。その場面でフェンリルは問うのだ。勇者よ、お前ならどうする? と――。
リリアは答えられなかった。アクセルと戦えないというのもある。だが単純に勝ち目が見つからないのだ。魔法でも剣でもアクセルには適わない。速さだけで言えば軽くフェンリルをも凌駕している。そんな相手に、一体どうやって立ち向かえばいいのか――。
ふと、リリアの脳裏をフェンリルとの会話が過ぎる。英雄は言っていた。魔法と剣、二つをまるで別のことのように考えるのが悪いのだ、と――。
その答えに至った時、フェンリルは笑ったように見えた。そう、男はまるでそうリリアを導くように、自らの魔力を解放し、そして見せ付ける。
『英雄と呼ばれた人間の力……その片鱗を味あわせてやろう』
身体の力を抜いたフェンリルが瞳を見開く。次の瞬間、周囲の大地を根こそぎ吹き飛ばすほどの魔力が解き放たれ、その衝撃はリリアを後方へと大きく吹き飛ばした。
勿論吹き飛ばされたのはリリアだけではない、アクセルもまた風に守られながらその恐ろしい魔力総量に向き合っていた。漆黒の魔力が蠢く中、フェンリルは自らの剣に触れる。
「我が剣は深淵の呼び水……。我が魂は冥府の破戒者。我が身全ては信を穿ち、万全の命を分け隔て貪り食らう――!」
フェンリルの持つ剣は確かに上等なものではあるが、魔剣でも聖剣でもない、ただのロングソードである。そのロングソードを指先でなぞり、刀身に魔力を込める。
一筋の光が刀身を行き渡った時、刃は見る見る紫の光に包まれた。ロングソードを覆うのは巨大な魔力の刃――。それは夥しい数の魔力を練りこんだ、圧力のある刀身。
今や大剣と化したそれを一振りすると、大地が音を立てて炸裂した。全く理解不能なその破壊力を前に、リリアもアクセルもただ口をぽかんと開けたまま唖然としていた。
『見るのは初めてか? ならば教えてやろう。これが――魔法剣というものだ』
下段に剣を構えるフェンリル。紫の刀身はぎらぎらと輝き、激しく渦巻く風さえも侵食せんと大気を闇に染めて行く。
必殺の一撃が来る――。身構えるアクセルを前に、フェンリルはリリアの制止も聞かずに前に踏み込んだ。
『終焉の呼び声……! 付加魔法剣――ッ!!』
下段から空へと振り上げられる闇の刃。その閃光は正面を全て飲み込み、回避する事も出来ない超広範囲を焼き尽くす。
天へと光の柱が立ち上り、轟音と閃光が夜の世界を明るく照らし上げる。大地が根こそぎ焼き尽くされる猛々しい魔力の波動の中、アクセルは全ての剣を防御に回してそれを防いでいた。
たった一瞬で何もかも、遥か彼方まで草原を吹き飛ばした魔法剣は防いだとは言えアクセルの全身を焼き、激しいダメージを与えていた。その一撃が終わる頃、荒野と化した大地にアクセルは膝をついていた。
振り返れば背後に待機していた執行者たちは根こそぎ蒸発し、一人も生き残ってはいなかった。むしろこれが狙いだったのか――そう考えて顔を上げたアクセルは眉を潜め、静かに目を閉じる。
「いや……成る程。ただの、目くらまし……か」
正面には既にフェンリルの姿も、リリアの姿もなかった。しかしそれを追う余力も無く、アクセルはその場にどさりと倒れこんだ。
「さて、何からお話したもんですかねえ……」
夕食を終え、八はそう切り出した。実際に話を聞いているのは俺とアイオーンだけで、残りは別室で休んでいるアリアについていた。というのもちょっと困った事情があるのだが、それは一先ず置いておく。
ご馳走された夕食は決して豪勢とは呼べないものだったが、しかし充分に美味いものだった。八はつかみ所の無い男だが根っからの悪人というわけではなく、盗賊だからといって俺たちを騙すような人間ではないと思える。
それでも八の言う事を全て信じるのは難しかった。俺もアイオーンも、ただその話に耳を傾け、戸惑いを抱えたまま考え込んでいた。
