びしょびしょ
「ありがとう、おかげで少し目が覚めた気がする」
寝ている所に海水を顔にかけられて、それに感謝する人間ってのも……。
なんか自分の事ながら笑えて来る。
自然に口角が上がり、頬が綻んで来る。
塩水で濡れた前髪が、額に張りつきそのまま目を隠す。
シャツは重く色も褐色に変わり、スーツは砂だらけ。
営業マンとしてはなかなか個性的な出立ちの姿だ。
着ている物は重くなったのに。
肩が背中が妙に、軽い。
さっきまで背負って居た石の塊が、海水に溶けてなくなってしまったみたいに感じる。
少女はくるくるした大きな瞳で、不思議そうに覗き込んでくる。
初対面にしてはえらく距離が近い。
濡れた僕の顔を、物珍しい物でも見る感じで、まじまじと観察している。
「ん? なんか楽しそうだね」
楽しそう、か。
そんな顔をしている自覚はなかった。
でも確かに、今の僕はさっきよりずっと呼吸が楽だ。
「うん、楽しいよ」
額の髪を寄せながら言い直す。
「いや、楽しくなりそうだよ」
本音だった。
仕事を投げ出し、スマホを海に沈め、知らない少女に海水を浴びせられている。
普通なら最悪の状況だ。
でも、今は。
この状況が、妙に面白い。
「ならいいけどね」
少女は少し肩をすくめる。
だがその表情は、どこか拍子抜けしているようにも見えた。
思った反応じゃなかったのだろう。
怒鳴られるとか、言い合いになるとか。
そういう展開を期待していたのかもしれない。
少女は少し横目になってじっと僕を見る。
まるで、予定していた物語の筋書きと違う結末に戸惑っているみたいに。
「ねぇ、怒らないの?」
「ん?怒る理由がない」
「顔に海水かけたよ?」
「いやーそうだねー、かけられたねー」
「全部、びしょびしょだよ?」
「そうだなびしょびしょだー」
僕は袖を軽く絞る。
塩水がぽたぽたと砂に落ちる。
少女は少しだけ頬を膨らませた。
「……つまんない」
「何がつまんないの?」
「もっと慌てると思ったのに」
ああ、なるほど。
僕は思わず笑う。
「僕にはね、慌てる様な元気がね、もうあんまり残ってないんだよ」
その言葉は、冗談半分、本音半分だった。
少女の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「へー。それ、壊れてるね」
「ほう、さっきもそれ言ってたな」
「うん。音が小さい」
彼女は、僕の胸のあたりを指差しながら。
「ここ、さっきより少し鳴ってる」
「少し鳴ってる?」
「うん。さっきはぺしゃんこだったけど、今はちょっと空気入った感じ」
自分では分からない。
でも。
確かに、胸の奥に微かな振動がある。
波の音とは違う。
自分の呼吸の音。
生きている、という実感。
少女はしゃがみ込むと、砂に人差し指で円を描く。
「ねぇーえぇー」
「ん?なにかな?」
「なんでそんなに、楽しくなりそうなの?」
単純な問い。
でも、答えるのは少し難しい。
「……たぶん」
海の向こうに目をやる。
もう、太陽が少し傾いている。
そしてその光が水面に反射して、細かい金色の破片みたいに、たくさん散らばっている。
「もう、どうなってもいいって思ってたのに」
「うん」
「今は、もっと、どうでもよくなくなってきた」
少女が顔を上げる。
「どういうこと?」
「濡れたし、砂だらけだし、怒られるのも確定だし」
「うん」
「でも、ちょっとだけ、次どうなるか見てみたくなってきてる……かな」
冗談みたいだけど、それは本当だった。
さっきまでは、全部どうでもよかった。
引き返せない、と投げやりに思っていた。
でも今は。
引き返せないなら、じゃあどこに行くんだろう、と少しだけ興味がある。
少女は、じっと僕の顔を覗き込む。
「……変なの」
「よく言われる」
「言われてないでしょ」
「言われないな」
少女は小さく笑う。
風が少し強く吹く。
濡れたシャツが体に張り付き、ひやりと冷える。
でもその冷たさは、嫌な感じではない。
生きている体の温度を、ちゃんと感じる。
少女は立ち上がる。
「楽しくなりそうなら、まぁいいや」
少しだけ不服そうな顔。
でも、どこか安心したようにも見える。
「泣かれるより、笑われる方がいい」
「泣きそうに見えた?」
「ちょっとだけ」
図星だ。
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
でも今は、それも悪くない。
「ねぇ」
少女がまた、くるくるした瞳で覗き込む。
「まだ、どうなってもいいって思ってる?」
問いは、静かだった。
さっきより、ずっと真剣だ。
僕は少しだけ考える。
波の音が、間を埋める。
ざあ……ざあ……
「……いや」
ゆっくり首を振る。
「どうなってもいい、は撤回する」
少女の瞳が、わずかに揺れる。
「へぇ」
「せっかく楽しくなりそうなんだ」
濡れた前髪をかき上げる。
「どうなるか、ちゃんと見届けたい」
少女はしばらく黙っていた。
それから、ふっと息を吐く。
「ならいい」
短い言葉。
でも、その声はさっきよりずっと柔らかい。
風が二人の間を通り抜ける。
海の匂い。
塩の味。
夕陽が、ゆっくりと色を変えていく。
思った結末とは違う。
でも。
それも悪くない。
少女は、少しだけ不服そうな顔のまま、でもどこか満足そうに笑った。




