あらあら、それがあなたの本性でしたの? 〜お酒で婚約者の口を滑らせた結果〜
書斎に響いたアルシード・ヴァルディエの言葉に、ネルセ・ローゼンベルクは手にしていたティーカップを静かに戻す。
薄々、こう言われる日が来るだろうとは思っていた。だから驚きはしなかった。むしろ、ようやく口にしたのね――という思いの方が強かった。
ただ彼が、いつかは分からないものの、過去に他の女性と関係を持っていたことに気づいたのは、つい最近のことだった。
アルシードは、いつも何か隠し事をしていた。初めて会ったときから、ネルセは彼に対して説明のつかない違和感を抱いていた。
何といえばいいのだろうか。腹の内がまったく読めないのだ。
その上、彼は自身のことをほとんど話したがらなかった。
幼い頃の思い出や、心に残っている出来事。将来どのような家庭を築きたいのか、何をしているときが楽しいのか。婚約者であれば自然と交わすような話題を向けても、彼はいつも巧みに話を逸らした。
まるで、何かを隠しているかのように。
それでもネルセは、深く追及しなかった。
誰にでも話したくないことの一つや二つはある。公爵家の嫡男という立場なら、なおさら慎重になるのだろうと自分を納得させていた。
それに、アルシードは婚約者としては非の打ちどころがなかった。
記念日には必ず花束を贈り、舞踏会では最初の一曲を申し込み、ネルセの好みも苦手なものもきちんと覚えている。
その完璧さに、ネルセは何度も違和感を覚えながらも、同時に安心させられていたのも事実だった。
だからこそ、彼の浮気を知ったとき、胸を貫いたのは裏切られた痛みよりも、長年抱いてきた疑問にようやく答えが出たという感覚だった。
あの人は最初から、私に心を開いてはいなかったのだ。
ネルセは静かに息を吐き、向かいに座るアルシードを見つめた。
婚約破棄を告げた今も、彼の表情は平穏なままだった。申し訳なさを装ったその顔からは、やはり本心がまったく読み取れない。
悲しんでいるのか。
後ろめたさを感じているのか。
それとも、ようやく邪魔者を排除できたと安堵しているのか。
ネルセには何ひとつ分からなかった。
けれど、分からないままで終わらせるつもりもなかった。
「分かりましたわ。婚約破棄を受け入れます」
アルシードの眉が、わずかに動いた。
ここまであっさり承諾されるとは思っていなかったのだろう。
「……そう言っていただけて助かる」
「ただ、一つだけお願いしてもよろしいかしら」
「お願い?」
「最後に、皆さんと一緒にお酒を飲みませんか?」
ネルセは静かに立ち上がり、窓辺に目を向けた。
「貴方といつかゆっくりお酒を飲みたいと思っていましたの。でも、その機会は結局ありませんでしたでしょう?婚約者として過ごす最後の日ですもの。せめて、家族や親しい方々と一緒に杯を交わして、きちんと区切りをつけたいのです」
アルシードは少し考えるように黙り込んだ。
断る理由はないはずだ。
ネルセは取り乱すこともなく、潔く婚約破棄を受け入れた。最後に別れの席を設けたいと言うのは、ごく自然な申し出に聞こえる。
「……それくらいなら構わない」
「ありがとうございます」
ネルセは深々と頭を下げる。
その胸の内には、すでに一つの考えがあった。
アルシードを酔わせて、本心を語らせること。
理性が緩めば、普段は口にしない本音がこぼれることもある。
もちろん、そこまで都合よくいく保証はない。アルシードは慎重な男だ。多少酔った程度で簡単に隙を見せるとは思えなかった。それでも、ネルセは試してみたかった。
婚約者として過ごす最後の夜なのだ。
せめて最後に、彼の本当の気持ちを知りたかった。自分との婚約をどう思っていたのか。この数年間に少しでも情があったのか。それとも、最初から最後まで、すべてが仕組まれていたものだったのか。
その答えを知らないまま終わるのは、どうしても嫌だった。
せめて最後の最後に、何か一言でも口を滑らせてくれないだろうか。
そんな事を考えていた。
◇
数日後、アルシードとネルセは、話し合い、正式な婚約破棄は数か月後に行うことに決めた。
貴族同士の婚約解消には、家同士の調整や社交界への根回しが必要になる。婚約を解消すると決めたからといって、すぐに白紙に戻せるものではない。
それまでは、これまで通り婚約者として振る舞う必要がある。
とはいえ、それはあくまで周囲の目を欺くための建前にすぎなかった。
まもなく婚約を解消する二人が、以前と同じように親しく会い続けるのは不自然だ。二人きりで会う機会は、今後ほとんどなくなるだろう。
そう考えると、今夜の食事会は、婚約者としてアルシードと酒を酌み交わす最初で最後の機会になるかもしれなかった。