事の発端は、八の仲間が掴んだ情報であった。元々、大聖堂と王室の仲は睦まじいものとはお世辞にも言えなかったのだが、大聖堂による女王の暗殺だなんて、そんな話が持ち上がるのは初めてのことだったという。
大聖堂元老院は、古から一つの大きな目的を持って動いている組織だという。その目的とは――そう、単なる神話でも信仰でもなく、ヨト神と呼ばれた存在の謳歌した時代を再生する事。つまり、この世界を支配し、そして神代の世界へと作り変えることだという。
それがどういう事を指すのかはわからないが、兎に角クィリアダリアの侵略戦争、そして魔王との戦いも全てはその最終目的――神代の復活の為の準備に過ぎないのだという。ヨト信仰の信者を増やし続けているのも、何れ来る神の時代への人類の選定であるらしい。
まあその辺がどういうことなのかは俺にはさっぱりわからないし、語る本人である八もよく判って居ない様子だった。兎に角その、神の世界の復活だとかいうわけのわからない目的を本気で信じてしまっているのが、大聖堂元老院という組織なのだ。
「大聖堂は魔王亡き今、世界を支配するのはクィリアダリアであると主張している。このまま周辺国家だけではなく、別大陸の国やまだ独立した国家を全て軍力で捻じ伏せ、歯向かうものは滅ぼすべきだと考えているわけです。ところがどっこい、現女王のマリア・ウトピシュトナはそれに乗り気じゃあない」
大聖堂にとってアリア女王の存在はそもそも目障りなものだったという。聖女とまで言われ、先の魔王大戦時でも勇敢に自らも戦ったと言われるマリアは、簡単に引き摺り下ろせるような間の抜けた人物ではなく、非常に聡明でなおかつ腕も立つ武人……。民衆からも圧倒的な支持を受ける優れた指導者である。
だからこそ、マリアの存在は大きすぎ、そしていう事を聞かない女王の事は常々疎ましく思っていた大聖堂が、女王を暗殺するという計画を立てているとしても全くおかしい事はなかった。
「とにかく、大聖堂は世界中全てを侵略したいんでさあ。ですが、女王陛下はそれを望まない……。出来る限りは平和であるべきだと考えているわけですわ。さて、これで意向の合わないまま両者は十年の時を経てしまい……そう、そろそろ具合良く育ってきたわけです。アリア姫という、次の女王が」
クィリアダリアの王は常に女でなければならないというしきたりがある。そして王となる人間は王族の血を引いていなければならない。
単純に王族は優れた魔力の継承者であり、膨大な魔力総量を宿す。その上特殊な魔術を受け継いでおり、王族はオルヴェンブルムの城、リア・テイルの結界を管理する役目も持っているらしい。
更には神代より神の血を引くという王族は絶対的に代えの存在しない物……。代用品が存在するとすれば、それは王族の血を引く次世代の少女に他ならない。
「アリアの姫さんの確保は、まず絶対的に大聖堂にとって必要な条件なんですわ。マリアが死ねば、姫さんを女王に仕立て上げる事が出来る……かつ、まだ幼いアリア様は右も左もわからない政治の世界で、結局元老院を頼らざるを得なくなる」
「影からの支配が簡単になる、ってわけか」
「どこでその話を聞きつけたのかは知りやせんが、ある日ぶらりとフェンリルがこのアンダーグラウンドシティに顔を出したんでね。何事かと思ったら、女王暗殺を阻止する手助けをしろというわけでさ。ですがまあ、女王を守るなんてこたあお尋ね者のあっしらには当然無理な話……」
「だから手っ取り早くアリアを誘拐し、暗殺を阻止する事にしたわけか」
