アーク・ウェポン(2)
「――アーク・ウェポン?」
要塞都市シャングリラ外周付近。草原の中に一本だけ佇む大木の麓、一人の青年が空を見上げている。
傍らには全身の彼方此方に鎖を巻かれたドレス姿の少女。そして二人が腰掛けているのは巨大な岩の塊である。
その岩の塊は周囲の景観と明らかにマッチしていない。要するに元々そこにあった物ではなく、後からここへ運び込まれた物であるという事だ。
「そう、“聖権”。その名の通り、封印されし聖なる力……。救世主の多くがその手に掴むという、神殺しの武器さ」
歌うように青年は軽やかな声で語る。そうして金色の髪を風に靡かせ、優しく微笑む。
「ウォルスの“聖権”は彼の世界の錬金術師が鍛え上げた対幻想用装備群、“人類賛歌”。人間以外の者を相手にする場合、ウォルスは最強なんだよ」
かつて、一つの世界があった。
その世界では、人間は神の圧制に喘ぐだけの存在であった。聖なる者と邪悪なる者、両極の神の闘争において人類は道具に過ぎなかった。
歴史上多くの英雄が生まれ、彼らは等しく神への反逆を企てた。しかし天を阻む力は強大で、英雄は悉くその名と力だけを残し朽ちていった。
「ウォルスは最後の英雄さ。彼に至るまでの間に倒れて行った神殺しの英雄、その悉くを自らの力としている。そして遂ぞ彼は全ての神を殺戮しつくし、人類を解放したのさ」
シャングリラ上空に浮かび上がる巨大な魔方陣の中心、ウォルス・ヤナ・ターン。白い修道服の裾をはためかせ、周囲に浮かぶ剣の一つを手に取る。
白く、大きく、美しい剣だ。それを片手で軽く回し、刀身に月光を宿して目を開く。
「救世主と呼ばれる者は、須らく世界を救った者だ。或いは世界を滅ぼした者、かもしれないね」
「それは、真逆の存在じゃないの?」
「同じさ。救う事と滅ぼす事はね。何かを救う為には何かを滅ぼさなければならない。ウォルスは神を殺しつくして世界を救った。だけどそれは同時に神々の黄昏を意味している。神が支配する世界を滅ぼし、人類の世界を救済したんだからね」
ゆっくりと息を吸い、吐き出す。一気に動き出したウォルスに対しザイオンは攻撃魔法を連射。空に無数の流星が吸い込まれていく。
光の迎撃を片っ端から剣で薙ぎ払い、襲い掛かるウォルス。アクセルは足元に集めた風を炸裂させ、一瞬で空へと舞い上がった。
ウォルスの一撃は尋常ならざる威力を秘めている。地上でその直撃が爆ぜれば、いかに防御したとしてもシャングリラへの被害は免れられない。
「ったく、何なんだよ……お前らは!」
両手に構えた二対の刃で激突する。アクセルの剣はスオンの剣と同じ。二人が師弟関係にある以上、その性質が同等なのは言うまでもない。
細身の剣に纏う暴風は相手の攻撃を受けるのに最良の効果を発揮した。魔力を帯びた風はウォルスの一撃を受け、周囲に拡散。明らかに攻撃力では劣るアクセルだが、これで打ち合いを成立させていた。
空中で何度も刃を交える二人。アクセルは再び風を受けて空を舞うが、その進行先にウォルスが回りこんでいる。
「速い……!?」
アクセルの体術は既に極限まで研ぎ澄まされている。地上での白兵戦であれば一騎当千の戦闘力を発揮する。だがここは彼の不得手とする空中である。
空中移動の術を会得していないアクセルは飛行が出来ない。風を纏っての加速は目で追う事も難しい速力を発揮するが、所詮は跳躍である。動きは直線的であり、魔力の流れから移動先を予測する事はウォルスにとってそう難しくもなかった。
回転蹴りの直撃を脇腹に受けるアクセル。当然風でガードするが、相殺出来る火力ではない。そのまま勢いづいて吹っ飛んでいく身体を押し留めたのはゲルトが投げた剣であった。
空中に静止しているゲルトの剣を足場に停止するアクセル。そのまま足先で剣を蹴り、横になった刀身の上に立つ。
「向こうが空中戦に付き合ってくれているのを幸運と取るかどうか……ですね」
袖を捲くり、肘から指先にかけて指を這わす。するとゲルトの腕にびっしりと紋章が浮かび上がり、手首が音も無く切れた。
