転生したら人間だった犬(件)
――ころん、ただいま
いちばん古い記憶に、お母さんはいない。
いるのは、小さな女の子だ。
女の子は床に座って、僕の頭を撫でている。 少し強い。毛を引っ張られると痛い。
「やさしくね」
誰かが言う。
女の子の手が、ゆっくりになる。
「ころん」
呼ばれると、うれしい。
どうしてうれしいのか、そのころの僕にはわからなかった。
*
三歳のころ、雨の日のお昼寝で、楽しい夢を見た。
夢の中では、小さな女の子がタオルを広げていた。
「こっちおいで。ふいてあげる」
そばへ行くと、頭をふわっと包まれた。 女の子の手は少しぎこちなくて、タオルが何度も目にかかった。
「美緒、目が隠れちゃってるよ」
後ろから声がすると、女の子は「あっ」と言って、タオルを持ち上げた。
目が合った。 女の子が笑った。
僕もうれしくなって、その手に顔をすり寄せ、ぺろっと舐めた。 女の子は「くすぐったい」と笑った。
目を覚ますと、お母さんが洗濯物を畳んでいた。
「よく寝たね」
僕は起き上がって、お母さんの膝にくっついた。
「おんなのこがね、ふいてくれた」
「夢で?」
「うん。ふわふわだった」
お母さんが、畳んだばかりのタオルを頬に当ててくれた。
「これくらい?」
「もっと」
「もっとふわふわ?」
僕がうなずくと、お母さんは笑った。
その日から、ときどき似たような夢を見るようになった。
食卓の下にある、四本の足。 洗濯物から抜き取った、柔らかい靴下。 女の子が食べこぼす、小さなごはん粒。
そして、床から見る家族の顔。
僕はそれを、夢だと思っていた。
お母さんも、そう思っていた。
「奏太は、楽しい夢をたくさん見るんだね」
僕の名前は、奏太だった。
それなのに、ときどき夢の中では、別の名前で呼ばれた。
ころん。
呼ばれるたび、お尻のあたりがむずむずした。
*
六歳の誕生日に、僕は犬の図鑑をもらった。
動物が好きだったからだ。
ページをめくっていると、茶色い小さな犬がいた。
丸い目。 細い足。 くるくるした毛。
トイプードル。
その写真を見たとき、夢の中の景色が一つにつながった。
水の入ったお皿をのぞくと、同じ顔が映っていた。 女の子を追いかけると、床を蹴る前足が見えた。 走ったあとには、舌を出していた。
あれは、犬を見ていた夢じゃない。
犬の目で見ていた、記憶だった。
「僕、犬だったんだ」
声に出すと、妙にしっくりした。
図鑑を閉じて、自分の手を見た。
指が五本ある。 毛はない。 肉球もない。
僕は今も男の子で、ころんも男の子だった。
あの子が首輪に蝶ネクタイをつけて、何度も言っていた。
「ころんは男の子だから、王子さまなの」
僕は床に座った。
目を閉じると、女の子が見えた。
初めは、僕をうまく抱けないくらい小さかった。 やがてランドセルを背負うようになった。 制服を着るようになった。
女の子が帰ってくる時間が、毎日待ち遠しかった。
お母さんが玄関に置いてくれた座布団の上で、僕は待っていた。 外で足音がするたび、顔を上げた。 違う人だと、また顎を座布団にのせた。
でも、女の子の足音が聞こえると、じっとしていられなかった。 立ち上がって、尻尾を振った。
女の子は、大きくなっても帰ると真っ先に僕を探した。
「ころん、ただいま」
声まで、少しずつ変わっていた。
お父さんもいた。 お母さんもいた。
ころんのお父さんは、新聞を読んでいても、僕がそばへ行くと片手を伸ばして、頭を撫でてくれた。
読み終えた新聞紙を丸める音がすると、僕はすぐに立ち上がった。
「ころん、いくぞ」
ぽん、と投げてもらった新聞紙を追いかける。 捕まえて、前足で押さえて、びりびり破く。 その音が楽しくて、夢中になった。
「お父さん、あとで片づけてよ」
お母さんに言われると、お父さんは僕を見て笑った。
「だって、こんなに喜ぶんだぞ」
僕は口にくわえた新聞紙を振って、もう一度びりっと破いた。
ころんのお母さんは、料理の途中で落としたものを、僕より早く拾った。
「これはだめ」
いつも負けた。
でも、にんじんを切っているときだけは、小さな欠片をくれた。
知らない家族なのに、そんなことを覚えている。
その夜、今のお母さんに話した。
「僕、前は、ころんっていう犬だった」
お母さんは笑わなかった。
「夢の中の犬?」
「夢じゃないと思う」
少し考えてから、お母さんは言った。
「お母さんには、まだよくわからない。でも、奏太が覚えていることは聞きたいな」