ローゼンベルク家の食堂には、ネルセの父と母、それに兄が顔をそろえていた。
婚約破棄の件はまだ誰にも話していない。
だから食卓の雰囲気は、いつもの家族の夕食と何ら変わらなかった。
ネルセはそんな彼を横目で見ながら、静かにワインボトルを手に取った。
「アルシード様、おかわりはいかが?」
「いただこう」
差し出されたグラスに赤い液体が満ちていく。
ネルセが注いだのは、普段食卓に並ぶものよりも少しだけ度数の高いワインだった。香りや色に大きな違いはなく、よほど舌の肥えた者でなければ気づかない程度の差である。
もちろん、毒などではない。
ただ、いつもより少しだけ酔いが回りやすい――それだけだ。
ネルセは何食わぬ顔でボトルを置き、自分のグラスにも少量だけ注いだ。
アルシードはそんなことに気づく様子もなく、いつもの穏やかな笑みを浮かべたままグラスを口元へ運ぶ。
「良い香りだ」
「そう言ってもらえて何よりです」
ネルセはにこやかに答え、自分のグラスにそっと口をつけた。
やがて、アルシードの様子に少しずつ変化が現れた。
頬はほんのりと赤く染まり、視線はどこかぼんやりとしている。返事の間もいつもより長くなり、椅子の背にもたれかかる姿には、隠しきれない疲労がにじんでいた。
食後の茶が運ばれてくる頃には、目元はとろんと緩み、明らかに酔いが回っていることが見て取れた。普段の隙のないアルシードからは想像もつかないほど、ぐったりとした様子である。
ネルセは静かに席を立ち、家族へ微笑んだ。
「アルシード様はお疲れのようですので、部屋までお運びいたしますね」
「ええ、お願いするわ」
ネルセはアルシードの傍らに歩み寄る。
「立てますか?」
「……ああ、少し飲みすぎたようだ」
苦笑しながら立ち上がった彼の足取りは、わずかにふらついていた。
ネルセはそっと彼の腕を支える。
本当は、この場で本心を聞き出すつもりだった。家族の前で口を滑らせれば、もはや言い逃れはできない。そう考えて、この席を提案したのだ。
けれど、こうして酔って力なく身を預けるアルシードを見ていると、なぜだか急に気の毒になってきた。
今この場で追い詰めるより、二人きりで話した方がいい。
そう思い直し、ネルセはアルシードを支えながら静かに食堂を後にした。
◇
ネルセはアルシードを客間まで連れていき、ゆっくりと寝台に腰掛けさせた。酔いのせいで足元がおぼつかない彼は、普段の隙のない姿からは想像もつかないほど無防備だった。上着を脱がせ、靴を外し、枕元に水差しを置いてから、ネルセは寝台の傍らの椅子に腰を下ろす。
アルシードはしばらくぼんやりと天井を見つめていた。いつもなら決して乱れを見せない彼の姿に、ネルセは胸の奥が不思議な気持ちで満たされるのを感じた。
これまで何度も見たいと思ってきた、本当の彼。
だが、いざその機会が訪れると、彼を責め立てる気持ちはどこかへ薄れてしまっていた。
やがて、アルシードはゆっくりと目を閉じ、掠れた声で言った。
「……君に、謝らなければならない」
アルシードはひとつ息を吐き、言葉を探すように視線を彷徨わせたあと、ぽつりぽつりと語り始めた。
他の女性と関係を持ったのは、ネルセとの婚約が正式に決まる少し前のことだったという。
婚約の話が進む中で、彼は急に強い孤独を覚えたのだと語った。これからの人生が決められていくことへの戸惑いと、自分でもうまく言葉にできない寂しさ。その感情から逃げるように、彼は一時の過ちを犯した。
もちろん、それで許されるとは思っていない。
アルシード自身、そのことを誰よりも分かっていた。
関係は長く続かなかった。婚約が正式に決まってからは、その女性とは一度も会っていないという。それでも、自分がネルセを裏切った事実は消えない。
彼はそのことをずっと胸の奥に抱えたまま、何事もなかったように接していたという。
完璧な婚約者として振る舞いながら、内心では常に後ろめたさを感じていたのだろう。
だからこそ、ネルセに知られたと悟ったとき、アルシードは婚約を続ける資格はないと考えた。
申し訳ない。
顔向けできない。
そして、自分のような男とは別れた方がいい。
彼の語る言葉には言い訳らしい言い訳はなかった。ただ、自分の弱さと愚かさを認める告白だった。
アルシードの告白を聞き終えたあとも、しばらくのあいだ部屋には沈黙が流れていた。
ネルセはすぐには言葉を返さなかった。
胸の内には、さまざまな感情が入り混じっていた。裏切られたという事実に対する失望。長年抱き続けてきた違和感の正体を知った安堵。そして、ようやく本心を打ち明けたアルシードに対する、複雑な哀れみ。
もっと冷酷な言葉を想像していた。
自分との婚約など最初から政略にすぎなかったとか、愛情など一度も抱いたことはないとか、そんな残酷な本音を聞かされるものだと思っていた。
