始まりの日(5)
「ナツル? ああ、何かミスコンの途中で居なくなっちゃったんだよ。え? いや、見つかってないよ。それよりリリアちゃん、あの後どうしたの? 急に居なくなるから皆心配して――ちょっと、リリアちゃんっ!?」
走って走って、その姿を探していた。
祭りの夜の中、たった一人の人間を大勢の群集から探し続ける。それは、このまま終わってほしくないという願いからだった。
一人で走り回るリリアは呼吸を乱しながら懸命に夏流の姿を探す。昼間、彼ともう一人、救世主を名乗る少年と出会ってから、考えていた。
彼らの会話、理解できない内容、そしてトウカという人物の名前と、その時の夏流の悲しげな表情を。
思わず跳ね除けてしまったのは、夏流の事が嫌いだからでも信じられないからでもない。ただ、恐ろしかったのだ。純粋にそれは恐怖だったのだ。
夏流という人物の、救世主の想いに触れる事を恐れてしまった。それは何かを意図したわけではなく、反射的に。そう、今まで自分がそうしてきたからしてしまっただけのこと。
激しい自己嫌悪と混乱の中、リリアは直ぐに引き返した。そして夏流の姿を探したのに、日が暮れても彼の姿は見つからなかった。まるで忽然と、この世界から存在を抹消されてしまったかのように、街のどこにも姿は見つからない。
部屋に行っても、学園も、公園も、駅も、喫茶店も、どこにも居ない。どこに行っても夏流との思い出が脳裏を過ぎるのに、その姿は見つからなかった。
「師匠……」
傷付けてしまったと思う。拒絶してしまったと思う。彼がどんな事情を抱えてるのかは知らないが、それでもちゃんと話を聞くべきだった。
聞いた先、自分の傷つく結果が待っていたとしても、想いを反らすべきではなかった。それはもう何度も経験してわかっていたはずなのに。臆病な自分の本質が彼女を間違った方向へ進ませる。それは癖のように染み付いて消えることの無い、怯えた弱い心。
だから話をしたかった。一言でもいい、何か言葉を聞かせてほしい。何でもいいのだ。どうか、微笑んでいる姿を見せて欲しい。
胸を締め付けるような辛い想い。でもそれは彼も同じこと。それを味わわせてしまった。だからこそ伝えなくては。傍に居て欲しいのだと。裏切ったりしないのだと。
信じたいのだ。信じるために出来る事をしたい。なのにどこにも夏流は居なくて、まるで一人取り残されてしまったかのような気持ちになった。
寂しさで押しつぶされそうな心のまま、足を縺れさせて転ぶリリア。人々が振り返る中、歯を食いしばって立ち上がる。
「師匠、どこ行っちゃったんですか……? いなくなったりしないですよね? リリアを置いて……消えちゃったり、しないですよね……?」
少女の心の中に浮かぶ景色。葬儀の列。棺に入って戻ってきた父親。突然姿を消し、死んでしまったゲイン。
大切な人は皆死んでいく。リリアを置き去りにして消えていく。その時と同じ、いやな予感が払拭できないのだ。忘れられないのだ。
「師匠……! 師匠――っ!!」
人の渦の中、空に向かって叫ぶ。
その悲痛な願いは彼には届かず。その夜の闇はさながら牢獄のようでさえあった。
⇒始まりの日(5)
久しぶりに吸う現実世界の空気。冷たい冬の夜の空に白い息が立ち上っていく。
すっかり現実世界の服装に戻った俺は久々に降り立った屋根裏部屋から下り、屋敷を後にした。
一度は遭難しかけた雪道を歩き、山を下り森を抜ける。人里に出てからも暫く歩き続ける俺に、背後でタキシード姿のナナシがいよいよ我慢できずに言葉を発した。
「あの、ナツル様? 貴方はどこに向かっているのですか?」
「決まってるだろ。確かめに行くんだよ、色々な事を」
何時間か山道を歩き、それでもまだ日は昇らない。コンビニで飲み物と弁当を購入し、駐車場で食べる。ナナシには酒をくれてやると、満足げにちびちび飲んでいた。
