学園祭の日(1)
「アイオーン、どこ行ったんだ……?」
アイオーンの姿を探し、学園から飛び出した。他に彼女の行った場所について心当たりもないし、ここで見つけられないと……取り返しが付かない気がする。
だがそんな俺の焦りとは裏腹に、彼女の姿はどこにも見当たらない。一人で肩で息をしながら立ち尽くし、深々と溜息を漏らした。
「どうしてああなんだろうな、アイオーンは……」
一見すれば確かに恐ろしい。凶悪な笑顔が似合う、破壊的な美人だ。近寄り難いし何より彼女が立つ遥か予想も付かない高みには、誰も隣に立てない気がする。
でもだからってどうして一人でいいなんて事になるんだ。そんなわけがない。確かにそれは彼女に似合う。でも、こうなってしまえば話は別だ。
何故自分を肯定しないのか。わざわざ疑われるような行動を取るのか。そのかすかな違和感がどうしても拭い去れない。アイオーンが何を望んでいるのか、俺にはわからなかった。
ディアノイアの丘の上から見下ろすシャングリラ。日はまだ暮れないだろう。そうして上から街を見下ろしてアイオーンの姿を探していると、物珍しい人物を見つけてしまった。
「……え? ヴァルカン爺さん?」
カザネルラで漁師をやっているはずのヴァルカン爺さんがどうしてこんな所に? 疑問に思い、両足に魔力を込めて跳躍する。丁度爺さんの正面当たりに着地するように大きく跳躍し、人々の頭上を飛び越えた。
爺さんは途中で俺に気づいたのか、足を止める。その正面になんとか着地できた俺が顔を上げると、爺さんはソウルそっくりな笑い方で言った。
「おお〜う!? なんだ、夏流じゃねえか。元気そうで何よりだ。飯ちゃんと食ってるか?」
本当に似てるなこいつら……。筋肉ムキムキだし。まあそれはいい。そんな事より今は爺さんの事だ。
「そんな事よりどうしたんですか? カザネルラから遥々やってくるとは」
「おう、そろそろ学園祭らしいからな。孫娘の顔でも見てやろうかと思って来たんだよ。それに色々と他にも用事はあるしな」
見ればヴァルカンは背に巨大な布に包まれた武器のようなものを担いでいた。勇者の親であり祖父でもある男、ヴァルカン・ライトフィールド。その実力がどれ程かは判らないが、ゲルトのキックを受けてノーダメージだったことからも技量はかなりのものだと思われる。
その爺さんが武装してわざわざ赴く理由が思いつかない。爺さんは辺鄙な田舎の変わり者の漁師でしかないはずだ。それがどうしてここに来るのか。
「ま、その様子じゃお前にも話は行ってるようだな。他でもない、お前ら生徒の問題についてだ」
「……まさか、執行者との事ですか?」
「それもある。それに、目覚めたんだろ? うちの孫娘、もう一人がよ」
爺さんの言葉に従い、俺は彼をリリアの寮まで案内する事になった。背の高い爺さんは隣に歩かせているとかなり迫力があるな……。
寮に入り、リリアの部屋の扉をノックすると中からクロロが顔を出した。しまったと思った時には既に爺さんが爆笑しながら部屋に上がりこんでいた。この後リリアが男と同棲している理由を説明するのに三十分ほどかかったが、何とか事情は理解してもらえた。
「つーかお前、クロムロクシスか?」
というのがクロロを見た爺さんの台詞だった。俺と寝ぼけた様子のリリアはお互いに顔を見合わせて首を傾げた。当のクロロ本人は黙って爺さんの言葉に頷いた。
「そうかそうか、何でお前がここに居るのかは知らねえが、馬鹿孫を守ってくれてんのか。ありがとうよ」
「肯定。リリア・ライトフィールドは家主ですから」
「おじいちゃん、クロロ君の知り合いなの?」
「まあちょっとな。それよりリリア、聖剣を見せてみろ」
「う、うん……。ていうかおじいちゃんどうしてここに……」