軽く腕を振るうと同時に術を発動する。空中でアクセルが乗っている剣が脈打ち、紅い光を帯びて巨大化する。
「魔法剣を使います。アクセル、一気に決めてください」
「そうは言われてもねぇ……ま、やってみますか!」
ゲルトが操作する巨大な剣の上に乗ったままアクセルは十二本の刃を鞘から解き放つ。剣は風に踊りながらアクセルに追従、真っ直ぐにウォルスへと突っ込んでいく。
「ありったけの火力で全弾ブチ込む……!」
十二本の剣が緑色の光を帯び、輝きを増していく。一方ザイオンはシャングリラの街を屋根から屋根へと飛び移りながら詠唱を続けていた。
「あわせるぞ、アクセル!」
両手を合わせた間に黄金の輝きが収束する。夜を照らし出す渾身の大魔法。これでザイオンの魔力が打ち切りになるのは目に見えている。チャンスは一度きり。
「……素晴らしい力だ。この世界にもこれほどまでに極まった戦士が存在するとはな」
笑みを浮かべるウォルス。そうして手にした剣を軽く振るい、そこに力を集中させる。
「我は両断する……! 魔道の剣!」
瞬間、アクセルの背筋にぞくりと悪寒が走った。ウォルスが握って居た剣は先ほどまでの純白とは豹変し、血の様に紅い光を放っている。
「……だとしても、貫くしかねぇ! ゲルト!!」
更に加速する魔剣は夜空を翔ける。ウォスルはそれにあわせ、両手で剣を握り締め腰溜めに構えた。
先に動いたのはアクセルだ。十二発の剣の矢を一斉掃射。これら見た目には細身の剣だが、練りこまれた風の力は着弾点を中心に十数メートルを粉砕する威力を秘めている。当然、地上では使える筈も無い。
耳を劈くような轟音と共に翔ける光。目でこれを捉える事は不可能。ウォルスは目を瞑り、自らの周囲に流れる魔力を感じて刃を振るう。
「野郎、カンで防ぎやがった!」
一撃、二撃、三撃――。薙ぎ払われた風の弾丸は直後勢いを失い消失した。消失――文字通り消えて失せたのである。術がではなく、剣そのものが光の粒子となって散ってしまった。
だとしても、今は嘆いている暇は無い。残り九撃、全弾同時発射。これにタイミングを合わせ、下方からザイオンが術を発動する。
「こいつで俺も限界だ……当たってくれよ……!」
左右の指、合計十本。この先端部分に上級魔法を装填する。両手を凪ぐように連打される大魔法の数々が空を照らし、雲を薙ぎ払う。
縦軸横軸からの同時攻撃。これをウォルスは見事に捌いていた。魔法も剣も、彼の剣に触れればたちどころに消失してしまう。与えられたダメージ、未だゼロ。
「てめぇええ! その剣はなぁ! メリーベルに作って貰った、バカ高い魔剣なんだぞ! それをそんな軽がるとォオオオ!!」
叫びながら突っ込むアクセル。途中でゲルトの剣から飛び降りると、先に剣がウォルスに命中。これも剣の一振りで消し去られてしまったが、遅れて突っ込んできたアクセルの蹴りまでは消し去れない。
内心自分の足も防がれると同時に消えるのではないかと冷や冷やしていたアクセルだが。消えないと分ればこっちの物。更に自分の背後で風を爆発させ、ウォルスの顔面に拳を叩き込む。
「シャングリラから……出て行きやがれぇえええええッ!!」
更に、更に加速するアクセル。その勢いのままウォルスを弾き飛ばすと、救世主の姿は遥か彼方へと押し出されていく。
足元から一瞬で消えたシャングリラの姿に笑みを浮かべるウォルス。既に視界の端に小さく見えるだけのシャングリラではあるが、彼の力なら停止した後に戻る事も容易である。しかし――。
突然、全身の力が抜けた。指一本身動きを取る事が出来ない。自分の置かれた状況を理解するのに数秒を要した。そして理解したまま、ウォルスは停止した。
草原の真っ只中、暗闇に浮かび上がる赤い結晶の塔があった。それは先ほどまではそこに存在しなかった物だ。血を代償に発動する強力な拘束術式。その術者は遠くシャングリラに立っていた。
「ゲルト、どうだ!?」
「捕らえました。二人が時間を稼いでくれたお陰で十分に術を練りこめましたから、あれがどんな化物でも数刻は身動きを取れないはずです」
