タクシーの中で
遂にやってしまった、そんな思いで男の心は一杯だった。とにかく帰ろうと、山道に出てひたすら下っていた。いきなり漆黒の闇の中から狼の目のような二つの光が現れて、男の心臓が跳ね上がった。思わず光を、バックを持っていないほうの腕で遮った。
タイヤの音を軋ませて、男の目の前で停まったのは、一台の普通のタクシーだった。後部座席のドアが、自動で音もなく開く。男は面を喰らったが、見つかってしまった以上、無理にタクシーを追い返すと逆に怪しまれると思った。覚悟を決めて、一つ深呼吸をしながらタクシーに乗り込んだ。
「A町まで」
まぁすぐに降りてやるさ、という思いで近くの町の名前を告げた。
「はい」
運転手は答え、山間部を走り出した。車内の空気は思いのほかひんやりしていて、男は身震いした。それに気が付いた運転手はクーラーのスイッチを切った。
「暑くなったら声を掛けてください」
「ありがとうございます」
ぶっきら棒な運転手の問い掛けに、男はそわそわと答えた。今年は十月に入ったばかりなのだが、妙に残暑が厳しい。しかし、彼にとってはそんな暑ささえ感じさせない程に手足が冷えきっている。
「お客さん。A町にお住みで?」
「いえ」
「じゃあ東京から?」
「ええ、まぁ」
「今日はA町にお泊りで?」
「え、ええ」
会話が途切れると、ずっしりと沈黙が男にのしかかる。その沈黙を破るように、
「いやあ、助かった」
と、男は声を張り上げた。声が少し震えたが、男はそれを歩きつかれたように聞かせる為に、息を弾ませた。
「こんな山奥にタクシーが来て貰えるとは思ってもいませんでした。まさに地獄に仏とはこの事です」
「お客さん。こんなところで何を……」
男の表情に変化が現れ、運転手はハッとしたように口をつぐんだ。
(どう言おう……)
男は必死に思いを巡らせた。どう説明すればこの場を切り抜けられるだろうか。光が見えたところで木陰に身を隠せばよかった、と男は後悔の念で唇を噛み締めた。あの時は頭が一杯で動きが鈍ってしまった。とにかく見つかってしまったものは仕方が無く、後に引ける状況でもなかった。
(この運転手も……)
ふとそう思ったが、流石にそれは御免だと思い直した。既に人を一人殺して来たのだ。無駄に殺人を重ねたくない。
「いやぁ、道に迷ったんですよ」
男は明るい言い草で頭を掻いた。
(演じきらなければ……)
そう胸に言い聞かせながら、乾き切った唇を湿らせた。
「ロープウェイでS山まで行ったんですけどね。そのままロープウェイで降りるのも芸がないと思ったんです。バードウォッチングを兼ねて町へ向かっていたんですけど、夢中になりすぎてこんな処まで来てしまいました。ここいらは右も左もわからなくて、パニくっている時に運転手さんが来てくれた訳です」
「そうだったんですか」
運転手は大きな安堵の溜息をつき、男もそのことに自身も安堵の溜息をついた。言葉を相手が信じた、という安心感からだった。
「しかし、何の準備なしにこの山で一夜を過ごそうなんて無謀でしたね。朝晩になれば気温がグッと冷え込みますから。凍死する人もいる位です」
「それは怖い」
男は肩を竦め、首をブルブルと振った。今度は演技の身震いだった。男はふぅ、と息を吐いてシートにもたれかかった。客が疲れていると察したのか、運転手は安易に話しかけてこなくなった。すると男はにわかに不安になった。黙っていれば自分の行為の記憶で頭が一杯になり、押し潰される様な気がした。とにかく話題を切り出さなければ、と焦った。
「お恥ずかしい話ですが、私は怪談話が苦手なんですよ」
男は、とっさに考えた台詞を口にした。
「そうなんですか」
運転手の声に好奇の色が宿った。この時期でもタクシーの運転手には、この話題は色褪せることはないようだ。
「ここら辺に幽霊が出るって話。運転手さんは知りません? ちょっと前に彼女からそんな話を聞いたものでして」
幽霊が出ると言う話は、殺した女から聞いた話だった。二週間程前からS山には幽霊が出ると言う噂が引っ切り無しだったという。
「うーん、すいませんねぇ。ここらで幽霊話ってのは聞かないですねぇ」
「ほぉ、それは良かった。あのまま山に残されていたらビクついたままどうなったか解りませんでした」
軽い口調に運転手も、ハハハと笑った。
「幽霊に会わなくて良かったですね」
「ええ、全くです」
ひとしきり笑い合う。笑いがおさまったところで、運転手が言った。
「でもねぇ、やっぱり怖いのは幽霊より人間ですよ」
「……と言うと?」
必死に会話を繋げようと、男は聞きなおした。