田舎の山道風景……それは俺の幼少時代を象徴する景色だ。山と森と川と、それに隔てられて広がる街の風景。ようやく日が昇り始め、世界がゆっくりと明るくなる中、俺はかつて秋斗が暮らしていた家に辿り着いた。
そこは既に空き家になっていた。秋斗の家族も引っ越してしまった後で、もう様子を窺う事も出来ない。それが判れば用は無い。俺はそそくさと歩き出した。
「ナツル様?」
「ん?」
「一体何を?」
「……言っただろ? 確かめてるんだよ。あの秋斗が本物なのか……冬香が本当に死んだのか。それを自分がどう思っているのか」
雪道を歩いているうちに周囲は明るくなってきた。犬の散歩をしているじいさんがナナシの格好をけったいな目で見ていたが気にしない。もう慣れてしまったが、ナナシはコッチの世界じゃたしかに目立つ。
暫く歩き、駅に到着する。始発が出るまではまだ時間が有り余っていた。ホームで暖かい飲み物を購入し、ナナシにも手渡す。
そうして待ち続け始発に乗り、目をぱちくりさせているナナシを連れて移動した。目指す場所は現在の本城家のある二つ駅を越した場所にある街だ。
そこで下りて街を歩き、通学路を歩く学生たちの波を逆走し、ようやく本城家に辿り着く。俺は家を出てしまったので知らないが、俺が家を出た後にこちらに転居したという話を冬香から少し聞いていた。しかし想像通りというか、巨大な洋館がそこにはどっかりと居座っていた。
街の景観にあわせようとかそういう気は微塵も感じられない自己主張の強すぎる我が両親の家を前にし、門の前に立ちつくす。だが、ここまで来てじっとしているわけにもいかない。
「ここは、トウカ様の?」
「ああ、俺の実家でもある。今の時間なら、健康第一の両親は起きてるだろうよ」
呼び鈴を鳴らす。すると直ぐに召使からの返事が来た。本城夏流を名乗ると、召使は慌てた様子でどたばたと走り去っていく音が聞こえる。
しばらくすると扉が開き、母親が顔を出した。相変わらず冬香に似ない、どうにもヒステリックなお顔だ。しかし流石に久しぶりに見た自分の息子に感慨深いものが会ったのか、笑顔を浮かべて歩み寄る。
「久しぶりねえ、夏流……。今日は、どうしたの? こんな朝早くに突然……」
「頼みがあるんだ、母さん」
俺の頼みを母は直ぐに聞き入れてくれた。家に上がらせてもらい、冬香の部屋に上げてもらう。冬香の話を聞きたかったが、それ以前にまずはこの部屋だ。
死後そのままになっているという部屋を見渡し、ファンシーな内装のそれに思わず苦笑する。昔から男っぽいのか女っぽいのかわかんなかったが、最近は女の子っぽかったのかもしれない。
「母さん、変な事を聞くけど……冬香は本当に自殺だったんだよな?」
そりゃあ妙な話だっただろう。母は不審そうな顔を浮かべながら頷いた。冬香はある日、突然自殺としか思えない状態で発見されたのだという。
「冬香は……覚えてる? 昔住んでいた、山奥の屋敷、あったでしょう? 今でも別荘になってるんだけど、そこで一人で発見されたの」
発見された当初、冬香はまるで眠っているかのようだったという。しかしその命は既に絶たれており、死因は――原因不明の毒であると判断された。
所謂未知の毒だが、既存の毒素に該当する幾つかの特性を併せ持つ非常に強力な毒で、その毒が検知されたカプセルを幾つか彼女は握り締めていた。
当時は殺人事件の疑いもあったものの、いくら捜査しても犯人どころか人間が出入りしていた痕跡さえ発見できなかった。否、それどころか、冬香の痕跡さえも発見されなかったのである。
奇妙な事件だった。第一発見者は別荘の管理人で、定期的に掃除をしていた所冬香の遺体を発見した。しかしその時館に人が出入りした様子はなく、唐突に死体だけが現れたかのようだったという。