アリアがいなければマリアを殺す事は出来ない。そのアリアを攫ったのが嘗ての勇者の仲間だとくれば、最強を誇った英雄たちを相手にアリアを絶対に取り返せる可能性などわからないのだ。マリアを殺して、アリアが取り戻せませんでしたとなればクィリアダリアは滅びの道を辿る事になる。そんな安易な行動には、流石の元老院も出ないと踏んだのである。
事実その計画は成功したと言えるのかもしれない。暗殺は実行されず、マリアは今も娘の帰りを心配して待っていることだろう。アリアは無事であり、そして八たちはアリアを預かっているだけで危害を加えるつもりは無い。クィリアダリアから遠く離れた地下のこの街はアリアの保護場所として確かに最適でもある。
「それで、その誘拐した本人であるフェンリルはどこいっちまったんだ?」
「さあ?」
「さあって……おいおい、知らないのかよ」
「報酬は受け取ってやすから、まあ後はやる事をやるだけでさぁ。ただ、フェンリルの奴は恐らくまたオルヴェンブルムに戻ったんじゃないかと思いやす」
「オルヴェンブルムに……? 一人で元老院と戦う腹積もりなのか?」
「いや、大聖堂には聖騎士団に加え執行者、大聖堂騎士まで居るんですから、いくら元英雄と言えども一人じゃあ無理というもんでしょう」
まあ確かにそれもそうか。しかし、色々と解せない事がある。
フェンリルはオルヴェンブルム襲撃事件を引き起こした張本人だとばかり俺は考えていた。奴は言っていた。クィリアダリアを壊す、と。
しかし奴の今回の行動はクィリアダリアを守る事になっている。言葉と行動が矛盾しているように感じる。だがしかし、あいつに言っていたクィリアダリアを壊すという事が、もし元老院に対する言葉だったのだとするとどうか。
いや、それでも戦争を仕掛けてきたのだとしたら、無意味に命が奪われる事になると知っていたはずだ。でも、あの戦争は戦争と呼ぶには煮え切らない終焉を迎える事になった。幕引きは誰がしたのかも判らないまま、バズノクという国の人間全てが消えるという結末……。
学園から出たという裏切り者の話。フェンリルがオルヴェンブルムを襲撃した理由。消えたバズノクの民衆、そして女王暗殺計画と、その阻止の為のアリア誘拐事件……。
一つ一つの行動に接点などあるのだろうか? それに共通する項目を、俺はフェンリルしか知らない。フェンリルは一体何の味方なんだ? 何を目的として動いている? 敵ではないのか? それとも、何か理由があって……?
疑念は尽きなかった。考えても考えても答えが見つからない。腕を組み、溜息を漏らした。どちらにせよ、ここで考え込んでも仕方が無いのだが……。
「フェンリル……あいつ、一体何を企んでやがるんだ」
「まあ、何がどうなろうとあっしらには関係ないことですがね。また戦争になるようなことだけは、勘弁してもらいたいですぜ。まあ、そう考えているのはフェンリルも同じことなんでしょうがね」
「……でも、あいつはオルヴェンブルムを襲撃した。俺たちの敵として立ち塞がったんだ。その事実は変わらない」
そうだ、フェンリルはゲルトやリリアに襲い掛かった張本人だ。奴のせいで色々あった。奴のせいで――。
ふと、脳裏に過ぎった言葉。しかし俺はそれから意図的に意識をそらした。そう、そんなわけがない。奴のせいで……。
奴のせいで、勇者は強くなり、より立場を強めて行ったなど――。そんな事は――。
「……元老院、か」
救世主としてどう行動すべきか。考えさせられる。
慎重に選ばなければならない。己の今後の行動を。
リリアを、勇者にする為に――。
大切な物、それが何なのかは、もうずっと前から判っていた――。
⇒勇者の休日
わたしが彼の存在をはっきりと意識したのは、恐らくリリアとわたしが初めて刃を交えた時だ。
自分ではどうしようもなかったリリアの剣を止め、彼はわたしと共に戦ってくれた。あの時自分の無力さを呪ったわたしは、同時に彼の存在に疑問を抱いた。
