さよなら、世界。
誰にも聞いてもらえず、
誰にも見てもらえず、
ただ一人で歌を歌う。
それが今の私のすべて。
人混みが溢れる新宿駅前。至る所に音を鳴らす路上ミュージシャンが現れる。その中に一人の少女。
いつだって一人で歌ってきた。誰も聞いてくれなくても、誰も見てくれなくても、きっと歌わないと私は駄目になってしまう。私は歌うことでしか自分を律することが出来ない。ここで歌うのは、私が私でいるためなのだ。
時計は夜の十時を指している。
行く当てはなくても、帰る場所はある。空っぽな、私の部屋。眠るだけの場所。でも、私に必要な場所。
「…おやすみなさい。」
今日の日に歌う、最後の歌。
「…さようなら。」
今日の私に歌う、最期の歌。
「…あの!」
片付けをしているときに話しかけてきたのは、若い青年だった。眼鏡をかけた黒髪の、私と年齢は変わらない青年。
「いつも…ここで歌ってますよね?」
「いつも?」
「あ、いつも見かけたときに聞いてたんです。小さな身体で、叫ぶように歌ってるのが苦しくて、でも惹きつけられて…」
「ありがとう、ございます…」
通り過ぎるだけの人混みを見ていただけに、私の歌を聞いている人がいたことに驚いた。考えてみれば、これだけの人がいれば私の歌は興味がなくとも耳に入る。答えは簡単だったが、いざ自分の歌が聞かれていたことに気付くとひどく恥ずかしい。
「CDとか、出してないんですか?」
「CDは…作ってないんです。歌を売ろうとか、思ってなかったので…」
「え、音楽をやりたいから路上やってるんじゃないんですか?」
青年は不思議そうな顔で尋ねてくる。
「売れたいとか、思ったことないです。私はただ、私が私でいるために歌ってるだけです。」
「きみがきみでいるため…?」
「そう。私は歌わないと生きていけないから…今、私が生きる理由は歌うことしかないから。歌ってないと、私は一人で静かに消えていくしかないから。まるで、初めからいなかったように、跡形もなく…」
誰も聞いていなくても、誰も目にとめてなくても、誰かの耳に残れば、誰かの目に一瞬でも映れば…そこに私は生きている。
「僕の中で生き続けたらいい。」
青年は静かに笑う。先ほど話しかけてきたときの、新宿の街にありふれている顔とは違う、青年の顔。
「僕の中で生き続けたらいい…僕の中では生き続けるよ。ずっとずっと。」
「…そう言って、他の記憶と入り混じって、この人混みのように私は流れていくのでしょう?」
他の人と入り混じって、私が誰かも忘れられて、記憶の底へ、沈んでいくのでしょう?
青年は何も答えず、私も何も言わなかった。そして、私は無言で人混みの中へ流されていった。
いつも通りの空っぽの部屋。今日の私が死に、明日の私が生まれる部屋。
「…さよなら、世界。」
今日も私は歌う。
誰にも聞かれずに、
誰にも見られずに、
ただ消える日まで。
「…こんばんは。」
昨日の青年が再び声をかけてきた。昨日の話を気にしているのか、表情が暗い。青年の右目にある泣きぼくろがそれを一層物悲しくさせている。
「昨日は軽はずみにあんなことを言ってしまって、ごめん。僕は…きみの歌が好きなだけなんだ。だから、きみの歌が聞けなくなるのは、僕は嫌で…」
一言一言、言葉を選びながらこぼす青年。不器用なりに、言葉を紡いでいる様は、さながら言い訳をする幼稚園児のようだ。
「あの、これ。」
「えっ、これは…?」
「昨日、眠れなくて。暇つぶしに作っただけです。」
私は真っ白なCDを差し出す。ここに来る前に、スタジオで録音してきたCD。私の、分身。
「自分で録音したやつだから、音、そんなに綺麗じゃないですよ?」
「嬉しい!ありがとう!」
青年は先ほどまでの表情が嘘のように笑顔を咲かせている。私もこの青年のように、不器用でも何か伝えられたのだろうか。青年の言っていた私の歌っている姿は、何かを訴えていたのだろうか。
「帰ったら聞く!でもその前に、今ここでも歌を聞かせて?きみの歌を。」
青年は私の前に座り込む。青年の後ろでは忙しなく人が流れていく。いつもと変わらないはずの新宿駅前、いつもと違うのは、私の歌を聞く人がいること。
そしてもう一つ。それは、私の歌。
「さよなら、世界…また明日。」
この度は閲覧ありがとうございました。
今回は路上で一人歌う少女と、その少女を見ていた青年のお話でした。
少女が消える理由については、あえて明らかにはしませんでした。理由は読んでくださった方が自由に感じていただければと思います。よろしければどのように感じたかなど教えていただけると嬉しいです。
最後まで閲覧ありがとうございました。
夜野夢