二話「雨模様」
すはーぁ、と間の抜けた音をさせつつ紫煙を吐き出す。
乾いた唇と唇に挟まれたタバコ。その隙間から白い煙が立ち上り、湿気の多い空気中へと四散していく。先端に灯った火が機嫌よさげに強さを増した。火の粉がぱチりと弾ける。
オルカの居る孤児院と、ジュリアの家はさほど離れていない。徒歩でもじゅうぶん行ける距離だ。
だが、天気が悪いと近場でも距離があるように感じてしまう。
ジュリアは、使い古した傘を持ち直すと、タバコを咥えたままで空を仰ぎ、落ちてくる雨をぼんやりと見遣った。
傘をさしたままでは通れないようにも見える通路を曲がり、小さな橋を越え、廃屋を迂回して比較的大きな通りへと出る。小高い丘にある階段を一段一段上がっていくと、孤児院が見えてきた。
極めて単純なコンクリート造りの、学校に似た構造の建物。空き地程度の庭。適当に配置された遊具。それらは全て古びている。雨で建物が濡れているせいなのか、いつにも増して侘びしさが増大している。
ジュリアは、雨で湿った髪を指で弄ると、タバコを携帯灰皿にねじ込んで、孤児院の正面玄関から裏へと周る。
かつてはあったであろう外壁の格子がヘナヘナと地面に垂れていた。
裏口へとたどり着き、ドアの前で傘を折りたたむ。傘の水分を落としていると、ドアの内側になにやら物音がしてきた。なんとなく誰かが分かった。昼間ということもあり、孤児院の小さい子供は昼寝をしている。ということは昼寝をしなくてもいい人物だろう。
ドアの内側の人物が鍵を開けると同時にドアノブを捻って開けた。動揺しまくりのオルカが居た。
特に表情を変えていないジュリアは、片手を上げて挨拶をした。
「おっす。ナニびっくりしてんの?」
「そんなまだ心の準備が!?」
「ハイハイ。じゃー私はドアの前であと一時間ほど待機してよっかなぁ~」
極めて冷静なジュリアと、裸を見られた少女のように大慌てなオルカ。
いつまでたっても事が進みそうにないと判断してジュリアは、オルカを押しのけて、裏口に傘を立てかけると、それこそ家の主のように中へと進んでいく。
なまじ男っぽい性格のジュリアだけに、オルカのほうが女の子に見えるようでもある。
孤児院へは何回か来ているので構造はある程度把握している。部外者であるはずのジュリアを先頭に、オルカが続いて事務室へと足を踏み入れた。
事務室は、オルカの性格を現したように整っており、書類やら端末やらが中心の静かな部屋だ。孤児院で働いているほかの人の姿が見えない。
ジュリアは一番近い椅子を引き寄せて座る。オルカは、ジュリアから少々離れた位置に椅子を持ってきて座った。
何も喋らないで居ると雨が建物の屋根を叩いている音が聞こえてくる。止みそうにない。
「………」
「………」
よく考えてみれば、なんで孤児院に来たんだろう。あぁそっか、オルカに会いに来るついでに掃除とかなんとかを頼まれにきたんだった。などと考えつつも無言。
何をするでもなく二人は座っているだけ。
壁にかけられた時計からカッチコッチと時間を刻む音が聞こえてくる。
ジュリアは沈黙を打ち破るべくオルカに声をかけた。
「仕事とか無いの?」
「実は、昨日張り切って仕事やって掃除やって修理もやって買い物もやってしまいまして」
それじゃなにもやることが無いではないか。
ジュリアは、両腕を組む。赤い瞳が細まり、じっとりとした目つきに変わる。
「ってことは私は要らない子かなにか?」
「そんなことは無いですよ!」
「ふーん、ふーぅぅーん、つまり暇だけど呼んだよ! ってのかぁ………いいけどねー、いいけどねぇー」
両手を振って否定するオルカだったが、やる事も無いのに呼び出したことになりかねないわけで。ジュリアは、やれやれと溜息をつきつつ立ち上がり、オルカにじりじりと迫り始めた。
無言の圧力にオルカは気圧されて椅子の上で身を引く。表情が強張る。
距離が握手できるほど迫り―――オルカの頭部にジュリアの両腕が巻きついた。腕は一瞬で蛇のようにしなり、首へと掛かり、あろうことかオルカの首をぐいぐいと絞め始めた。
オルカは、ある意味で抱きしめられているという嬉し恥ずかしさと、首にジュリアの腕が食い込むという二つの苦行を与えられて顔が真っ赤になる。一つは羞恥。一つは酸欠。
ジュリアの腕を解除せんとオルカは必死で抵抗を試みるが、案外手加減無しで締めてくるので無理だった。
「……ぐるしッ!? ……とって、おねがッ、うぐぐ………ぅ」