「でもまあ、自殺……としか考えられないわね。あの子には色々と背負わせすぎたから……」
それは恐らく俺に対する謝罪の念も込められていたのだろう。だが、今更どうこう言える立場でもない俺はそのまま母の話を聞くことにした。
その後順調に葬儀は進んだ。冬香はあの別荘のある街の近くの墓地に埋葬されているという。眠るように死んだ冬香――その葬儀には秋斗も参加していた。
「秋斗君なら顔を出していたわよ。直ぐに居なくなってしまったけど……。彼、冬香と仲がよかったから、辛かったんでしょうね」
「その秋斗がどこに引っ越したのか知ってるか?」
「さあ、そこまでは……。でも、冬香なら知ってたんじゃないかしら?」
となれば早速調べるに決まっている。とは言え友人の住所なんていちいちメモってるはずもなく、わからないまま捜査は難航した。結局目がいったのは机の上においてあった冬香の携帯電話だった。
見れば電話帳には秋斗の番号も存在した。自分の携帯電話を取り出してその番号にかけてみると、出たのは秋斗の母親だった。
何故母親が電話に出たのかわからずに首を傾げていると、興味深い話を窺う事が出来た。
「行方不明? 秋斗が?」
なんでも秋斗は冬香の葬儀があった日から家に戻っていないのだという。携帯電話は葬儀の日に置いて行ったままで、いつか本人から電話が来るのではないかと親が持ち歩いていたそうだ。
秋斗の手がかりはないかと訊ねられたが、まさか異世界に居ますともいえず俺は電話を切った。だが、これで一先ず繋がった。秋斗は本物だ。そして冬香は本当に、死んでいるのだ。
溜息を漏らして振り返ると、急に振り返ったせいで母が気まずそうな顔をしていた。俺は何となく、どうでもいいことを訊ねてみる。
「……父さんは? どうしてる?」
「……妹の葬儀にも来ない男とあわせる顔はないの一点張りよ」
「相変わらずか……。その様子じゃ当分死にそうにもないな」
苦笑を浮かべ、部屋を出る。それから直ぐに玄関に向かう俺の背中に母は言う。
「夏流は身体に気をつけるのよ。冬香みたいに、自殺なんてされたら……」
「大丈夫、俺は死なないよ。今でも師範と元気にやってるし。それじゃ、朝早くに悪かったね。母さんも、元気で」
母と別れ家の外に出るころにはすっかり昼間になっていた。気を利かせてか外で待っていたナナシと合流し、俺は駅へと歩いた。
ホームで電車を待つ。何しろこんな田舎では電車は数十分に一本しかこない。都合悪く電車が出るところを目の前で目撃しながらキップを買った俺はベンチの上でナナシに声をかけた。
「なあ、ナナシ」
「はい」
「冬香は死んでたよ。秋斗は行方不明だそうだ」
「そうですか」
「つまりあいつは、俺より先にあっちの世界に行ったんだ。何らかの方法で……。そして俺より長い間あっちで生活してる」
だから、俺よりも真実に近い場所に居る。そして俺よりも強い。冬香の死を正面から受け止めたあいつと葬儀にも出なかった俺、どちらが正しいのかは明白だ。
リリアを育てて冬香にする――それは確かに叶わない願いではないだろう。そう、あの子はきっと冬香に良く似ている。外見だけじゃない。内面も、そのすべてが。
わかっていたんだ。リリアを立派な勇者にするということは、彼女を冬香にするということと同義なのだと。でも俺はその事実からずっと目を反らしてきた。都合のいい救世主と、都合のいい世界……それを演じてきた。
「俺さ、逃げないから」
俺の言葉にナナシは振り返る。ただ、これだけはハッキリ言っておこうと思った。
「途中でリタイアなんかしない――。俺は、あの世界で覚悟を決めた。自分の行いが正しいかどうかはわからないけど、でも……もう一度秋斗と会って話さなきゃいけない。多分、それも俺のやるべき事だと思うんだ」
「……安心しましたよ。貴方はもう、ここで降りるのかと思いましたから」