僕は、にんじんの話をした。
大事なことから話したつもりだった。
*
ころんは、十六歳まで生きた。
そのことを思い出したのは、七歳の冬だった。
女の子は、もう子供ではなくなっていた。
「十九歳になったよ。ころんと、ずっと一緒だね」
僕の隣に座って、丸いケーキを食べていた。
僕には、別のお皿があった。 柔らかくしたごはんだった。
そのころには、階段を上がれなくなっていた。
以前は聞こえた玄関の鍵の音も、聞き逃すことがあった。 女の子が帰ってきてから、ようやく気づいた。
「寝てていいよ」
そう言われても、立とうとした。
女の子は僕を抱き上げて、自分の頬を頭にくっつけた。
最後の日は、三人ともいた。
お父さんが敷いてくれた毛布の上で、お母さんの手に背中を撫でられていた。
女の子が、鼻の先に指を出した。
小さいころからの遊びだった。
「ころん、タッチ」
いつもなら、鼻をくっつける。 すると女の子が笑う。
その日は、顔を上げられなかった。
指のほうが、そっと近づいてきた。
鼻に触れた。
「できた」
女の子が言った。
声が、濡れていた。
僕は、少しだけ目を開けた。
三人の顔があった。
眠る前に見た、最後の景色だった。
*
八歳の春、僕は家族で動物園に行った。
帰り道、お父さんの手を握っていたら、不意に別の手を思い出した。
リードを持つ、大きな手。
ころんのお父さんの手だった。
家に帰って、居間のソファの端に座った。 抱えたクッションに顔を埋めると、涙が出てきた。
悲しい記憶を思い出したからではなかった。
何でもない散歩を思い出しただけだ。 いつもの角を曲がって、いつもの木を嗅いで、帰り道にお父さんを見上げた。
また、あそこを歩きたかった。
三人に会いたかった。
でも、お母さんには言えなかった。
今のお母さんも、僕の大事なお母さんだ。 僕に別のお母さんがいると言ったら、悲しませる気がした。
夕飯のあと、泣いたことに気づかれた。
「何かあった?」
「ころんの家に、帰りたい」
言ってから、お母さんの顔を見た。
「でも、こっちにもいたいよ」
うまく言えなくて、袖をつかんだ。
「お母さんと、お父さんと」
お母さんは僕の隣に座った。
「会いたいの?」
うなずいた。
「今も、僕のこと覚えてるかな」
「十六年、一緒に暮らしたんでしょう?」
「うん」
「お母さんだったら、覚えていると思う」
僕は、お母さんの袖を握った。
「会いたいって言ったら、お母さん、さみしい?」
お母さんは、僕を抱き寄せた。
「会いたい人がいるんだね。一緒に探してみようか」
袖を握った手を、背中に回した。
犬だったころには、こうやって抱き返すことができなかった。
*
探し始めても、すぐには見つからなかった。
僕は、住所を知らなかった。
ころんだった僕は、家の住所なんて気にしたことがなかった。 散歩の帰り道なら、ちゃんと覚えていたのに。
角を曲がったあとの匂い。 玄関の前の、少し浮いたタイル。 門が開くときの音。
地図を見ても、そんなものは載っていなかった。
思い出を絵に描いた。 散歩道を何度も描き直した。
ころんのお母さんが話していた言葉も、書き留めた。
買い物。 駅。 娘の学校。
僕が聞いていなかった話ばかり、今は聞きたかった。
娘の名前は、美緒だった。
それは思い出せた。 お母さんが、毎日呼んでいたから。
名字は、なかなか出てこなかった。
九歳の夏、テレビから流れた駅の名前に、聞き覚えがあった。
ころんのお父さんが、散歩の途中で誰かに教えていた。
「駅なら、あっちですよ」
その駅だったかもしれない。
お父さんが周辺の写真を調べてくれた。
知らない建物ばかりだった。
でも、一枚の写真に、小さな神社があった。
鳥居の右側に、大きな木。 横の細い道に、石の段差。
そこを越えるとき、美緒はいつも僕を抱いた。
年を取ってからのことだった。
「ここ」
僕は画面を指さした。
「ここに、行きたい」
*
十歳の夏休み、僕は旅に出た。
リュックには、着替えと、二年間描きためた地図。 それから、ころんの絵。
お父さんと二人で、電車に乗った。
お父さんは仕事を休んでくれた。 お母さんは、帰ったら話を聞かせてねと言った。
泊まるところも決めてあった。
犬だったころ、僕の持ち物は家族が全部持ってくれた。
今日は自分で背負った。
駅に着くと、胸がどきどきした。
改札の外は、知らない場所だった。 犬だった僕は、ここまで来たことがなかった。