「まあいいから。いいんだよそういうめんどくさい会話は。さっさと話を進めるぞ」
聖剣を手にした爺さんはしばらくそれをじっと見つめていた。それから何やら荷物の中から様々な道具を取り出し、聖剣を光に翳す。
「鎖はやっぱり千切れちまったか」
「うん……。あ、でも鎖の破片は持ち帰ってるけど」
「いや、そんなもんはもう意味がない。まあゲインもこうなる事は判っていただろうしな……。まあ、その鎖は退魔能力を宿したままだから、武器にするなりお守りにするなり好きにしろ。問題はこっちだ」
リインフォースの刀身には皹が入っていた。爺さんはそこをじっと見つめため息を漏らす。どうやらリインフォースの刃こぼれが気になっているようだが……。
「リリア、正直に答えな」
爺さんの言葉にベッドに腰掛けたリリアが背筋をぴんと伸ばす。流石に親子のような関係であるからか、リリアは従順だった。
「お前、ロギアの存在にいつから気づいていたんだ?」
「…………おじいちゃん、知ってたの……?」
「当たり前だろう馬鹿が。お前がまだ母親の腹の中にいた時から面倒見てんだ。お前のことでわかんねえことはないんだよ」
リリアは申し訳無さそうに肩を落とす。一瞬俺の存在を気にして視線を送ったが、意を決したように語り始めた。
彼女が魔王――ロギアの存在が聖剣に宿されている事を自覚したのは、何と六歳の時だという。何やら色々あったらしいが、その事はあまり語ってくれなかった。
ロギアはどんな存在なのか? まさかそれが魔王だとは思わなかったらしいリリアは、自分のもう一つの人格――つまり二重人格ではないかと疑ったらしい。そんな自分を知られれば周囲から拒絶されるかも知れない……誰にも言わないのは当然の事だった。
ただ、そのロギアという存在が自分の中で大きなもので、振り返れば背中を合わせてピッタリとくっついている影のようなものであることは気づいていたらしい。そうしてロギアと彼女は時々頭の中で会話をするようになったという。
「ロギアは、この間自分の事を魔王だって言ってた……。ねえおじいちゃん、リリアは魔王なの?」
「それは違う。お前も聞いただろ? ロギアは聖剣リインフォースに封印された魔王の魂……魔力そのものだと言ってもいい。そして明言しておくが、ロギアはお前の敵ではない。むしろお前を守るために存在する」
「爺さん、それは俺も解せないんだが……。どうして世界を征服しようとしたザックブルムの魔王ロギアがリリアに手を貸すんだ? 自分を殺した男の娘だろう?」
「ロギア自身がお前たちにそれを語ろうとしない限り俺の口から言える事はねえな。まあ、ロギアにはロギアで事情があるんだ。察してやれ」
そう呟いて灰皿もないのに煙草に火をつける爺さん。リリアは落ち込んだ様子でじっと床を見つめていた。
「だがまあ、ロギアの魂の本質はリリアの本質に限りなく近い。二重人格って考えもあながち間違いじゃねえな。ロギアはお前の心の闇そのものだ。お前自身が内側に溜め込んでいるものをそのまま体現する」
「リリアの本質がロギアと同じ? 冗談だろ?」
「お前は判ってるんじゃねえのか? うちの馬鹿孫の本質を」
そういわれてしまうと言い返す言葉がない。そう、リリアはぼけぼけとした性格やドジな部分からどうにもあほな子のイメージが強いが、その本質は異常なまでに闘争的だ。
他人に心を開かない態度。一度キレたら止まる事が無く、相手を倒すまで絶対に引き下がらない熱さ。仲間を思い、ただ剣を振る強さ。そして何より、この世界にある理不尽な人の不幸を心の底から憎んでいる。
リリアは孤独だ。自ら心を閉ざし、何者も立ち入る事を許さない。一人で荒野に立ち、世界全てを憎んで戦っているような、そんな子なのだ。