「いつの時代でも少年や老人といった弱い者を狙う不届き者がいます。こういう職業柄、お客さんに背を向けていますからね。特に私たちは無防備で狙いやすいんでしょう。一年程前に知り合いの運転手が殺されたんです」
「その事件は聞いたことがあります」
いつだったか忘れたが、タクシー運転手が殺された事件を、何度か新聞で読んだことがあった。当時は運転手という職業は危険と隣り合わせで大変だと感慨深く思ったことを覚えている。危険が隣り合わせ、という条件では俺も同じだったからだ。
俺は入社当初から経理を担当していた。ミスの無い細かい計算や何事にも動じない態度が、前々から上司の目に入っていたらしい。いつしか社長の膝元で帳簿をごまかすことに専念していた。その総額は、五百万円は下らない。会社の利益からみても大きな金額だ。発覚するのも時間の問題では……と、正直なところ内心は穏やかなものではなかった。案の定、一人の女性社員が会社の不正に感づき、遂には俺が関与していることまで突き止めてしまっていた。その不正のデータを警察に流されたくなかったら、一千万円を用意しろ、と女は要求してきた。もし不正が発覚でもすれば己の全てが終わってしまう気がした。
―死ぬのなんて怖くないの。人生最後の大仕事、何も怖くないわ。
と、女は耳元で囁いた。とにかく外に喋られては困る。死を覚悟している奴は何をするかわからない。急に女の存在に恐怖を感じた。
―殺すしかない。
俺はそう思った。何処か遠くへ、誰も居ない処へ行きたい、と常日頃の様に愚痴をこぼしていた女を誘うのは簡単だった。友人の経営するペンションがある、そこで例の物を渡す。その言葉に女は無邪気に喜んだ。
男は知っていた。車で山奥へ行けばすぐに犯行が発覚してしまうことを。何かしらテレビでやっていたのを思い出した。そこで男は現地で待ち合わせをし、ペンションはすぐそこだと嘘をついて山奥の人目の無い処まで誘き出した。
油断した隙に後ろから頭を殴った。
気絶したところで持参したロープで女の首を思いっきり絞めた。近くにあった窪みを、持参のスコップで更に掘り進め、それと共に彼女を埋めた。
そして観光客を装って人目の多い場所で暫く時を過ごし、こっそりと山奥から下山した。
勿論、男にとっては誰にも見つからずに里まで降りる予定だった。
「そちら、だいぶお疲れのようですね」
「そちら?」
運転手のふとした言葉に男の胸に大きな針が刺さった様な痛みが生じた。にやけた表情を浮かべ、ルームミラーから覗き込んで遠慮がちに続けた。
「いえね、そちらのご婦人ですよ。相当お疲れのようですねぇ」
「ご婦人?」
ぞくり、と首筋が粟立ち、全身が総毛立った。
「お客さんの膝に寝てられるご婦人ですよ。妬けますな」
(膝の上?そんなものいる訳が……)
男の顔は目に見えて真っ青になっていく。
「すみません。プライベートに立ち入ってしまって。詮索するつもりは……」
男の両膝は、麻痺したように動かなかった。
「どんな女だ」
男は必死に抑えている恐怖を押し殺そうと、ドスの効いた声で聞いた。
「え?」
「本当に……俺の膝に女がいるのか?」
「嫌ですよ、お客さん」
運転手は笑って、舌をちっと鳴らした。
「わかりましたよ。事情はお察しします。見えないことにしときましょう」
「何を言っているんだ!」
男は凄まじい形相で怒鳴った。運転手の肩がビクッと震える。運転手は急ブレーキをかけた。顔も青ざめ、額には汗が滲んでいる。
「お、お客さん。そ、そんなに怒らないで下さいよ」
「怒ってなんかないよ。ただ……知りたいだけなんだ」
男はカラカラに乾いた声で、必死に声を絞り出した。
「ずいぶんと小柄な人だけど、かなり軽装ですよねぇ。山歩きも、ここらで一夜を明かすのも相当キツイのでは……」
更に男の全身に悪寒が這い上がる。あの女はハイキングになると知っといて、ほんの近場に行くような軽装で来ていた。背丈も、男の胸元ほどしかない。
(この運転手には俺の殺した女が見えているんだっ)
この時、男の中で何かが弾けた。
「止めてくれ!こっちに来ないでくれっ!」
男は発狂したように、目に見えないそれを払いのける。
「お客さん、どうしたんですかっ?」
その男の豹変振りに、運転手も驚きを隠せなかった。
「う、うぁぁっ……」
ブンブンと両手を振り回し、思いっ切りドアを開けて飛び出してしまった。来るな、来るな、と絶叫しながら森の茂みへと走っていった。
※※
男の姿が闇に消え、運転手はシートに思いっきり寄り掛かった。心臓の鼓動がおさまるのを待ち、人心地がつくとホッと胸を撫で下ろした。
「やっぱり彼は人を殺してたんだな……」
運転手は、徐々に男のことを回想していく。
(そもそもあんな時間に一人で山道を歩いている事態おかしいんだよな。それに……)