地図を見ながら、神社へ向かった。
鳥居が見えた。
右側の木は、写真よりずっと大きかった。
横の道に、段差があった。
僕は、そこで立ち止まった。
美緒の腕が、思い出の中で僕を抱き上げた。
「帰ろっか」
声がした気がした。
僕は段差を越えた。
ここからなら、帰れる。
細い道を抜けて、坂を下りた。 曲がり角で、少し迷った。 家と家の間にあった空き地が、なくなっていた。
それでも、見つけた。
門の横にある、青いタイル。
ころんの家の隣の家だ。
その隣には――何もなかった。
土だけだった。
低い柵に、売地と書かれた看板がついていた。
僕はリュックの肩ひもを握った。
玄関がない。 窓もない。
庭の、僕が穴を掘って怒られた場所も、どこだかわからない。
「奏太」
お父さんが呼んだ。
僕は首を振った。
間違えたのかもしれない。
でも、青いタイルは知っていた。 門の下の欠けたところも、覚えていた。
ここだった。
「おうち、なくなっちゃった」
声に出すと、膝の力が抜けた。
お父さんが隣にしゃがんだ。
「家がなくなっても、引っ越しているかもしれない」
「どこに?」
「それを、聞いてみよう」
お父さんは、青いタイルの家の呼び鈴を押した。
出てきたのは、白い髪のおばあさんだった。
お父さんが事情を話している間、僕はその人を見ていた。
散歩の途中、おやつをくれた人だった。
ころんのお母さんには、内緒だった。
「トイプードルを飼っていた、美緒さんという娘さんのいるご家族を探していまして」
「ああ、佐伯さん?」
佐伯。
聞いたことがあった。
電話に出るとき、お母さんが言っていた名前。
「今は、娘さんの近くに越したのよ。お孫さんもいるからね」
孫。
僕は、おばあさんを見上げた。
「美緒に、子供がいるの?」
「ええ。あなたより、ずっと小さい子」
僕の知らない時間が、そこにあった。
*
おばあさんは、ころんのお母さんに電話をかけてくれた。
僕のことは、昔飼っていた犬について話したい子がいる、と説明した。
電話の向こうで、お母さんが何と言ったのかはわからない。
おばあさんは何度かうなずいてから、こちらを向いた。
「会ってくださるって」
約束は、翌日の午後になった。
その夜、宿でなかなか眠れなかった。
「僕だって、わかるかな」
隣の布団のお父さんに聞いた。
「どうだろうな」
お父さんは、天井を見ていた。
「お父さんも、奏太から初めて聞いたときは、わからなかったから」
「今は?」
「ころんのことを話す奏太は、いつも同じ顔をしている」
「どんな顔?」
「楽しそうなんだけど、どこか寂しそうな顔だよ」
僕は布団を引き上げた。
会えたら、言いたいことがたくさんあった。
でも、何から話せばいいのかわからなかった。
*
翌日、教えてもらった家の呼び鈴を押した。
扉が開いた。
ころんのお母さんだった。
髪に白いところが増えていた。 昔と違う眼鏡をかけていた。
僕を見て、それからお父さんを見た。
「こんにちは」
その声を聞いて、胸がいっぱいになった。
にんじんを切っていた人だ。
落ちてくるのを、台所で待っていた。 この声に呼ばれたら、どんなに眠くても起きた。
「こんにちは」
僕は、ようやく答えた。
居間に、ころんのお父さんがいた。
隣には、美緒がいた。
十九歳の美緒しか、僕は知らなかった。
目の前の美緒は大人で、膝の上に小さな女の子を乗せていた。
三歳だと、あとで教えてもらった。
ころんがこの家に来たころの、美緒と同じくらいだった。
「ころんのことを知っているって、聞いたんだけど」
美緒が言った。
僕はうなずいた。
お父さんが、持ってきた絵を机に並べた。
昔の家。 散歩道。 食卓の下から見た、三人。
ころんのお母さんが、一枚を手に取った。
「このカーテン……」
「裾に、穴があったでしょう」
僕は言った。
「僕が噛んだ」
誰も、すぐには答えなかった。
ころんのお父さんが眼鏡を直した。
「それは、どこで聞いたのかな」
「覚えてるの」
自分の膝を握った。
「僕、ころんだった」
部屋の音が、なくなった気がした。
美緒が、ゆっくり女の子を床に下ろした。
僕の前に来て、しゃがんだ。
「……ころん?」
その呼び方だった。
散歩へ行く前。 おやつをくれる前。 夜、隣で眠る前。
僕はうなずいた。
美緒の目に、涙が浮かんだ。
「ごめんね。急には、信じられなくて」
「うん」
当たり前だと思った。
僕だって、六歳になるまでわからなかった。