「こっからは夏流、お前の方に話がある。ちょっと来い」
「え? あ、はい」
爺さんに連れられ一人で黙り込むリリアを置いて部屋の外へ。そこで爺さんは壁に背を預け、静かに溜息を漏らした。
「リリアが暴走する事は知ってんだろ?」
「……はい」
「まあ、聖剣を解き放った以上仕方の無いことだ。あの鎖はリリアの魔力そのものを全て制御していた。それは知っているな?」
鎖は封印。リインフォースを封じるだけではなく、リリアそのものの魔力を大きく制限していた。それが聖剣の中に居るロギアというリリアの片割れを封じていたからなのは最早言うまでも無い。
「だが鎖は封印の任を終えた。これからあいつは自分自身の力と向き合って折り合いをつけなきゃならん。いいか? リリアが暴走しそうになったら、ロギアの手を借りろ」
「ロギアの……?」
「あの孫娘の暴走を停止できるのはロギアだけだ。もし本気であいつが暴れ出したら、恐らくお前らにも危害が及ぶだろう。暴走するのはリリアでありロギアではない。ロギアはリリアの予備封印なんだよ」
「ちょ、ちょっとまってくれ……。何がなんだか……」
「リリアが本当にお前を望んでいるのなら、あの子本人がお前に語る日が来るだろう。それまではおあずけだ――。さて、話はお仕舞いだが、俺たちにはまだやる事があるな」
俺たちは一度リリアの部屋に戻り、爺さんはこの街に暫く滞在する事を伝えた。リリアは無理をして笑っていたが、恐らく自分自身の状態を一番気に病んでいるのは彼女だ。その笑顔は心許なく見えた。
リリアが眠ってしまう事を訊ねると、爺さんは無言で肩を竦めた。それがどういう意味だったのかはわからない。ただ、よくない傾向である事だけは教えてくれた。
「だからってリリアの眠りを妨げるなよ。寝てる間にあいつは自分の中でごちゃごちゃしている意識を整頓してるんだ。身体も、心も……な」
寮を出て爺さんと共に学園へ移動する。門付近まで付いて行ったところで爺さんはここまででいいと言い、俺はそこで足を止めた。
「もしかしたらお前の手を借りるかも知れねえ。その時は宜しく頼むぜ」
「……はい」
「そう辛気臭い顔をするんじゃねえよぼうず。なぁに、大丈夫だろ? あれでも、俺の自慢の孫娘だ」
そう言って爺さんは校舎に消えて行った。振り返れば日が暮れかけている。どうも、俺のやるべき事は山積みらしい――。
⇒学園祭の日(1)
さて、いつまでも校門で突っ立っているわけにも行かない。とりあえずアイオーンのことか。もう随分時間も経ってしまったし、どこに行けばいいやら……。
腕を組んで彼女のいそうな場所を思い返す。すると意外にもすんなりと答えは出た。
「ユーフォニウム、か」
確か彼女は以前こう言っていた。シャングリラの南にあるバーのユーフォニウムで働いている、と。丁度いい、都合よくもうじき日も暮れる。仕事場にまで押しかけるのはどうかとも思ったが、どうしても納得が行かないから仕方ない。謝って許してもらおう。
ユーフォニウムを探す為に坂道を下り出す。そうしていると正面にまた見覚えの在る顔が歩いているのが見えた。見ればアクセルの妹、レンが一人できょろきょろと辺りを見渡しながら歩いている。
俺が声をかけるよりも先にレンが手を挙げて俺の名前を呼んだ。無視する事もないので駆け寄ると、彼女は相変わらず嬉しそうに俺の手を取って笑う。
「また会えましたね、救世主様!」
「う、うん……。あれ? アクセルは一緒じゃないのか?」
「兄はバイトだそうですから。本当は兄のバイト先の様子を見に行きたかったのですが、断られてしまいました。それで暇を潰すのに観光していたんですよ」