手首から流れる血を親指で払うゲルト。するとそこにあった切り傷は既に消滅していた。
足元に描いた血の魔方陣。これを媒介として発動した拘束魔法は、その有効射程三十キロメートル。飛んで行くウォルスの速度と方角さえ分っていれば、封印する事は容易であった。
「相変わらず馬鹿げた力だな……。そんな大魔術を呼吸をするようによく……」
「これでも勇者ですからね。相手がこの世界の神であっても、負ける気はしませんよ」
長い黒髪をかき上げながら微笑むゲルト。満身創痍のザイオンは地べたに座り込み、汗だくで煙草に火をつけている。
「恐れ入るよ……全く」
「それより、状況を確認しなければ。アクセルはシャングリラの西に五キロくらいの所まで飛んでいってしまったので、戻ってくるまで少しかかりますし」
「装備も補充しねぇとな。大事な武器だったんじゃねぇのか?」
二対の剣だが、片方はウォルスに破壊されてしまった。今ゲルトの腰から提げた鞘に収まっているのは片方だけである。
「いえ、これは予備の剣です。丁度新しい剣が欲しくてバテンカイトスに依頼していた所なので、命拾いしました」
「予備の剣であれだけの……はぁ、末恐ろしい女だ。どこまで強くなるつもりだ……」
溜息と共に深々と紫煙を吐き出すザイオン。爆発音と共に遠くで火柱が上がったのは正にその時であった。
「……今のは……ディアノイアの方か?」
「やはり狙いはラ・フィリアでしたか」
振り返るゲルト。ザイオンは立ち上がろうとするが身体が言う事を効かず、膝が笑っている。
「ザイオン先生はここで休んでいて下さい。魔力を消耗しすぎています」
「馬鹿野郎……ディアノイアの方には学生寮もあるんだぞ。生徒が残ってる可能性もある。それをほうっておけるかよ」
「魔力の完全な枯渇は死を意味します。幾ら貴方が優秀な魔術師だとしても、それは例外ではありません」
そうしてザイオンに歩み寄り、ゆっくりと座る事を促す。肩を叩き、ゲルトは頷いた。
「あの救世主をあれだけ足止めしたのです。ザイオン先生がいなければ大変な事になっていました。今は休んでください。生徒を守る先生は、貴方一人ではありませんよ」
「……仕方ねぇな。足手纏いになるのも癪だ。後は任せるぜ、黒の勇者さんよ」
マントを翻し歩き出すゲルト。その髪を風に靡かせ、静かに応じる。
「――確かに任されました。それでは」
風と共に立ち去るゲルト。ザイオンはその姿を見送り、その場に仰向けに倒れ気絶するのであった。
アーク・ウェポン(2)
「ウォルス……どっか消えちゃった」
「うーん、やっぱりウォルスじゃ部が悪かったか。あいつ、人間相手だと真面目に戦ってくれないんだよね……」
頭をがしがしと掻きながら苦笑する青年。彼らの頭上を通り越し、ウォルスは今や遥か彼方……。復帰までには時間が掛かりすぎる。
「真面目に戦わないって?」
「ああ。あいつは人間を守る為に生まれた救世主なんだよ。神殺しに特化している分、対人戦闘は微妙なんだよね。それでも正気の沙汰じゃない強さだけどさ」
ウォルス・ヤナ・ターンは人を救った救世主である。その性質上、どうしても人そのものに対する能力は劣化してしまう。
彼の本質は神との戦いにある。神という言葉はある意味適切ではない。そこまで限定せずとも、要するに人以外の物であれば彼の刃は十分に能力を発揮してくれるだろう。
「特に人間に対して分が悪いのは……あいつが最終的に人間に殺された救世主だから、なんだよなぁ」
「人間を救ったのに?」
「神が居なくなったら、ウォルスという救世主はただの怪物だろ? 最強すぎてビビった人間達は、ウォルスが第二の神になる事を畏れて始末したのさ。あいつもそれでいいと思っているところがあって、まあ要するに人間に殺されたがってる救世主なんだよ、あれは」
眉を潜める少女。怪訝と言えば怪訝そのものである。そんなもの、ちょっとした変態ではないか。