「降りねえよ。降りられるかよ……。俺はまだ、何も判っちゃ居ないんだ。何も……」
ホームに電車が入る風の音で言葉は掻き消された。電車に揺られてまた数十分。雪山に戻ってきた俺は、冬香の墓にやってきていた。
そこで彼女の墓に積もった雪を退かし、小さく溜息を漏らす。冬香は死んだ。本当に死んだのだ。俺はその事実からずっと目を反らしてきた。
向き合わなきゃいけなかったのに、向き合わないままで……。冬香の事が大好きだったけど、でも彼女はもういない。俺が目を反らしたから。手を跳ね除けてしまったから。
「俺を……恨んでるか?」
目を閉じれば直ぐにでも思い出せる。いつでも明るくて元気で、俺を遊びに誘う彼女の姿を。たった一人の友達で幼馴染だった秋斗の事も。
三人で上手く行っていた。全てが順調だった日々。なのにどうして、ほんの僅かなすれ違いがいつの間にか取り返しの付かない亀裂となり、俺たちの手は離れてしまった。
秋斗もきっとこの場所で俺と同じように過去を思い出したはずだ。そして俺と同じように、決意したはずなのだ。俺の場合それがすこし遅すぎただけで。だから別に、変わりはしない。
「お前が俺に救世主という役割を望んでいたのなら、俺は……せめてそれを演じるよ。お前の気持ちに応えられるように。でもさ、冬香……。お前はホントは、そんなこと望んでなかったんだろ? 優しかったお前が……世界をあんなふうに、俺と秋斗をあんなふうにしちまうわけがないんだ」
いつでも優しくて、誰よりも泣き虫だった冬香。その姿を思い出すと、どうしてもリリアをダブってしまう。
でも、そうじゃないんだってわかってる。重ねてしまうのは失礼なんだって。それじゃ意味ないんだって。でも、それでも忘れられないんだ。
だからってリリアへの気持ちが嘘なわけじゃない。ずっと一緒にいたんだ、もうわかってる。俺のリリアに対する気持ちも、信じたいという願いも、それは嘘なんかじゃない。それはそれで俺があの世界で確かに培った事実なんだ。
ゲルトは諦めないと言った。どんなに希望の見つからない過酷な旅路でも歩こうと言ってくれた。なのに俺が、旅を止めてしまうわけにはいかないから。
「希望を探す旅路の始まりだ……」
彼女の願いを俺が見つけよう。そうして秋斗とケリをつける。それで俺は――そしたらきっと、冬香の幻想から卒業できるから。
「ナナシ……。お前が何者なのか、何故俺を呼んだのか……それはもう、訊かない。それがお前の役割なんだろう? お前は判っていても、俺に未来を教える事も、真実を教える事も出来ない。答えはシンプル、それが物語として当然のルールだからだ」
だが、その限度を超えた存在として秋斗はあの世界に生きている。その存在そのものが世界のルールを大きく捩じ曲げ、あの世界を幻想だと割り切るやつの行動が悲劇を生む事になる。
世界のゆがみはどうしても正せない。だからそうなってしまうまえに止めさせなければならない。自分自身もその、矛盾した力を行使せねばならないとしても。
「……ワタクシは、貴方の事を少し誤解していたようです」
振り返るとナナシは苦笑を浮かべていた。
「貴方は苦境を前にしたら逃げ出すと思っていた。ワタクシが世界に関わりのある存在だと知れば、教えろとせがむと思っていた。しかし貴方はそれでも尚、あくまでも救世主としての役割を全うするのですね?」
「ああ」
「それが、誰かの掌の上だったとしても?」
「――ああ。そんなのは、関係ないんだ。大事なのはあの世界やあの世界の人々や誰かの意思に流される事じゃない。それでも自分が選んで自分がどうしたいか考えて行動した結果が、大切なんじゃないのか」
正直まだ気持ちは落ち着かないし迷いも疑念も消し去れない。不安も山ほどある。でも――それでも望んだんだ。冬香に辿り着くんだと。あの子の遺志を、引き継ぐんだと。
