(2)
どれだけ聞いても耳には馴れない電子音を聞きながら、いつものように目が覚めた。
時間は朝五時三十分。
目覚ましを止め、ゆっくりと身を起こす。
「んっ……」
伸びをしてから見回す。どこも変わりない、自分の寝室だった。
「ただの夢──にしては、ヘンな夢だったな」
俺は目覚めたあともなかなか消えてなくならない自称死神の顔を思い浮かべながら、洗面所へと向かった。
目覚めてしまえば、今日も変わらぬ日常が待っている。
リビングへ行けばいつものように妻が出迎えてくれ、朝食に出来立てのフレンチ・トーストと濃いめのコーヒーを用意してくれる。結婚して以来、俺の朝はこれがかかせない。
食事を平らげ、出勤の準備をすると、まだ眠っている三歳の娘の頬にキスをして家を出る。
会社にはいつも俺が一番に着く。鍵を開け、新聞受けに押し込まれている五紙分の新聞をとって中にはいる。
これから社員の出勤時間になるまでに、これを読んでしまうのが俺の一日で最初の仕事だ。
八時を過ぎると社員もちらほらと出勤し始める。そのひとりひとりに言葉を交わし、仕事の進捗をたずねたり、たわいない世間話をする。こんなちょっとしたコミュニケーションも、社長の大切な仕事だ。
そのころには、俺は朝方見た夢のことなどすっかり忘れていた。
ふだんと変わらない、充実した毎日が過ぎていく。
そう思っていた。一本の電話をとるまでは。
午前十一時三十三分。そろそろ今日の昼飯をどうしようかと考えはじめる頃、俺の携帯に着信が入った。
営業に出ている社員の一人からだった。俺は通話ボタンを押し、携帯を耳に当てる。
「鈴木か。どうした?」
「社長……」
鈴木の声はか細く、聞き取りづらかった。いつもは営業らしくはきはきとしゃべるのだが。
鈴木には今、某大手商社との商談の取りまとめを任せていた。業績好調とはいえ、まだまだ小規模な我が社の中では重要度ではトップクラスだ。
声の調子からすると、何かトラブルだろうか。もっとも、この商談については俺がほとんど成立目前のところまで持っていってある。あとは正式な契約書を作成してサインをもらうばかりになっていたはずだが……。
「どうした、鈴木。何か問題か?なに、おまえに対処できない問題なら俺がやる。気にせず言ってみろ」
俺は一抹の不安を感じながらも、それを声には出さないよう注意しながら鈴木を促した。
「……セル、されました……」
「なんだって?」
「キャンセルされました……。契約そのものを」
「なっ、バカな?」
めまいがした。
「条件を見直せと言うことか?受注代金を──」
「いえ、もう……。競合他社が急に割り込んできてこっちの契約条件の何倍もいい条件を出したとかで、もう正式契約をかわした、と──」
「そんな──」
二の句が継げない。いくらなんでも、このタイミングで他社に乗り換えるなんて道義的にあり得ないはずだった。
電話口から鈴木の、普段のそれとはほど遠い、かすれた声が聞こえてくる。泣いているのかもしれない。
「わかった。とにかく戻ってこい。俺からもう一度──いや、おまえの責任じゃない、気にするな。大丈夫、俺が何とかする」
動揺して震える声を抑え切れたかどうか自信はないが、なんとか鈴木をなだめて社に戻るよう言ってから電話を切った。
これでもう、昼飯どころではなくなった。俺は大手商社の担当に直接話をするべく携帯の電話帳を──操作しようとしたとき、また着信が入った。鈴木とは別の番号だ。
「大変です、社長!」
通話状態になるなり、大声が耳を貫く。この声は中島か。そう言えば取引銀行から連絡があってさっき出ていったが──。
「銀行が、来月の融資は出来ないって──」
「なんだと!」
俺は机をたたいた。
「どういうことだ!」