「まあウォルスに限らず救世主って連中は大体何かしら超越しちゃってるから、頭もおかしい奴が多いんだけどね。さて、仕方ないからウォルスを回収してやるとしよう。僕らが行かないとあいつ、このまま何時間も氷漬けになってるだろうからね……」
「な、なんだこいつ……? 魔物、なのか……?」
ディアノイアの中庭、黒く燃え上がる業火が周囲の木々を巻き込み爆ぜている。
その中心に立って居るのは自らもまた炎に包まれた異形である。二本ずつの長い手足は獣のようだが、首と胴体はまるで魚のようである。これが黒い陽炎を纏い、佇んでいるのだ。
「誰か、回復魔法が使える奴いないか!? 怪我人がいるんだ!」
「戦える者は前へ! 対魔戦闘は履修しているだろう、準備急げ!」
何人かの生徒の怒号が飛び交っている。それもその筈、ディアノイアの授業は今日は終了しているが、自主的に残っている生徒も少なくはない。
更に先の騒動の結果、ディアノイアまで状況確認に来ている生徒も多かった。中庭での爆発はそんな生徒の何人かを巻き込んでいた。
「何をされたんだ……? 回復魔法が効かない……!」
倒れている生徒に回復魔法をかけようとしてみるが、火傷は一向に治癒する気配が無い。水属性魔法による消火も効果が現れず、中庭は火の海と化していた。
「退いて頂戴。それから貴方達は下がっていなさい。あの炎は普通の術じゃないわ」
杖を手に通路を歩くローズ・オーファン。長年治癒魔法の研究を重ねてきた彼女は同時にそれだけ数多の攻撃魔法の存在を目にしてきた。
治療をする為にはその術がどのような性質を持つのか理解しなければならない。一朝一夕では身につかない勘も、齢六十を超えた彼女であれば冴えて当然。
「恐らく呪いの類ね。厄介だわ……木々だけでなく石にまで燃え移っている。強力な汚染能力を持っているようね」
「ローズ先生、我々は……」
「医術学科の生徒は負傷者を安全な場所まで運んで頂戴。可能なら炎のサンプルを採取、その後医務室で解呪を試みて。下手に手出しせず、炎の術から解除術を逆算するの。出来るわね?」
頷き走り去る白衣の生徒達。ローズは一人炎の海の中で異形の獣と退治する。
「さて……貴方は何者かしら? 只の魔物か、それとも……いいえ、詮索した所で無意味な事だったわね。ここまで来た以上、やる事はお互い一つだわ」
杖を軽く振り上げ、それでコツンと大地を叩く。するとその地点から周囲に向かって泉のように水が湧き出し、波が広がっていく。
獣は直後、真上に跳んだ。同時にローズも僅かに浮かび上がり、杖を軽く振るう。
「勘がいいのね。流石は獣……と言った所かしら」
直後、波打つ水の全てが凍結する。炎の海は一瞬で氷の結界へと変貌を遂げる。
それはただの氷ではない。対象の術を凍結させる、非物理にも有効な封印魔法である。故に未知の炎であろうと、凍らせる事は可能。
まずはこれ以上被害を拡散させない事、それがローズの念頭に置かれている。しかしその目的を達するには、問題が一つ。
「あれを止めない限り、炎は無尽蔵に湧き出すという事ね」
着地した獣は全身に黒い炎を纏っている。異様な頭部をうねらせるとそこにびっしりと眼球が浮かび上がり、蠢くその全てがローズを捉えた。
「所詮は獣ね。レディをそんな風に嘗め回すように見るなんて、無礼にも程があるわ」
口を開き、雄叫びを上げる怪物。その口の中に更に口が、その奥に更に口がある。三つの口は無数の歯をうごめかせており、最奥には炎の火種が光を放っていた。
放出される黒い波。それは氷の世界を再び炎で染め上げようとしていた。ローズは再び大地を杖で叩き、出現した炎をその場で凍結させていく。
炎と氷、その勢いは拮抗していた。しかし無尽蔵、無作為、無反動で炎を撒き散らす獣に対し、ローズは魔力を消耗し続けている。いずれ限界を迎える事は目に見えていた。
「歳は取りたくないものね……身体がついてこないんじゃ、勝てるものも勝てないわ」
苦悶に顔を歪めるローズ。その直後、頭上より降り注いだ無数の短刀が獣の頭を貫いた。悲鳴を上げ後退する獣。息つくローズの傍にイルシュナが降り立つ。