一度そう決めたのだから、偽りの救世主でも役割を貫かねば。これから先何度も覚悟は揺らぐだろう。それでも折れてはいけないし降りるわけにもいかない。
「やりのこした事があるんだ。だから、戻らなくちゃ――。ディアノイアに」
ナナシに微笑みかける。そう、ここから始めるんだ。救世主としてもう一度――残酷な世界のルールから目を背けないで。
山道を登り、今度は遭難しないであの館へ。そうして屋根裏部屋に登り、再び原書を開く。そこにはもう――何も写されてはいなかった。
そう、これから先、秋斗という巨大なイレギュラーが俺へ関与するのであれば、予知もへったくれもあったものではない。だがナナシは一つだけ教えてくれた。
「原書は『預言書』ではないのです。それはあくまで心を映す書物……。そのことだけ、ヒントとして覚えておいてください」
こうして俺は再びディアノイアへと戻る事になった。ディアノイアに戻ると、そこはもう既に日が暮れていた。どうやら今回も妙な所に転送された様子だったが、鍛えただけあって見事に着地する事が出来た。
夜の街――。学園祭はまだ終わっていなかった。となると、二日目の夜か三日目の夜か……。どちらにせよいくらか時間が経ってしまったらしい。
元の世界に帰ったのと同じ場所に出ただけあり、背後は昼間の戦いの痕がはっきりと残されていた。秋斗はこの世界のどこかにいる。そして今でもこの世界に関与し続けている。
あいつもまた救世主を名乗るのならば、俺は自分の力でそれを阻止することしか出来ない。今この世界の人々に出来る誠心誠意の行動は、それしか思いつかないから。
たとえもうリリアに信じてもらえないとしても、それでも俺は秋斗を止める。決着をつける。過去からずっと続く、擦れ違ったままの関係を終わらせる。それだけは、絶対に譲れない。譲ってはいけないと思うから。
心に誓い、眉を潜めて目を閉じる。異世界人、か。なんで俺はこの世界の中ではこんなに孤独なんだろう。誰にも本当の事も言えないで、一人で戦わなければならない。それでもいいと誓ったのに、迷ってしまう。皆に本当の事を言えない、嘘を付かねばならないという事実。そして、リリアにそれを知られてしまった事――。
「師匠っ!!」
リリアの事を考えていると、背後からリリアの声が聞こえた。振り返るとそこには少し離れた場所から駆け寄るリリアの姿があった。
途中で転び、それでも直ぐに立ち上がって駆け寄るリリア。肩で息をして、汚れた格好でリリアは顔を上げる。まるで、そう。一日中俺を探し回っていたかのように――。
「師匠……」
「……」
「は……」
「は?」
「歯を食いしばれえっ!!」
「おぶうっ!?」
魔力を込めたかなりいいパンチを顔面に貰ってぶっ飛ぶ俺。何故こんな事に……。空中をグルグルときりもみ状に回転しながらそんな事を考える。
民家の壁にたたきつけられて思わず血ヘドを吐きそうになる。そんな俺に駆け寄り、リリアは倒れた俺に馬乗りになって襟首を掴み上げた。
「ちょ、タンマタンマ!! 死ぬ! 死ぬからっ!!」
「どれだけ……っ。どれだけ、心配したか……! どれだけ、探したかっ!! どれだけ、どれだけ……っ! どれだけ……っ」
頬に零れ落ちた熱い雫。リリアは大粒の涙を流しながらじっと俺を見下ろしていた。それはずっと、きっと俺を探してくれていたから。居なくなってしまった俺を信じてくれていたから――。
「急に、居なくなって……! やだよ、そんなの……。お別れも言えないなんて、絶対にやだよう……っ! リリアを置いてかないでよ、師匠……。いい子に……いい子にするから……っ」
一人ぼっちにしないで――。