観光、というよりは地図と地形を照らし合わせていたように見える。彼女は手にしていた地図をポケットに突っ込み、にっこりと微笑む。
「救世主様は? ディアノイアに用があったんですか?」
「ああ、ちょっとな」
日の暮れ具合を眺める。アイオーンの職場には何時くらいに行けばいいだろうか。とりあえず今だと早すぎる気がするが、バーなんて気の利いた場所行った事もない俺にはよくわからない。というかまあ、あっちでお酒は飲めない歳なわけで。
「またどこか行きたいところでもあるのか? アクセルが相手をしてくれないなら俺が案内するけど」
「い、いえそんな! 態々救世主様のお手を煩わせる事はありません」
「そう言うなって。友達の妹なんだ、邪険にはしないよ」
こうしてしばらく時間を潰すついでにレンを案内する事になった俺。彼女に言われるがまま、教会や駅、ディアノイア周辺などを歩いて周った。
レンは楽しそうに歩いていたが、時々歩くのも辛そうな様子になる事がある。そういう時は時間を置いて一先ず休憩を取り、ゆっくりと歩いた。
彼女はシスター、教会から来た人間だ。一瞬執行者の件が頭の中を過ぎったが、どう見てもそういう雰囲気ではない。そもそもこんなに虚弱体質なのでは、執行者など務まらないだろう。
それに何よりアクセルの妹なのだ。疑いたくは無い。彼女は疲れた様子で歩き、しかしそれでも楽しそうに笑顔を浮かべていた。
「そういえば、救世主様? 救世主様は勇者候補とも仲が良いと耳にしたのですが」
「ああ。今は二人とも色々あって別行動してるけど、学園祭までには調子を整えてくると思うよ。そうしたらレンにも紹介するよ」
「本当ですか!? 私は果報者ですね……これも神の思し召し。感謝いたします、救世主様」
嬉しそうに手を合わせるレン。アクセルの妹か……うん、似てねえ……。
「そうだ! 救世主様、お願いがあるのですが……宜しいですか?」
「うん? 何?」
「学園祭期間中、憧れの救世主様と一緒に過ごしたいんです。お忙しいとは思うんですけど、僅かな時間でもいいので……」
「ああ、全然構わないよ? どうせ当日は予定ないだろうし、三日間もあるし」
「本当ですか? これで孤児院の皆にお土産話が増えました!」
そういえば、アクセルは孤児だと言っていた。アクセルの妹であるレンもやはり孤児で、オルヴェンブルムの孤児院で育ったということか。
成る程、確かに救世主様と一緒に学園祭を見て周った……ちょっとした自慢話になるだろう。アクセルの妹のささやかな願いくらいかなえてやってもバチは当たらないはずだ。
「でも、兄が救世主様のようなお方と一緒に戦っていたなんて光栄です。いつも足を引っ張ったりしていませんか?」
「それどころか俺の方が助けられてる事は多いよ。学園に入った直後もアクセルくらいしか頼れる奴はいなかったしね」
「そうなんですか? あんな駄目な兄ですが、今後とも宜しく御願します。もし粗相を働いたら言ってくださいね? 私が神罰を代行して下しますから」
「そ、そう……。でも死なない程度にしてあげてね……」
明るい性格のいい妹さんだなあ。そんな事をしみじみかんじながら街をおよそ一周し元の坂道に戻ってきた。もう部屋に戻るというレンをアクセルのアパートまで送り届ける。
「今日はありがとうございました、救世主様」
「身体には気をつけてな」
「はいっ! それでは!」
レンは階段を上って行った。それを見送る頃にはもう日も暮れて暫く経っていた。さて、どうしたものかと考えて背を向けて歩き出す。
シャングリラの南という情報だけでユーフォニウムを探すのは難しいだろう。何しろとんでもない広さの街なのだ。迷子になってもおかしくは無い。
