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吸って、吐いて

「心の風通し?」


「うん。心にね、風を通すの」


 少女はそう言って、立ち上がった。


 両足を砂にしっかり踏みしめる。

 素足が、さらりと粒を沈ませる。


「こうやって」


 手を大きく広げる。

 空に向かってではなく、海に向かって。

 まるで抱きしめるみたいに。


 夕陽に照らされて、白いワンピースの布が透ける。

 風がそれをふわりと持ち上げる。


 少女は、ゆっくりと息を吐いた。


 長く、静かに。

 肩が少し下がる。


 次に、胸いっぱいに海風を吸い込む。


 その瞬間、胸郭が広がるイメージが湧く。

 肋骨の動きが、遠目にも分かるほどの挙動を見せる。


 呼吸に合わせて、胸が上下する。

 吸って、止めて、吐く。

 吸って、止めて、吐く。


 ただそれだけの動作。

 なのに。

 目が離せなかった。


 酸素を取り込んでいるのか。

 それとも、世界の何かを吸収するための儀式なのか。


 潮の匂い。

 風の冷たさ。

 波の音。


 全部が、彼女の体の中に入っていくように見える。


 当たり前の呼吸。

 誰でもやっていること。


 なのに。

 妙に神秘的だった。


 風が、彼女の髪を大きく揺らす。

 逆光で、また輪郭が光る。


 空は澄んだ青に金色が滲み始めている。

 胸の奥が、じわりと熱くなる。


「なんか……美しいなぁ」


 思わず口から出た。

 考えるより先に。


 少女が、ゆっくりとこちらを振り向く。


「ん?そう?」


 少しだけ目を細める。


 照れているのか、探っているのか。

 でも。


「ふーん、ありがと」


 まんざらでもない顔だった。

 唇の端が、ほんの少し上がる。


「それで……風、ちゃんと通った?」


 問いかけは軽い。

 でも、どこか大事な確認みたいだ。


 僕は、自分の胸に手を当てる。

 さっきより、呼吸が深い。

 空気がちゃんと入ってくる。


「……少し通ったかな」


「少しかぁ」


 少女は口角を上げ、ふふっと笑う。


「最初はそれでいいよ」


 彼女はもう一度、海に向かって息を吸う。

 その姿が、風と一体になっているみたいに見えた。


 自分でやってみて再認識する。


 これは特別な能力じゃないのかもしれない。

 誰にでもできる。

 でも、忘れているだけ。


 少女は腕を下ろす。


「心ってさ」


「うん」


「閉めっぱなしだと、湿気るんだよね」


 妙に現実的な表現に、思わず笑いそうになる。


「カビちゃうの?心が?」


「カビ……?うん。まぁね、音のカビって言っても良いのかも」


「そうなんだー。それは厄介だな」


「んふふっ、でしょ?」


 少女は楽しそうだ。

 風がまた吹く。

 今度は、僕のネクタイを大きく揺らす。


「アンタもさ、やってみなよ」


「僕も?」


「うん」


 少しだけ躊躇う。

 スーツ姿で、砂浜で、両手を広げる。

 正直、滑稽だ。


 でも。

 さっき“どうなってもいい”を撤回したばかりだ。

 どうなるか、見届けたいと言った。


 なら。

 やるしかない。


 僕はゆっくり立ち上がる。

 砂がぱらぱらと落ちる。


 両手を、ぎこちなく広げる。

 海に向かって。

 息を吐く。

 長く、ゆっくり。


 肺の奥の重たい空気を、全部外に出すイメージで。

 それから、吸う。


 潮の匂い。


 冷たい風。


 胸が広がる。


 肺が満ちる。


 一瞬、目を閉じる。


 ざあ……

 ざあ……


 波の音が、体の中にまで入ってくる気がした。


 目を開ける。

 少女がじっと見ている。


「どう?」


「んー……分からん」


「分からん……か。いいよ、それで」


 心なしか。

 さっきより、少しだけ。

 本当に少しだけ。

 胸の奥が軽い。


「でも」


「でも?」


「悪くない」


 少女はにこっと笑った。

 今度は、はっきり嬉しそうに。


「でしょ?ほーらね、言った通りだ」


 その笑顔もまた。

 当たり前のようで、神秘的だった。

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