丸い光
少女は砂浜に座り直すと、膝を抱えて海を見た。
「ねぇ」
「ん?」
「今日の風の音さ、ちゃんと聞いてる?」
聞いてる?
どうなんだろう。
聞いてるというより、風を浴びている?
でもそれは意味が違う気がした。
「普通の風だよね?」
「うーん……半分正解、ってとこかな」
半分か。
少女は目を細める。
「今日の風はね、重さがないの」
「重さ?風の?」
「うん。人の声が全然混ざってないの」
そう言われて、ちょっと耳を澄ませてみる。
ざあ……
ざあ……
波の音だ。
後は……遠くで鳴くカモメ。
感じとれるのは、それだけだ。
「混ざる日もあるのかな?」
「あるよ。街の焦りとか、怒鳴り声とか、ため息とか。そういうのが風に乗る日がある」
「そんなの気のせいだよね」
半分、本気で。
半分、反射で。
少女は僕を横目で見る。
「今はそう思ってていいよ」
さらりと流された。
「でもね、空も違う」
空を指差す。
青が、少しずつ色を変えている。
淡い金色が、端から滲み始めている。
「あの光、見える?」
「太陽……の事?」
「そうじゃなくて、光の粒」
目を凝らす。
海面に反射する細かい光。
「揺れてるよね?」
「揺れてるね」
「今日は揺れ方が穏やか」
「揺れ方に種類があるんだ?」
「あるよ」
即答だった。
「怒ってる日の光は、尖ってる。目に刺さる感じ」
彼女の声は真面目だった。
冗談ではない。
「今日は?」
「丸い」
丸い光。
そんな表現は、今まで使ったことがない。
でも。
しばらく見ていると、確かに今日の光は柔らかく見えた。
刺さらない。
包むような反射。
少女は砂を指でつまむ。
「それに空気も軽い」
「それは分からないなぁ」
「ね?胸の奥、重くないでしょ?」
言われて、少し考える。
さっきまで鉛みたいだった圧迫感が、今は確かに薄い。
「……まぁなぁ」
「それが空気」
理屈は分からない。
でも。
彼女の言葉は、どこか腑に落ちる。
「外出の日はね」
少女は続ける。
「風が優しくて、音が尖ってなくて、光が丸くて、空が広い日」
「全部抽象的だね」
「そう?」
彼女は不思議そうに首を傾げる。
「じゃあさ、あんたはさ、今日の空、どう見える?」
急に問われる。
半分聞いていただけの僕は、少し戸惑う。
「……広いな」
「うん」
「でも、近い」
「近い?」
「さっきより」
言いながら、自分でも驚く。
さっきまで空は遠かった。
現実の向こう側。
今は、ただそこにある。
少女は小さく笑った。
「聞こえてきたね」
「何が」
「世界の下の音」
下の音。
波の音が一定に繰り返す。
海風がスーツを揺らすのを感じる。
自分の呼吸が、少し落ち着いているのが分かる。
「最初はね」
少女は言う。
「みんな半分しか聞かない」
「半分?」
「うるさい方ばっかり聞く」
怒鳴り声。
通知音。
数字。
評価。
確かに。
僕はそればかり聞いていた。
「でも、静かな方もある」
少女は耳元に手を当て、音を聞く仕草をする。
「ほら」
僕も真似してみる。
ざあ……
ざあ……
その下に、もっと細かい音。
砂が擦れる音。
遠くの波が砕ける微かな響き。
風が服の繊維を震わせる音。
こんなに音があったのか。
少女は満足そうに頷く。
「外出ってね」
「うん」
「世界の静かな方を聞きに来ること」
その言葉は、波より静かに落ちた。
僕は、まだ半分しか理解していない。
でも。
もう半分は、確実に興味が湧いている。
「ねぇ」
「なに?」
「それ、毎回違うの?」
少女の目が、少しだけ輝く。
「違うよ」
即答だった。
「だから外出するの」
風がまた吹く。
光が揺れる。
空が、少しずつ色を深めていく。
僕はもう、半分以上聞いていた。
そして気づく。
この少女の話は、現実逃避なんかじゃない。
別の現実の見方なのかもしれない。
「……面白いな」
「ん?」
「その外出」
少女は、少しだけ驚いた顔をする。
それから、にやりと笑った。
「でしょ?」
その笑顔は、風より軽く、光より柔らかかった。