正体不明の救世主――。その存在はあれからもう幾つかの季節が過ぎ去った今でも疑問のまま、それは払拭できずにわたしの中で蟠り続けている。
自分自身が魔女と呼ばれる化物に近い存在になって、わたしは彼の事を以前よりずっと気にかけるようになっていた。それは多分、色々な理由があっての事だと思う。
何となく、気づけば視線の先で彼の行動を追っている自分に気づく瞬間がある。それは別に、恐らくは恋とか愛などという物ではなく、単純に興味から来る行動なのだと思う。そう、わたしは不思議だったのだ。
彼の特異性、その全てを知る事は難しいのかも知れない。だが、リリアが笑って信じるという彼の事を、あの少しだけ間の抜けたお気楽な友人に代わって知らねばならないと思うのは、友達として当然の気持ちだと思う。
そんなある日、わたしは街中で見かけた彼の後をついていくことにした。学園祭も間近に迫り、活気付くシャングリラの中、ナツルは独り言を喋りながら歩いている。
「……独り言、多いですね」
しかしよく見れば、彼はどうも頭の上によじ登っているうさぎと話をしているらしい事に気づく。前々から気になっては居たのだが、あのうさぎはなんなのだろう? もっこもこで、かわいいけど……。
というか、ナツルは気づいて居ないのだろうか。あのうさぎそのものが、何やら膨大な魔力の塊のような気がする。いや、気づいているのだとすればこそ、あれは彼の使い魔なのだろうか。よくわかんないけど。
物陰からうさぎと対話しながら歩く奇妙な救世主の後を追う。とことこ、一人で歩くわたし。段々自分が何をしているのか判らなくなってきて、急に気恥ずかしくなった。
思えばメリーベルの部屋から出てくる時、メイド服のままでここまで来てしまった。本当はお使いでやってきたというのに、これではまるで意味がない。こんなはずれにまできて一体何をしているのか、わたしは。
ふと、昼下がりの公園でナツルは足を止めた。するとうさぎは人間の姿に変身したではないか。使い魔の中にはそういうものも居るらしいが、そんな高等魔術が使える割には魔法センスが一切感じられないのは何故なのだろう。
二人は何やら雑談を繰り返しているようだった。というか、そもそも何か目的があって歩いているわけではなさそうだった。ひたすらに後をつけてみたものの、得られた情報はうさぎが人間になるってことくらいで……。
「ゲルト?」
「はい……。はいっ?」
ふと少しの間ぼんやりして顔を上げると、そこには直ぐ近くにまで迫ったナツルの顔があった。びっくりして転びそうになるわたしの手を取り、ナツルはわたしを抱き起こした。
「危ないな……。そんな物影で何やってんだ? しかもそんな格好で……お前……」
「こ、これは別にいいでしょう!? こういう仕事なんですから!」
自分でも意味の判らない事を言ってしまった。
まあ、当たらずとも遠からずというものです。メリーベルには恩があるのですから、彼女の要求に応えるのは当然の事……。じ、自分で着たがってるわけではないのに。何故この人はこんな……笑いを堪えているんだろうか。
「……そういう貴方は何をしているんですか? ようやく戦争が終わったっていうのに」
「ああ……まあ、少し考え事をな。あ、そうだ。お前あれからリリアのとこに顔出したか?」
先日彼がメリーベルの部屋を訪ねてきた際、リリアの部屋に言ってみるように言われた事を思い出す。勿論、言われずとも会いに行った。しかしリリアは寝ぼけているのか、欠伸をしながら眠たげに目を擦り、わたしの話は殆ど聞いていなかったように思える。
うう、思い返したら落ち込んできました……。リリアちゃん、わたしの話がつまらなかったんでしょうか。それともまたわたしは何か彼女の機嫌を損ねるような事を……あああああっ!!