「こっちもよくわからないんですが、経営状況がどうだの、融資額がどうだのって、とにかく融資は出来ないの一点張りなんです!」
おかしい。昨日まではそんな素振りは一切なかった。それに、こっちは不渡りを出したこともないし、業績も安定している。銀行からすれば優良企業のはずなのに──。
わめき散らす中島から何とか話を聞き終えて通話を解除すると、それとほぼ同時に今度は会社の電話が鳴った。
経理事務の三宅が電話をとったが、すぐにぺこぺこと頭を下げだし、やがて受話器の話し口を手で押さえながら俺を呼んだ。
「社長!先月受注した企業からクレームです!」
「今度は何だ……」
受話器の向こうから、怒鳴るような声が漏れ聞こえてくる。相当怒っているようだった。
「とにかく、こっちへ回してくれ」
俺は立て続けの事態に痛みを訴えだしたこめかみを指で押さえながら、デスクの上の受話器を持ち上げた。
その日、俺が愛しの我が家へ帰り着いたのは午後九時半を回った辺りだった。
普段なら俺が会社に残っていると社員が帰りづらいので、なるべく六時か、遅くとも七時には会社をあとにするようにしているのだが、今日はどうにもならなかった。
あれから方々に電話をかけまくり、事態の収拾を図ったが改善の兆しはまったくもって見えなかった。
なかでもまずいのは大口契約のキャンセルと、銀行の融資のストップだ。いずれも単体だったなら乗り切れなくもないが、まとめて起きてしまうとまだそれほど体力が付いていないうちの会社では耐えきれない。
昨日までは順風満帆だったのに、たった一日でこのありさまだ。
「最悪、不渡り……か」
星の少ない夜空を見上げながら、弱気が口をついて出た。
俺ははっとして立ち止まり、思い切り首を振って自分に気合いを入れる。
──しっかりしろ。俺がこんなんじゃ社員はどうなる。
まだ会社も完全にだめになったわけじゃない。仮にここをしのいでもいちからやり直すのに等しくなってしまうだろうが、もともとはゼロから始めたことだ。
きっとまだなんとかなる。そう信じてやっていくしかない。
体も心も今日一日でだいぶ疲弊したが、俺には家族がいる。あいつらがいればこんな疲れ、なんの問題にもならない。娘はこの時間じゃもう眠っているだろうが、妻が起きていてくれたら、今日は少し話をしよう。久しぶりに、いっしょのベッドにはいるのも悪くない。
俺はそんなことを考えながら、玄関のドアに手をかけた。
リビングに明かりがついていたので、妻はまだ起きているのだということはすぐにわかった。普段は夕食をすませるとそれぞれ自室に入ってしまうことが多いので、この時間にリビングにいるのは珍しい。
「ただいま。ひょっとして、待っていてくれたのか?」
俺は妻にそう声をかけながら室内に足を踏み入れた。
「お帰りなさい」
姿勢良くソファに腰掛けている妻は、こちらを振り返らずにそう言った。
「美幸は?」
「もう寝たわ」
短いやりとり。いつもと変わらない──はずだが、妻の口調はすこし堅く感じられた。
のどが渇いていたので、冷蔵庫を開けて缶ビールを一本取り出した。プルタブに指を引っかけて引き上げると、カシュッと小気味いい音がした。
「あなた、お話があります」
ビールに口を付ける前に、妻が言った。むこうからそんなことを言うなんて珍しいことだ。
「ああ、これを飲んだらそっちに行くよ」
「いえ、飲む前に聞いてください」
俺は今まさに口に流し込もうとしていたビールをひとまず口からはなして、妻をみた。表情が硬い。
いつも俺の三歩後ろを黙ってついてくるような妻だ。俺は少し戸惑った。すくなくとも寂しいからお話をしましょう、なんてかわいいものではなさそうだった。
俺は開けてしまったビールをいったん台所に置くと、ソファへと向かった。ローテーブルを挟んで妻の向かい側に腰掛ける。