一人で夜の街をうろうろ歩いてもユーフォニウムは見つからない。入り組んだ路地や狭い通路など、シャングリラの乱立する建造物の恩恵が捜索を邪魔していた。
「ナツル様、あちらではありませんか?」
肩の上のうさぎが手を伸ばして指差す方向、狭い路地があった。あんな所に店があるとは思えないのだが、一応覗いてみると確かにそこには地下に続く階段があった。
「よく判ったなお前」
「何を隠そう、うさぎですから。ピアノの音色が聞こえたのですよ」
そう言って俺の頭の上によじ登るうさぎ。それを無視して階段を下りる。地下へと続く扉には確かにユーフォニウムの看板が見えた。
ここまで近づけば俺にもわかる。ピアノの音色が聞こえてくる。扉を開くと、そこには広い地下空間が広がっていた。薄暗い照明の中、何人かの客が夜の時間を楽しんでいる。そんな中、ステージの上でアイオーンはピアノを弾いていた。いつものような男と間違えてしまうような格好ではなく、今日ははっきりと女性だとわかるドレスを身に纏って。
眼鏡を外したアイオーンはいつもとは違う髪形でいつもとは違う空間でいつもとは違う表情で鍵盤を叩いている。それが何だか不思議で、とても魅力的に見えた。
と、入った直後呆けてアイオーンを眺めていた自分に気づいて焦る。これからどうすればいいのかわからないで困っていると、頭から飛び降りたうさぎがタキシード姿の男に変身した。
「場に相応しい格好というものがあるでしょう? 全く、そんな戦闘服で飲みに来る場ではないでしょうに」
正論なんだがお前に言われるのは無性に腹が立つ……。
が、しかしそれっぽい奴が一緒だと緊張も紛れてありがたい。一緒にカウンター席に着くと、ナナシは勝手に注文を進める。俺はその間アイオーンをずっと見つめていた。
綺麗な音色だった。とても綺麗な音色だ。余計なものが一切感じられない。上手なのかどうか、素人の俺にはわからなかったけど、それはピアノを愛している音だと思った。
アイオーンは好きでここにいる。それは学園にいるときよりもずっと自由で生き生きしていた。だから少しだけ複雑になる。彼女はどうして、あの学園にいるのだろう――。
「ナツル、見惚れすぎですよ。そんなにアイオーンのドレス姿が気に入りましたか?」
「う、うるさいな。ったく、お前のキザっぽい格好も今だけは感謝するよ」
「貴方もこういう服装にしてはどうですか? よければ予備がありますから差し上げますよ」
予備って……着替えてんのかこいつ……? いつだ? いつ着替えてんだ?
ナナシは久々の酒が嬉しいのか、幸せそうに頬を染めながらグラスを傾けている。その姿はかなりサマになっていてなんだか腑に落ちない。
俺にもとナナシは酒を奢ってくれた。何も飲まずに座っているわけにもいかないだろうし、仕方が無い。日本国の法律よ、今だけは俺を見逃してください。
「ですが、貴方が聞き惚れるのもわかります。彼女の音色は美しい。彼女自身もまた同じように」
「ああ、そうだな……。でも、普段のあいつは楽しくなさそうだ。何だか我慢してるみたいに見える。それが判って複雑だよ」
「人の人生は我慢の連続ですよ、ナツル? 本当に幸福な瞬間など、直ぐに過ぎ去ってしまうもの……。故にそれを愛しく想い、人は幸福に想いを馳せる……。幸せであるが為の努力を施行し、幸福を描くのです」
「何だ? じゃあ別にアイオーンが学校じゃ楽しく無さそうでもそれはそれでいいっていうのか」
「ええ。彼女にはこうして、自分の心を素直に曝け出せる瞬間がある。例え短い曲の中だとしても、彼女はその権利を有している……。幸せですよ、彼女は」
そう言ってグラスを傾けるナナシ。酒が入っているからなのかこういう場だからなのか、普段は滅多に口を開かないくせに今日のうさぎはよく喋る。