後部座席からは感情のうねりの様なものを感じていた。運転手という職業を続けていると、背中の神経が些か敏感になるものらしい。その気配が何たるかを考えながら、運転手はタクシーを走らせていたのだ。
男はいかにも女性にもてそうな容貌の持ち主だった。流石に人を殺したという確信は無かったが、もしかすると女性がらみの揉めごとでこんな人気の無い処まで来たのでは……という結論まで考え付くには大して時間が掛からなかった。
そんなとき、都合良く男が幽霊話をした。これぞとばかりに、運転手は幽霊話を利用しようと考えた。もし女を殺したのであれば女が膝の上で寝ていると聞いて驚愕しない訳はない。
そして案の定、男は面白いほどに怯えた。怯えるあまり自分から車の中から出て行ってくれた。料金を払わずに出て行ったのは少しシャクだったものの、運転手は自分が殺されずに済んでホッとしたという思いが大きかった。
再び大きな溜息をつく。疲れた頭の中で暫く家に帰っていなかったことを、ふと思い出した。
「そろそろ帰ろう」
運転手の家はA町ではなく、さらに三つほど先の町だ。車を飛ばせば三十分程で着く距離だ。久しぶりに妻の手料理も食いたい、とすこし浮かれた気持ちで車を発進させた。
夜明けに近いこの時間は、流石に客は少ない。A町を過ぎ、特に信号も引っかかることもなかった。思ったよりも早く着くのでは、と思った刹那だった。左手側の歩道に、手を挙げている女性に視線が釘付けになった。女は白い軽装な服を着ている。
夜となれば、山に囲まれたこの付近の町では流石に肌寒くなることを、運転手は知っていた。
(停まってはいけない!)
第六感というのか、運転手は自分自身の頭に危険信号が鳴り響いた感じがした。とにかく停まってはいけない、と何度も頭の中で意識したが、彼の左足は脳の指令に反してブレーキを踏んだ。操作をした訳ではないのにバタンッ、といきなりドアが開いた。そのまま女が、すうっ、と乗り込んでくる。
「東京まで」
女はか細い声で言った。運転手は、言われるがままにタクシーを走らせた。相手が人間であれば東京まで、と言われて小躍りするだろう。かなりの長距離だ。しかし、相手が人間ではなければそうはいかない。女の額はパックリと割れ、その開ききった傷跡から流れる血と、開けた首元には紐で縛られた跡が、バックミラーからでもくっきりと見えた。運転手の顔が恐怖で硬直する。早く消えてくれ、と心の中で絶叫する。乗せてしまった以上、自発的に消えてもらうしかない。そんな運転手の思考を読み取ったかのように、女が話しかけてきた。
「私……殺されたんだ。あの男に」
運転手の後頭部ギリギリまで顔を近づけて、女は淡々と話し続ける。
「もともと私は死ぬつもりだったから覚悟は出来ていたの。でも……」
物悲しそうな女の声が、更に沈んだ。
「運転手さんは、突然だったから解らなかったのね」
「突然って何が……」
「貴方のことよ。二週間前のこと……。覚えてない?」
彼女は彼の質問には答えずに、更に優しい吐息で問い掛ける。
「それは……」
運転手の顔が徐々に引き攣っていく。何かを知っていながらも、それを認めたくないような表情。
(そうだ。急いで帰ろうとして山道を走ってる時に、動物が横切ってハンドルを切ったら……でも……)
「そういえば、なかなか家に着かないわね」
女は窓の外を覗き込み、間延びした声で呟いた。
(そうだ、何故着かないんだ)
この場から早く抜け出そうと、運転手は目一杯アクセルを踏む。しかし、その意思に反して足の力がどんどん抜けていく。先ほどから外は同じ景色しか流れていないような気がした。
「この辺りにタクシーの幽霊が出るって噂を聞いたの。初めは単なる噂と思ったんだけどね……本当だったみたい」
ゆっくりと、彼女の白い手が運転手の首元に回った。彼はその腕から逃れようとしたが、身体が自由に動かない。
「そ、そんな……」
冷酷な瞳で、運転手の瞳を覗き込む。そしてこの世のものとは思えない、冷淡な笑みを浮かべた。
「確かに受け入れるのは大変よ。でも大丈夫。苦しくなんか無いから……」
※※※
―後日。山道沿いの崖下で、横転してボロボロになったタクシーが発見された。司法解剖の結果、運転手の遺体は死後二週間が経っていることが分かった。更にS山の中腹で、一人の男性の死体が見つかった。木の幹にしっかりと巻きつけられたロープで首を括った状態で発見されたのだ。目撃者はいなかったものの、警察は周りの状況から見て男を自殺と断定した。
しかし……男に殺された女性の遺体だけは遂に発見されることはなかった。数々の物的証拠、懸命な捜索にも関わらず、どうしても女性の遺体は見つかることはなかった。