けれど、実際に彼の口から語られたのは、弱さゆえの過ちと、その後悔だった。
もちろん、だからといって裏切りが消えるわけではない。
ネルセの信頼が傷ついたことに変わりはなかった。
彼女は静かに息を吐き、アルシードを見つめた。
「そうですね。婚約前のことだったとしても、そのような関係があったという事実を、なかったことにはできません」
ネルセは少しだけ視線を逸らす。
「ただ……少なくとも、あなたが私を最初から利用するつもりだったわけではないと分かって、少し安心しました」
ネルセは苦笑するように目を細める。
「私はずっと、あなたの本心が見えませんでした。だから、この婚約そのものが何か別の目的のためだったのではないかと疑ったこともあったのです」
それは、長年胸の奥に抱えてきた不安だった。
優しさも気遣いも、すべて嘘でしかなかったのではないか。
自分はただ、都合のよい婚約者として選ばれただけなのではないか。
そんな疑念を抱いたことは、一度や二度ではない。
「でも、そうではなかったのですね。貴方は、意思が弱かった。それだけです」
ネルセは静かに立ち上がり、寝台の傍らに立つ。
「許すことはできません、けれど、あなたの本心を聞けてよかったと思っています」
長いあいだ知りたかった答えを、ようやく手にすることができた。
それだけで、胸の奥にあったわだかまりが、ほどけていくようだった。
「ご両親には、後日こちらから事情をお伝えしておきます。今日はこのままお泊まりになってください。今の状態で馬車に乗られても危険ですもの」
アルシードは何か言おうとしたものの、うまく言葉にならないようだった。やがて、かすれた声で短く答える。
「……すまない」
ネルセは小さく首を横に振った。
「では、おやすみなさい」
それだけを告げると、彼女は静かに踵を返す。扉の前で立ち止まることもなく、そのまま部屋を出た。
◇
ローゼンベルク侯爵家とヴァルディエ公爵家の連名で、ネルセ・ローゼンベルクとアルシード・ヴァルディエの婚約解消が正式に発表された。
発表の理由は「両者の話し合いの結果、将来に対する考え方の違いが明らかになったため」とだけ説明され、詳しい事情が外部に明かされることはなかった。
社交界では様々な憶測が飛び交ったものの、両家の関係が悪化した様子はなく、表立った騒動に発展することもなかったため、噂はほどなくして落ち着いていった。
ネルセとアルシードもまた、婚約者という関係には終止符を打ったものの、完全に縁を切ったわけではなかった。
最初のうちは、互いに距離の取り方を探るようなぎこちなさがあった。
けれど、婚約という立場を離れたことで、かえって以前より自然に話せるようになったのも事実だった。
アルシードは少しずつ、自分のことを話すようになった。
幼い頃のこと、公爵家の跡取りとして感じていた重圧、将来への不安、そして、自分の弱さから目を背けてしまったことへの後悔。
ネルセもまた、これまで抱いていた違和感や不安を率直に伝えた。
婚約者だった頃には言えなかったことを、今になってようやく言葉にできるようになったのだ。
もちろん、失われた信頼がすぐに元に戻るわけではない。
過去にあった出来事が消えることもない。
それでも二人は、それぞれの過ちや未熟さを認めた上で、新たな関係を築いていくことを選んだ。
婚約者ではなく、友人として。最初からやり直すように、少しずつ。
◇
ある日の午後、ローゼンベルク家の庭園で、ネルセはアルシードと向かい合っていた。
テーブルの上には、紅茶と焼き菓子。
かつて婚約者同士として幾度となく過ごした時間と似ているようでいて、その空気は以前よりもずっと穏やかだった。
「こうして改めて話してみると、あなたって意外と普通の方でしたのね」
ネルセがそう言うと、アルシードは苦笑した。
「ええ。本当に、驚くほどですよ。もう少し早く知る事が出来ればよかったですね」
ネルセは紅茶を口にしながら、くすりと笑う。
アルシードも肩の力を抜いたように笑みを浮かべた。
少し不器用で、少し気まずそうで、それでも確かに本心からの笑顔だった。
その姿を見て、ネルセは穏やかに目を細める。
「あらあら、それがあなたの本性でしたの?」
そう言うと、アルシードは気まずそうに目を逸らしたあと、照れくさそうに笑った。
「……できれば、もっと格好いい人でありたかったよ」
その言葉に、ネルセは声を上げて笑う。
婚約は終わってしまったが、それですべてが終わったわけではない。
遠回りをした末に、二人はようやく本当の意味で向き合えるようになったのだから。
それもまた、一つの幸せの形なのかもしれなかった。
ネルセさん聖人すぎましたね(泣)