美緒は机の絵を見た。
「これは、私の部屋?」
「うん。枕のところに、紙、隠してたでしょう」
美緒の指が止まった。
「僕が引っ張ったら、怒った」
「……テスト?」
「うん。お母さんに見つかっちゃって」
「美緒?」
ころんのお母さんが言った。
美緒が口元に手を当てた。
「それから、僕の届かないところに置いたよね」
「……それ、誰にも話してない」
僕は、美緒の膝にある小さな傷を見た。
「転んだとき、僕もそこにいた」
昔の傷だった。
「転んだのに、ずっとリード持ってたよね」
美緒は膝を押さえた。
「離したら、ころんが車のほうに行くと思ったから」
「僕、美緒のそばにいたよ」
「うん。私の顔、なめたよね」
「泣いてたから」
美緒の顔が、くしゃっとなった。
僕が知っている泣き顔だった。
僕は両手を伸ばした。
美緒が、僕を抱いた。
昔とは、抱き方が違った。 僕の体は、もう片腕には収まらなかった。
でも、肩に顔をつけると、懐かしかった。
「会いたかった」
言えた。
犬だったときには、何度鳴いても言えなかった言葉だった。
「私も」
美緒が言った。
「私も、会いたかったよ」
*
ころんのお父さんも、お母さんも泣いた。
僕は二人のところへ行った。
お父さんは僕の頭を撫でた。 お母さんは手を握って、何度も顔を見た。
「にんじん、好きだったね」
「うん。でも、お肉のほうが好きだった」
「知ってる」
お母さんが笑った。
棚には、ころんの写真があった。
小さな美緒に抱かれている写真。 家族で旅行に行った写真。 年を取って、毛布にくるまっている写真。
全部に僕がいた。
「最後、タッチできなくて、ごめんね」
美緒に言った。
美緒は首を振った。
「できたよ」
「美緒が、指を動かしたから」
「それでも、できた」
僕はうなずいた。
あの日も、そう言ってくれた。
美緒が、人差し指を出した。
「ころん、タッチ」
僕は顔を近づけた。
鼻の先を、そっとつけた。
美緒は、笑いながら泣いた。
その横で、小さな女の子が見ていた。
「ママ、どうして泣いてるの?」
美緒は涙を拭いた。
「大好きな子が、会いに来てくれたから」
女の子が、僕に指を差し出した。
「たっち」
僕は、今度は自分の指で触れた。
女の子は笑った。
同じ笑い方を、知っていた。
*
帰る前に、家族みんなで写真を撮った。
ころんのお父さんとお母さん。 美緒と、その娘。 僕と、今のお父さん。
撮ってくれる人がいなかったので、お父さんが携帯電話を棚に立てかけた。
昔は僕だけ、床にいた。
今日は、みんなと同じ椅子に座った。
写真の中で、美緒の娘が僕の手を握っていた。
「また来てね」
玄関で、美緒が言った。
「今度は、お母さんも一緒に」
僕はうなずいた。
靴を履いて、外に出た。
振り返ると、三人がいた。 小さな女の子も、美緒の隣にいた。
僕は、胸の奥にずっと残っていた言葉を言った。
「僕、幸せだったよ」
三人が僕を見た。
「みんなのおうちに来てから、ずっと」
顔を見ながら、一人ずつに伝えた。
「ありがとう」
ころんのお母さんが口元を押さえた。
お父さんが、その肩に手を置いた。
美緒がうなずいた。
「私たちもだよ」
*
ころんが眠った日から、四十九日目。
家族が写真の前に花を置いたころ、遠くの町で、別の母親のお腹に新しい命が宿った。
その子は、生まれたときには何も覚えていなかった。
三歳で、知らない女の子の夢を見た。 六歳で、ころんだった自分に気づいた。 八歳で、会いたいという気持ちに名前をつけた。
そして十歳で、家族に会いに行った。
*
旅から帰ると、お母さんが玄関で待っていた。
「おかえり」
僕はリュックを下ろした。
「ただいま」
「会えた?」
「うん」
お母さんに抱きついた。
話したいことが、たくさんあった。 写真も見せたかった。
でも、その前に伝えておきたいことがあった。
「僕、人間になってよかった」
「どうして?」
お母さんを抱く腕に、少し力を入れた。
「大好きって、言えるから」
お母さんの手が、僕の頭を撫でた。
僕は顔を上げた。
「お母さん、大好き」
犬だったころにも、何度も伝えたつもりだった。
尻尾を振って。 隣に座って。 帰ってくる足音を待って。
今は、言葉でも伝えられる。
お母さんが笑った。
「お母さんも、奏太が大好きだよ」
うれしくて、お尻のあたりがむずむずした。
そこに尻尾はなかった。
でも、お母さんには、ちゃんと伝わった。