「弱っちいなぁ、オイ。ホラ」
程よい筋肉で包まれた腕が解かれる。
オルカはケホケホ咳をしながら喉を擦り始め、強すぎたと思ったジュリアが背中を擦る。収まったのを見ていたジュリアは、オルカと向かい合うように椅子を配置して座った。
オルカは灰色で長めの髪がボサボサなのにも気がつかない様子で、徐々に目つきがじっとりとしてくる。流石に首を絞められて悦ぶようなタイプではないのだ。ジュリアは片手を上げてウィンクをかましつつ軽い調子で謝罪した。
「悪ぃ悪ぃ。……調子に乗りすぎたかな」
「いえ……」
「そーだ、昼飯は食ってるか? 賠償金ということで」
時計が指している時間は昼間。
オルカの話を聞いている限りでは忙しいようだったし、ひょっとすると何も食べていないかもしれない。男勝りな外見から勘違いし易いが、ジュリアは料理が得意なのだ。
すると、漫画のようにオルカのお腹から「ぐぅ~」と分かりやすい音が聞こえてきた。
今更否定など出来るわけも無く、首が縦に振られた。若干顔が赤い。
ジュリアが立ち上がる。
つられてオルカも立ち上がった。
事務室の隅のほうには簡易的な料理場がある。ジュリアは、オルカに座っておくように言うと、冷蔵庫の中身を調べ始めた。
野菜類、肉類、果物。基本的なところは揃っているようだった。冷蔵庫の横の棚を開けると、中にパスタ麺が入っている。ジュリアは、顎に指を這わせ、冷蔵庫に視線を戻す。
料理を手伝おうとそわそわするオルカだったが、ジュリアの背中が「黙って座ってろ」と語っているために、どうしようもなく座っているしかない。
「ニンニクと唐辛子もあるのかぁ……。ふーん。働いてる人用にしては豪華な……。これならいけるかー」
ニンニクと唐辛子をボウルに入れ、その他いろどりのある野菜を少量放り込む。作る料理が決まったのだ。
調理台の下にある棚を開けて鍋を取り出すと、たっぷりと水を注いで火をつけ、温度を上げていく。
ふと後ろを向いてみた。オルカが、惚けたように見てきていた。視点を定めておく場所が無くて見ているのかと思ったが、こういう結論に至った。
「そんなに腹減ってる?」
「! はい、勿論!」
「そっか」
話しかけられるとは思って居なかったオルカは、自分でもびっくりするほどの声量で返事をしてしまう。反応するのに数秒と掛かっていない。瞬間的に声が出てしまった模様だ。
ジュリアは、調理台の隅にあったエプロンに袖を通すと、お湯に一掴みの塩を入れた。
「手っ取り早くペペロンチーノでいくわ。腹減ってるみたいだし、食べられたはずだし」
「大丈夫です。……え~っと、あ、お皿出しておきます」
「頼む」
ジュリアは、ぐつぐつと音を立てて沸騰している鍋にパスタを入れた。
食事が一通り終わった二人は、お皿を洗っていた。
皿と言っても使用したのは幾つもない。洗剤で汚れを落として、水分をふき取って乾燥させるだけだ。あっという間に終わってしまう。
時間はオヤツ時。
雨音は遠く聞こえながらも、滝を建物の上に配置してるが如く猛烈な量の水を降らせている。窓を閉め切っていても水が染み込んでくるようだ。
さほど大きくない机に座った二人は、昔のことやらなんやらを話している。孤児院での出来事、それから何があったか、最近のニュース、好きな食べ物。
ジュリアとオルカの会話が止まる。よく考えてみれば、こんなに長い時間話したのは子供の頃にいた孤児院以来ではないのか。
二人は、相手が成長しても大元が変わっていないのを感じた。
「そういや仕事ってどうなってんの? あんまり私と話してちゃダメなんじゃねーの?」
「今日は……いけない。もう行かないと」
時計が指し示すのは、時間切れの合図。
慌てて立ち上がるオルカに、ジュリアも立ち上がると、大きく伸びをしつつドアの方へと歩いていく。
「私もちょっとは出来ることがあるかもしれないから行くよ」
「そんな。悪いですから」
両手をふるようにして言いつつドアノブを捻ろうとするオルカだったが、それより先にジュリアがドアを開けて廊下に出ていた。後からオルカが続く。
ジュリアは、悪戯に笑いながらオルカの肩付近をバンバンと叩いた。オルカが『けほっ』とか声を出したのは気のせいだ。
「なぁーに水臭いこと言ってんだか。手伝わせてよ」
「そんなに言うなら、仕方ないですけども」
「ほら行くぞー」
「僕が先に行かないと色々とですねッ!」
「早いモン勝ちと言うことでー!」
二人は、我先にと廊下を走っていった。