だが、いう事は確かに間違っていない。確かにそれはそれで幸せだ。少しでも幸福だと感じられる瞬間があれば救われる。
全てが幸せでなくてもいい。完全なハッピーエンドはありえない。でも、僅かな幸せが沢山の悲しみを無かった事にしてくれるとは思えない。そんな事を考えても仕方ないのだろうけど。
「……俺、この世界に入れ込みすぎてる……。自分でも判ってる。初めてこの街の大地を踏みしめた時よりも今の方が……今よりも明日の方が、多分ずっとこの世界を、好きになる……。それでいいんだろうか。全部救いたいと思うのは、俺の傲慢だ。でも、そう願ってしまう。力があるんじゃないかと思ってしまう。俺は、この世界の人間ではないのに」
「この世界で一生を終える、という手もあるでしょう。貴方が望むのなら、この世界で救世主として生きる道もあるのです。そう難しく考えずとも良いのでは?」
「そうはいかないよ。俺は結局この世界のイレギュラーだ。関与してはいけない存在がずっとここにいるわけにはいかない。いつかは帰らなきゃいけない時がくる」
「その時までに出来る事をしておきたい、と……成る程、確かにそれは貴方の自己満足でしょうね」
ナナシを見つめる。男は微笑みながらウィンクを浮かべ、言った。
「ですが、それも悪くはないでしょう。ワタクシは貴方の決定を肯定する存在……。たとえそれがどんな結果を生んだとしても、ワタクシは貴方を否定しない」
「ったく、うさぎの分際で偉そうに」
「うさぎを侮辱するものではありませんよ、ナツル? うさぎは可愛いものです。良いものですよ」
そんな会話をしていると、ピアノが鳴り止むのが聞こえた。どうやらアイオーンの出番は終わりで、他の演奏者が出てくるらしい。手の空いたアイオーンは俺の姿に気づき、驚いた様子で歩いてきた。
「どうしたんだい、ナツル? こんな所に来るような歳でもないだろうに」
「う、うるさいな……。話がまだ終わってないのにあんたがいなくなるからだ」
「え? まさかそれでボクを追ってきたのかい?」
無言で頷くとアイオーンは口元に手を当て、盛大に笑った。それから隣の席に腰掛け、金色の瞳で俺を見つめる。
「君は本当に面白いな……。そちらの紳士は君の使い魔かい?」
「わかるのか? えっと、紹介するよ。うさぎの精霊ナナシだ」
「……若干否定したい部分がありましたが、まあ良いでしょう。ワタクシはナナシ……以後お見知りおきを」
俺とアイオーンの話に気を使ってか、ナナシは席を外した。別の席に腰掛けたナナシを見送り、隣のアイオーンを見る。
しかし、見ていられない。胸元の大きく肌蹴た派手なドレスも違和感ばりばりだが、眼鏡をかけていないアイオーンは本当に尋常じゃない美人だ。それもこんな慣れない空気の店の中、二人並んで座っていると自分が情けなくてしょうがなくなってくる。
居た堪れない気持ちのまま酒を口にしていると、アイオーンは酒を注文する。目の前でバーテンがカクテルを作っている間、ずっとアイオーンは指先でテーブルをそっと叩いていた。それはあのピアノの余韻に浸っているかのようで、どうにも声をかけづらい。
「どうだった?」
「何が?」
「ボクのピアノだよ」
「よかった……と、思う。でも悪い、そこまで詳しくないんだ。専門的なことは、全然……」
「構わないよ。前知識が無ければ感動できない楽曲などボクにとっては意味が無いんだ。君が素直に良いと一瞬でも感じてくれたなら、それはこの上なく幸せなことさ」
そう言って子供のように笑うアイオーン。その無邪気な仕草に一々見とれる。ああ、何度でも言うさ。半端じゃない美人だ、こいつは……。
「それで、話があるんだろう? 時間は嫌というほどあるんだ、聞こうじゃあないか」
「……じゃあ、言うぞ。あのな……」