「どうしたんだ?まじめな顔して」
俺は硬い表情を崩さない彼女をリラックスさせるつもりで、軽い笑みを浮かべてそう聞いた。
妻は答えない。無言のまま、一枚の写真を取りだした。
それを、俺に見えるようにテーブルの上に置く。
「なんだ、それ?」
全体的に暗い色調で、遠目ではなんの写真かよくわからない。
「そこに写っているの──あなたでしょう?」
「?」
妻がなにを言いたいのかよくわからないまま、俺は写真を取り上げて、目を近づける。
一瞬にして、冷や汗が吹き出るのがわかった。
すこし遠いが、写っているのは確かに俺だった。さらにもうひとり、妻ではない女性。
肩を組んだ二人が、ホテルから出てくる場面──典型的な、密会の証拠写真だった。
「なんで、こんな写真──」やっとのことで、それだけ言った。
「探偵に撮ってもらったの。それは二週間前。こっちは三週間前だったかしら?まだあるわ」
妻がさらに数枚の写真を投げ出すようにしてテーブルに置いた。どれもが決定的なシーンだったし、実際そういうことをしていた。
だが、浮気というほどのものではない、ちょっとした遊びのような感覚だった。妻が俺を疑うはずはない、そんな根拠のない安心感から手を出してしまった、いわば魔が差しただけの──。
そう口にしようとしたが、彼女の目を見たとたんそんな考えは引っ込んでしまった。彼女の目は今までにない色をしていた。明らかなさげすみだった。
言い訳は逆効果だ。俺はソファの脇に膝をつき、頭を下げた。
「すまない、この通りだ。だが俺が本当に愛しているのは、おまえだけ──」
「もう十分よ、あなた」
妻の声に遮られて、俺は頭を上げた。一瞬許してくれたのかと思ったが、その目の色はまったく変わっていなかった。
「離婚しましょう」
決定的な言葉だった。
「待ってくれ、それだけは!」
俺はまた頭を下げ、必死でそう言い募った。だが、妻の冷たい声が暖まる気配はない。
「絶対に浮気はしないって、結婚前に言っていたのに──結局、実家のお金が目当てだったのね」
「そんなことは──」
はっきりと否定することが出来なかった。
彼女の実家はそこそこ大きな工場を持っていて、資金力もある。実際、俺が起業したときの元手をいくらか融通してもらっていた。
今回も最悪の事態になったら、彼女の実家に泣きつく──そんな考えがまったくなかったと言えば嘘になってしまう。
だが、それだけじゃない。俺は彼女のことだってちゃんと愛している。そのはずだ。それに──。
「そうだ、美幸はどうするんだ。これからが大事なんだぞ。あの子を片親にする気なのか?」
今もなにも知らずに寝室で安らかな寝息をたてているであろう娘。あの子がこの先、父親がいないためによけいな苦労を背負い込むことは避けなければ。それは妻だって同じ考えのはずだった。
だが、彼女は俺の言葉を聞くと、これまで一度も見せたことのない表情になった。口の端を少しだけ上げ、こちらを見下ろすその表情は、俺のことを見下しているのだろうか……。
「美幸なら、心配いらないわ」
聞いてはいけないような気がする。だが、聞かずにはいられなかった。
「どういう──ことだ?」
「あの子の父親は、ちゃんと、別にいますから」
その言葉のもたらした衝撃を、正しく表す言葉はなかった。
「どういう……どういう、意味だ」
「そのままの意味よ」
視界がゆがんでいる。酒はまだひと口も飲んでないのに、ひどく酩酊したときのように、見えるものすべてがみどりがかっていた。
「俺の、子供じゃ、ないって、いうの、か?」
頭がふらつく。同じ姿勢を維持していられない。
ゆがんだ視界の先の彼女が、その顔をさらにゆがませた。なんだその顔は。魔女か?おまえは。
「目元がね──似ているの。あのひとに」
そこからの会話は、もう覚えていない。