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引き返せない場所

 何が始まるって言うんだ?


 まぁどうでもいい。

 どうなってもいいだろう、ここまで来れば。


 今更引き返す道なんてない。

 再び背中を砂浜に押し付ける。


 「カバンは枕にするには固すぎるな」


 そんな間違った道具の使い方なんて、もうおかまいなし。

 

 僕はもう一度目を閉じる。


 瞼の裏から感じる、少し日光を遮る物体。

 薄く目を開けて、その物体の様子の確認を試みる。


 目の前には、バケツを構えた少女が立っている。

 そのバケツの中で揺れているのは、さっきまで僕が眺めていた海の一部、海の一欠片。


 水面は光を反射して、きらりと揺れる。

 潮の匂いが濃くなる。

 風が一瞬、止まった気がした。


 砂浜の広さが、急に静まり返る。

 遠くで鳴いていたカモメの声も、なぜか遠い。

 少女の足元で、砂がさらりと崩れる。

 その音だけがやけに鮮明だった。


「じゃあ、後で文句言わないでね?言ったからね」


 彼女は笑っている。

 悪戯を思いついた子供の顔だ。


 僕は寝転がった姿勢のまま、妙に冷静なままだった。


 どうせ怒られる。

 どうせ失う。

 スマホはもう砂の中だ。

 会社からの連絡も、数字も、評価も。


 ここまで来たら、何が起きても誤差といだうくらいのもの。


「好きにすれば」


 自分でも驚くくらい、投げやりな声だった。


 少女の眉が、ぴくりと動く。


「……ほんとに?」


「もう……、どうなってもいい」


 嘘じゃなかった。


 襟足から入った砂が背中に食い込む感触。

 粒の角が皮膚にちくりと刺さる。

 その不快ささえ、今はどうでもいい。


 風が顔の上を流れて前髪を揺らす。


 少女はバケツを持ち上げた。

 水面が傾く。

 陽光が、揺れる波紋を映し出す。


 ほんの一瞬。

 彼女の瞳が、真顔になる。


「……ほんとに、どうでもいいの?」


 問いかけは、思っていたより低かった。

 からかいではない。

 確かめるような声。


 胸の奥が、かすかにざわつく。


 どうでもいい?

 本当に?

 引き返せない?


 会社も、評価も、人生も。

 それとも――


 ここに寝転がっている、この瞬間だけか?

 答えが出ない。


 だから僕は、目を閉じた。


「いいよ」


 自分の声が、周りの波の音に溶けて消える。


 次の瞬間。


 “バシャー!”


 冷たい上に、鼻頭に加わるちょっとした衝撃。

 バケツの中の海水が顔に、胸に、ズボンにも容赦なく降り注ぐ。


「うっ……!」


 塩辛い。

 目にしみる。

 シャツが一瞬で重くなる。


 風がすぐにそれを冷やす。

 冷たさが、皮膚から中へ染み込んでくる。


「どうだ!まいったか!」


 少女の声が弾む。


 目を開けると、彼女は満足そうに胸を張っていた。

 白いワンピースの裾が、風に揺れている。

 逆光の中で、輪郭が輝いている。


「うーむ……やるな」


 怒る気力が、なぜか湧かない。


 むしろ。

 何かが頭の中ではっきりとした。


 冷たい。

 確かに冷たい。


 でも。


 さっきまで胸の奥に張り付いていた重たい何かが、少しだけ薄まった気がする。


 少女は大きな瞳でじっと僕を見る。


「なんで怒らないの?」


「怒る理由ある?」


「普通、怒るでしょ?こんな事されたらさ」


「普通じゃないんだろ、今日の僕って」


 自嘲気味に笑う。


 少女は少しだけ目を細めた。


「もしかして……、壊れてる?」


「たぶん」


「どのへんが?」


「だいたい、全部かな」


 風が強くなる。

 濡れたシャツが体に貼りつく。

 塩の匂いが濃い。


 少女は波打ち際の方へ歩く。

 足跡が、砂にくっきりと残る。


「あのさぁ」


 そのまま振り向かずに言う。


「今さ、少しは冷えた?」


「冷えたな……」


 少女はすーっと軽く僕のおでこに手を乗せてくると。


「頭冷えた……?」


 その言葉に、少しだけ笑ってしまう。


「……かもなぁ」


 確かに。

 熱を持っていた思考が、少しだけ落ち着いている。


 ざあ……ざあ……


 波が繰り返す。

 引いて、寄せて。


 僕はゆっくりと起き上がる。

 濡れたズボンが重い。

 水分に引き寄せられて、砂が貼りついている。


 みっともない姿だ。

 でも、どうでもいい。


 少女が振り返る。


「なんかさっきね、引き返せないって顔してた」


 図星だった。


「戻る気あるのかな?」


「僕が?どこに?」


「元居た場所にね」


 会社。

 席。

 怒鳴り声。

 震えるスマホ。

 海の底だ。


 もう、戻れない。


「……あるかもしれないし、ないかもしれない」


 曖昧な答え。


 少女は、じっとこちらを見る。


「じゃあさ」


 彼女は小さく息を吐く。


「ここで決めたらいいよ」


「何を」


「このまま引き返すか、もっと進むか」


 言葉に合わせた演出の様に、風が強く吹いた。


 ふわっとワンピースが揺れる。

 合わせた様に砂が舞う。


 夕陽が、少しだけ色を変え始めている。

 青が、淡く薄まり。

 その奥に、かすかな金色が混じる。


「風の色が変わる前に」


 少女が言う。


「決めないと、また流されるよ」


 流される。


 電車に。

 数字に。

 怒鳴り声に。

 評価に。


 僕は海を見る。


 さっき投げたスマホの場所は、もう分からない。

 波は何事もなかったように繰り返している。


 世界は、止まらない。


 でも。


 今は。


 少しだけ、静かだ。


「……ねぇ、聞いて良いかな?」


「なに?」


「ここ、ほんとに君の場所なのか?」


 少女は、少しだけ考えてから言った。


「今日だけはね、あたしの」


 その答えが、なぜか妙に救いだった。


 今日だけ。

 今日だけなら。

 引き返さなくてもいいのかもしれない。


 風がまた、吹いた。

 僕の濡れたシャツを揺らしながら。

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