そこまで言って言葉は途切れた。正直な所、もうそんなのはどうでもよくなっていた。アイオーンはアイオーンだし、信じたいなら俺が信じればいい。少なくとも今の彼女は悪意の欠片も無い純粋な人間だ。俺は信じられる。
教会や執行者が無茶を言うなら俺が彼女を守ればいいだけの話だ。口で何か言ってもアイオーンにはきっと届かない。だから、行動すればいいだけの話。
俺が黙ってしまった事に首を傾げるアイオーン。俺は顔を上げ、その手を取って言った。
「学園祭、俺と一緒に周ってくれ」
「――――はっ?」
「だから、あんた一人にしとくわけにはいかないんだよ。俺が傍に居れば俺にとっても文句はないし、あんたにとっても文句ないだろう?」
「その、ボクの文句がないという発想がどこから来ているのかよく判らないけど……」
「あ、あっても知らないんだよ、そんなのは。兎に角、いいだろ? 傍に居なきゃ、何かあった時あんたを守れない」
その言葉にアイオーンは大層驚いた様子だった。それからまた大笑いして、目尻に涙さえ浮かべて俺を見ていた。
何も爆笑しなくてもいいだろうに。妙に恥ずかしくなって視線を反らして酒を一気に飲み干す。アイオーンはテーブルの上の俺の手に自分の手を重ね、微笑んだ。
「ボクで良いのかい? 君の事だ、他に先約がありそうなものだけど」
「先約なんて……あ――」
すっかり失念していた。そうだ、レンにどこかで時間を割かないといけないんだった。となると三日間護衛する事は困難だな。くそ、自分で言っておいて忘れているとは馬鹿か俺。
「やれやれ、君は本当に後先考えないな。無茶ばかりしすぎだよ、夏流」
「う、うるさいな! 元を正せば、あんたが素直に人を頼らないからだろうが」
「ボクは別にそういうつもりはないんだけどね。君が勝手にそうしたいからそうするんだろう?」
「……やっぱ口で何か言っても無駄だな」
「ああ、無駄だろうね」
そうして互いに視線を反らし、それから何故かおかしくなって笑い合った。
「あ、そうだ。ついでにミスコンにも出てくれないか? ベルヴェールに言われてたのすっかり忘れてた」
「ミスコン……? 別に構わないよ、退屈をどうにかできるならね」
あっさりとOKされてしまった。なんだか拍子抜けしたが、アイオーンは楽しそうに笑っていた。
「君といると色々と面白い事が起きる。中々退屈しない学園祭になりそうだ」
「出来れば何事も無いといいんだけどな」
「また来るかい? 今度は友達も連れてくるといい。美味しいお酒と出来る限りの演奏でお迎えするよ」
「あ、ああ。それじゃあもう用もないし、俺は帰るよ。邪魔しちゃ悪いしな」
「ああ、夏流」
立ち上がり、背を向けたところを呼び止められる。何かと思って振り返ると、アイオーンの両手が俺を抱きしめていた。
それは僅か数秒の抱擁だった。しかし完全に唖然としてしまった俺は何も言う事も何もする事も出来ず、突然過ぎる彼女の行動に動揺するだけだ。
「それじゃあまた、学園で」
そう言って微笑んで手を振るアイオーン。何故かその辺で女性を口説きながら酒を飲んでいたうさぎを引き摺って店の外に出て、ようやく人心地付いた気分だった。
まだアイオーンの姿に心臓が高鳴っている。なんというか、あいつはもう普通じゃない。色々な意味で……。
「やれやれ、せっかちな人ですね。個人的にはまた来たい場所になってしまいましたよ」
「お前は一人で勝手に来い……。俺は……なんか無理だ」
「そうですか? 充分なプレイボーイっぷりではありませんか、ナツル」
そんなふざけた事をぬかすナナシを蹴り飛ばし、夜の街を二人で歩いて帰った。
学園祭……思っていた以上に大変なイベントになりそうだ。そんな事を、考えながら。