「おい、大丈夫か……。何一人で急に悶えてるんだ」
「貴方には関係ない事です……。リリアの部屋には行きましたけど、それがどうかしたんですか?」
「どうかした、ってわけじゃないんだけどな……。どう思った? あいつのこと」
「どう、って……眠そうでしたね。何と言うか、とても疲れているように見えました」
「そっか……やっぱりな」
何を考えているのだろう、その横顔をじっと見つめる。遠い場所を眺めながら、ナツルは眉を潜めた。
「ゲルト……お前、リリアのこと、好きか?」
「急にどうしたんですか?」
「いや、まあちょっと真面目な話なんだが……。これからリリアは多分、色々あると思うんだよ。それは俺にはどうしてやる事も出来なくて……だから、自分でも迷ってる。あいつの傍に居ていいのか、とかな。時々考えるんだよ」
寂しげに、遠くを眺めながらぼんやりとした様子で呟くナツル。その横顔は確かに真剣にリリアの事を思っていた。そういう表情を見せるから、なんというか……信じてみたくなってしまう。
素性も判らないこんな奴を救世主と認めるのはどうかと思う。でも救世主かどうかなんて事は多分わたしたちにとってはどうでもいいことなのだ。
彼はわたしにも沢山のものを与えてくれた。乗り越えられなかった沢山の心の壁を一つ一つ越えるために手を差し伸べてくれた。それは多分、とてもすごい事だ。
ナツルはハッキリしないところがある。いつも迷っている。秘密も、多いのだろう。それでも迷って、考えて、辛くても少しずつ前に進もうとしている。だから、それはそれでいいのかもしれない。
「わたしは、リリアの傍に居たいと思います。少なくとも、自分ではそう思うんです」
リリアちゃんは、わたしにとって一番大切な人だ。わたしの世界の中で、一番誰より仲良く居たい人。
かっこよくて、可愛くて、時々ドジるけど、そこがまた良い。普段はずっとあんな感じでも、いざとなるととっても勇敢で、そこがまた素敵なのだ。
ああ、リリアちゃんへの想いを語り始めれば多分一晩潰すくらいは容易いだろう。だが、今はそんな妄想の世界に浸っている場合ではない。
「彼女はガード、固いですからね。心を開かせるのは、難しいですよ?」
「うーん、どうもそうらしいな……。ガード固いのはあいつだけじゃないけど」
苦笑を浮かべ、ベンチに深々と体重を預けるナツル。そうしてそれからふと思い出したようにわたしを見つめ、頭のカチューシャを摘んで言った。
「そういや、前々から言おうとは思ってたんだけど」
「はい?」
「メイド服、似合ってんな」
そんな、どうでもいいことで笑う彼を馬鹿馬鹿しく思う。
なんというか、まあ、そうだろう。きっとガードが固いと思い込んでいるのは彼だけで、きっと皆、彼に心を開いている。それは多分、わたしも例外ではなく……。
世界で一番大切なのはリリアだ。二番目は多分、お父さん。三番目はきっと自分自身で……その次に大切なものはなんだろう。
それは仲間かもしれない。一人でいてはわからなかったこと、沢山の思い、気づけなかった自分……。そうしたものに気づかせてくれるのは、いつだって仲間の存在だ。
だから例えばそう、その仲間の中から一人を代表して選ぶのならば――。四番目に大切な者を、彼であると例えても、別に構わない。
「んー、さて。特訓でもするかな……。もうちょい強くならないとどうにもならないし」
「……貴方がどうしてもっていうのなら、稽古の相手をしてあげてもいいですよ?」
「なんじゃそら。別にいーよ、アクセルあたりを誘えば……」
「いえ、アクセル・スキッドはバイドで忙しい身ですから。そうやって仲間に迷惑をかけられては困ります」
「じゃあ、リリアに……」
「リリアは疲れてるんです! いいからわたしと戦いなさい、ナツル!」
「何故そうなる!? うわ、やめろっ! お前のうっかりはマジで冗談じゃないんだからっ!!」
リリアがこれから大変になるかもしれないとナツルは言った。リリアに何か、とんでもない秘密が隠されているかも知れない事は、勿論わたしにもわかっている。
それでも、わたしはたぶんリリアの味方をするだろう。どんなことになっても、どんなに擦れ違っても、彼女の事が好きである事実は変わらないから。
その時彼は、わたしの隣で共に戦ってくれるだろうか? 本当は一人では心細い。リリアを守りきれる自信はない。でも、もしも彼が隣で一緒に居てくれるなら――。
「うっかりっていうなあっ!!」
それはきっと、とても幸せな事だ。
だからもし、リリアとわたしたちをどうしようもない壁が隔てたとしても、わたしは諦めないで居られる。
大切な物はずっと前から変わらない。むしろこれからもきっと、増えて行くことだろうから。
その悲しいときが来るまで、わたしは友達でいよう。これからもずっと。もっと、仲良くなれるように。その対象に……彼を付け加えても、別に構わない。
大事な物であると……そう付け加えても。別に――。