ジュリアが帰宅するのはもう少し後になりそうだ。
「今頃よろしくやってるかな~」
「何がですか?」
麻酔の打ち場所を間違えたような緩みっぱなしの顔の女と、少女と見間違う麗しい青年、計二名がのん気にもお茶を飲んでいた。前者はクラウディア。後者はエリアーヌである。
オヤジさん繋がりでエリアーヌと面識があったクラウディアは、一人で整備するのは時間がかかるということで呼んでいたのだ。そして彼女の思惑通り、エリアーヌは十人分と言えるほどの活躍を見せ、朝から始めて夕方になる頃には完全に終了していた。
彼が何時間もぶっ続けで整備できるだけのタフネスを持っていたのは、クラウディアにとっては嬉しい誤算であった。
格納庫から出て、リビングのテーブルにての簡単なお茶会。
……そのはずだったのだ。
お茶を入れて、軽食を作って、談笑して、映画を見て、うつらうつらして、ふと気がつくと夜になっていた。内容だけ見るなら女友達のそれと大差ない。つまり簡単に言うとダラダラしすぎたのだ、二人そろって。
顔をテーブルにつけたまま何をするでもなく顔をニヤ付かせるクラウディア。彼女が呟いた一言の意味が理解出来なかったエリアーヌは、栗色のセミロングの髪をさらりといわせながら首をかしげて見せた。
テーブルの上は片付いていて、紅茶の注がれたカップやお菓子しか乗っていない。エリアーヌが片付けたのだ。そういうところは女性であるはずのクラウディアよりも女性らしい。
夕闇迫る時間帯。カーテンの隙間からは、ぼんやりとして輪郭の無い光が入ってきている。夏に近いからまだ明るさが残っているだけで、冬だったら真っ暗なところだ。
クラウディアは頭を上げると、自分の前に置かれているカップの中の冷え切った紅茶を飲み干し、人差し指を一本出して話し始めた。
「ふふっ~ん………逢える時間が不定期でちょっとイライラ気味の彼に機会をプレゼント……。いくらあのニブチンでも、どどーんと言われたら分かるでしょ?」
「えっと、それは誰の話なんですか?」
やっと話が分かってきたエリアーヌは、眼を輝かせながら身を乗り出す。
恋の話は女の子なら誰でも好きなのだろう―――……エリアーヌはれっきとした男性だが。
「きまってンでしょん。オルカ君の淡い恋っ。ああもうッ、語らずにはいられないッ!!」
「お相手はやはりっ!?」
「その通りでゴザイマス―――ジュリア――」
興奮した様子で話を待つ一人、話そうとする一人。
その時だった。
「私がどうかしたって?」
玄関のドアが乱暴に開かれると、雨でズブ濡れになったジュリアが入ってきて、リビングにいる二人を睨みつけた。シャツはびしょ濡れ。ズボンは水が滴る。黒のショートカットはつい今しがた水バケツ爆撃を受けたかのようだ。水も滴るいい女とはいかない現実。
ぽた、ぽた、ぽた、と落ちる雫がリビングの床に落ちる。ジュリアの赤い瞳が、ぎろりとリビングを舐めるように見て、テーブルの上の紅茶の入ったカップやら茶菓子やらを見る。
なるほどなるほど。
冷たい雨に晒されている最中、このお二人はのん気にお茶会を開いていたというのか。
誠に腹立たしい限りなのだが、整備を終えてのことだから怒るに怒れず、バスルームへと直行することにした。
「ジュリアー、傘どうしたのー?」
「外見てみろよ。風が物凄くてさらわれちまったよ」
クラウディアとエリアーヌが窓の外を見てみると、いつの間にやら暴風が吹き荒れていた。轟々と雨が建物を叩き、風がゴミを舞い上がらせている。この中を傘をさしてあるいてきたというなら、風に持っていかれても不思議は無い。
バスルームの扉が開いて、閉じる音がした。
お茶会組は顔を見合わせる。
「エリアーヌ君は今日泊まっていってもいいよ。むしろ泊まりなさい」
「ええーっ!? それはダメ……」
「泊まらないと裸にひん剥いて遊んじゃうわよん♪」
「わ、分かりました……から、それだけは……」
御巡りさんにご厄介になりそうな発言で脅しをかけるクラウディア。エリアーヌは、雨の中で裸になって帰るのを想像して顔を青ざめさせ、ぺこぺこと頭を下げる。微妙に涙目になっていた。
クラウディアは拳を握って親指を立てると、さっそくエリアーヌに着せる服を考え始めた。あれもいいな、これもいいな、いやこれも、と。
人の思考まで読むことは出来ない一般人のエリアーヌは、残りの紅茶のカップを洗い場に持っていった。
その夜。
クラウディアは写真を撮影しまくったとかなんとか。