「無事ですか、ローズ」
「ええ、何とかね……。ありがとうイルシュナ、お陰で助かったわ。貴女くらい若ければ、私もあんな無能に劣りはしないのだけれど……」
僅かに肩を回し溜息を一つ。そんなローズにイルシュナは目を瞑ったまま微笑む。
灰色のマントを剥ぎ取り、身体にフィットした戦闘服を晒すイルシュナ。側頭部から伸びた二本の角を光らせ、ゆっくりと目を開く。
その瞳は人間ではなかった。獣か、或いは怪物か。それを知る者も今となっては少なくなってしまった。まだ神が存在した旧時代、この世界の自然を支配していた者達が居る。
「久しぶりに見られるのかしら。“龍”の力を」
黄金に輝く瞳で怪物を捕捉するイルシュナ。そうして眉を潜めた。
「やはり、この世界の物ではない力を感じます……」
「あれも救世主……そういう事ね」
「尋常ならざる力です。魔力と呼んでいいのかは分かりませんが……我々で言うところの魔力、それに近い力が無尽蔵に湧き出しています。これは一体……」
イルシュナの第六感は人間では捉えられない気配を手繰る。彼女の瞳にはあの異形から噴き出す禍々しい力が確かに映りこんでいた。
「あの怪物の力……魔王の呪いに近いものを感じます。自然に……世界に干渉し、書き換える能力……危険です」
「だとすると、イルシュナとは相性が悪いわねぇ。私は被害を拡大させないように防ぐので精一杯だし……さて、どうしたものかしら」
「可能な限り、手段を尽くして足止めします。今の私は学園の教師……生徒とこのディアノイアを守る義務がありますから」
太股に備えた短刀を抜き、片手で回して構えるイルシュナ。獣はひたひたと歩み寄り、イルシュナへと標的を変えている。
「気をつけなさいイルシュナ。貴女はただでさえ布地が少ないのだから、炎を食らえば逃れる手がないわ」
「承知しています。脱ぐものはありませんが、当たらなければ良いだけの話です」
一気に走り出すイルシュナ。その加速力はアクセルにも匹敵する。擦れ違い様に短刀で獣を切りつけるが、攻撃にしようした刃に炎が燃え移ってしまう。
「近距離戦は不可能ですか……厄介ですね」
魔術を使って攻撃しても良いが、あの炎は障壁の役割も果たしている事だろう。まともにダメージを与えられない以上、足止めは難しいといえる。
「仕方ありませんね。こんな所で使うような力ではありませんが……」
停止し、目を瞑るイルシュナ。その周囲に風が渦巻き、シルエットを覆い隠していく。
背中からは二対の翼。腰からは鋭く伸びた太い尾。両手両足の爪は伸び、その手足を翡翠色の鱗が覆っていく。
全身の露出していた部分全てを龍の鱗が覆い尽くし、頬にまで侵食する。最後に側頭部の角が肥大化し、イルシュナは片手を軽く動かし己の変化を確かめる。
「――イルシュナ・フィオレス……参ります」
「ふう、これでもう大丈夫です! 応急処置は終わりましたから、後はちゃんとしたお医者さんに看て貰ってください!」
一方その頃、街中にて戦闘の余波で怪我をした人々の治療をするマナの姿があった。拙いなりにも会得した回復魔法で人々を治療していく。
「空での戦いは終わったみたいだけど……ディアノイアで爆発。どうなってるんだろう……心配だな」
額の汗を拭い、顔を上げる。ディアノイアでは断続的に炎が噴き出し、すぐさま氷付けになっている。その影響で戦場は空に広がり、空中で二つの小さな影が激突しているのが見えた。
「ザイオン先生も心配だけど……また怪我人がいるかもしれない。私にも出来る事はあるんだ。行かなきゃ……ディアノイアへ!」
小さな身体で夜の街を走り出すマナ。避難する人々の流れに逆らい。高台にあるディアノイアへと駆けて行く。
同時刻、ディアノイア付近にある寮の窓から戦闘の様子を眺める少女の姿があった。装備を整え、机の上のうさぎに声をかける。
「……行くよ、サイファー。勇者の仕事が出来たみたいだ」
頭の上にうさぎを乗せた小柄の少女。その手に銀の銃を握り、夜の街へと飛び出していくのであった。