悲痛な呟きに俺はただ倒れたまま目を細めていた。リリアは子供のように泣きじゃくりながらひたすらに背中を小さく丸めていた。まるで迷子になっていた子供が保護者を見つけたような……。そう、多分それは遠い答えではなかった。彼女にとって、俺は――。
「……ごめんな、リリア……。怖かったな……」
片手でリリアの頭を撫でる。そう、彼女は沢山の物を失ってきたのだ。何も出来ないまま、別れも告げられぬまま。だから毎日一生懸命に生きている。友達の為に必死になれる。手に入れられたもの全てが掛け替えの無い奇跡だと知っているから、だからこんなにも涙を流せるんだ。
そんな彼女にとって置き去りにされることだけは怖くて仕方の無いことなのだ。裏切られたくないのだ。期待したくないのだ。その先にある失意を知りたくないから、だからずっと脅えて笑っていただけの可哀想な女の子なのだ。
「師匠とお別れしたくない……。時々師匠、いなくなって……でも、ぱって戻ってきて……。ほんとは怖くて仕方なかった。師匠いつも消えちゃいそうだから……。いつもいつも、『いたそう』な顔してるから……っ」
「…………そっか」
「ごめんなさいって言いたかったのに! 謝る事も出来ないまま、お別れなんてやだよ! リリアは……リリアは、師匠と離れ離れになりたくない……」
上半身だけを起こし、リリアの涙を拭う。そうしてそっと抱きしめて、腕の中で泣きじゃくる彼女の大粒の涙を感じていた。
わんわん泣き喚いて、リリアはそうして悲しみを正面からぶつけてくれた。傍に居なきゃいけないのに、少しだけ怖い想いをさせてしまった。今はそれが素直に申し訳なかった。
リリアはそれから長い間泣き続け、よろよろになるくらいに泣き続け、泣き疲れすぎてグッタリした様子で俺の背中に乗ったまま、首筋に頬を寄せていた。部屋まで送り届けようとする帰り道、リリアは耳元で囁いた。
「師匠の事、信じるって決めたんです……。だから、今日の事は、誰にも言ってませんから」
「そっか。ありがとう、リリア」
「でも……本当は、すごく信じられなくて、すごく怖くて……。だから、せめて嘘でもいいから、傍に居て……。居なくなったりしないって、約束してください」
「ああ。約束するよ――」
そう、それはいつかきっと嘘になる。それでも俺は、嘘をつきながらでも、この世界で生きていく。
それを仕方が無いと言い訳する事は出来ないけど。でも不器用なりに、馬鹿なりに、弱虫なりにやっていかなきゃいけないから。
「だからお休み、リリア。ありがとう――」
ぎゅっと首に腕を回し、涙を擦るようにしてリリアは寄り添って目を閉じた。夜の闇の中彼女を部屋まで送り届け、ベッドに寝かせてクロロに後を任せた。
ポケットに両手を突っ込んだままナナシと共に歩く。そういえば俺は初めてこの街に来た時、何がなんだか判らずに転んでいたっけ。結局いつでもリリアが傍に居て、皆に助けられてきた。
この世界も全ては嘘にすぎないんだ。幻にすぎない。でも、それでも今ここにある気持ちを信じたい。だから俺はもう少しだけ頑張りたいと思う。
「なあ、ナナシ。俺――秋斗を倒すぞ。文句はないな?」
「――ええ、マスター。文句など在りませんとも。どうぞ、存分に」
苦笑を浮かべ、それから気持ちを切り替えて空を見上げて手を伸ばす。
星も月も、自分の気持ちだってつかめない不確かな右手。それでもいつか何かに届くと信じている。そのために出来る事を始めよう。
だからそう、ここからがスタートだ。今日が俺の、本当の始まりの日だ――。
覚悟をしよう。たとえこの先にどんな辛い結末が待っていたとしても。最後の最後まで、走り抜けるのだと。
決意は直ぐに揺らいでしまいそうなほど頼りない。でも、今はそれでいい。何もしないで諦めるよりは、ずっといい――。
夜空の下、暗い雰囲気を景気付けるような祭りの喧騒がありがたい。夜の闇の中、一人で朝まで俺は歩き続けていた。