今日だけは自由に
夕陽が、海の縁に触れかけている。
橙がゆっくりと深まり、波の表面がゆらゆらと赤く染まる。
光の道はさっきよりも細くなり、揺れるたびにちぎれそうに震えている。
海と空の境界が溶け合い、水平線はやわらかく滲んでいた。
砂浜に落ちる影も長い。
僕の足元から伸びた影は、波打ち際の手前まで届き、そこで揺れている。
少女の影は、細くまっすぐ、海のほうへ伸びていた。
潮の匂いが、少しだけ濃くなった気がした。
昼間の乾いた匂いではなく、湿り気を帯びた重たい香り。遠くで小さな漁船のエンジン音がかすかに響き、すぐに波の音に溶ける。
「君は、またここに来る?」
気づけば、そんなことを聞いていた。
自分でも、少し驚く。
別れを前提にした問いだと、口にしてから気づく。
口の中が少し乾いていた。
潮風のせいか、それとも緊張か。
舌の先に、かすかな塩味が残っている。
少女は振り向かないまま、答える。
「風が呼んだらね」
曖昧で、でも確かな返事。
風が呼ぶ。
彼女らしい言い方だ。予定も約束もない。
ただ、世界の機嫌に合わせて動くみたいな、軽やかさ。
「じゃあ……またいつか」
僕の声は、少しだけ掠れていた。
「うん。“外出”の日に」
少女は軽く手を振る。
そして立ち上がる。
砂がさらりと崩れ、彼女の足首にまとわりつく。
足の甲に付いた粒が、夕陽を受けて小さく光る。
彼女はそれを気にする様子もなく、一歩踏み出した。
素足が、さらりと砂を踏む。
踏みしめるたびに、細かな音がする。
乾いた粒と湿った粒が混ざる、柔らかな擦過音。
夕陽に照らされた足跡が、一直線に続く。
かかとの丸みまでくっきり残り、波が届くかどうかのぎりぎりの位置で止まる。
その後ろ姿は、どこか儚くて、でも強かった。
細い背中。風に揺れる髪。
白いワンピースの裾が、規則正しくはためく。
消えてしまいそうなのに、しっかりと地面を踏んでいる。
「あんた、スマホ海に返してたけどさ」
歩きながら、振り返らずに言う。
「うん」
「あれ、たぶん怒られるよ?」
少しだけ笑いを含んだ声。
波の音に混ざって、軽く弾む。
「……だろうね」
間違いなく怒られる。
始末書か、減給か、最悪クビか。
蛍光灯の白い光。
会議室の硬い椅子。
机に置かれた自分のスマホの水濡れ跡。現実は、容赦がない。
でも、その光景を想像しても、胸はさっきほど締めつけられなかった。
「でも、それでいいじゃん。今日だけは」
少女は立ち止まる。
夕陽を背にして、ゆっくり振り向く。
逆光で、表情ははっきり見えない。
ただ、輪郭だけが金色に縁取られている。
まつ毛の影が頬に落ちているのが、かすかに見えた。
「今日だけは、か」
その言葉を、ゆっくり繰り返す。
胸の中で転がす。
「そう。今日だけは」
強くもなく、弱くもなく。ただ、断言する。
今日だけは。
誰の許可もいらない。
誰の評価もいらない。
誰の正しさもいらない。
ただ、自分で決めていい日。
風が少し強く吹いた。ネクタイが揺れ、湿ったシャツが背中に張りつく。
冷たいはずなのに、その感触は不快ではなかった。
彼女の髪が、夕陽を反射して一瞬だけ光る。金色に溶け、そして影に沈む。
まばたきをする。
ほんの一瞬、目を閉じる。
次の瞬間。
そこにはもう、誰もいなかった。
さっきまで確かにあった足音も、衣擦れも、気配も消えている。
砂浜には、足跡だけが残っていた。
ざあ……ざあ……
波が一歩近づき、足跡の端をわずかに崩す。輪郭が滲み、やがて形を失う。
空はさらに暗くなり、橙は紫へ、紫は群青へと変わっていく。
遠くの水平線の上に、細い月が浮かび始めていた。
明日、僕はどうするんだろう。
会社に戻るのか。
怒鳴られるのか。
謝るのか。
逃げるのか。
わからない。
未来は、まだ混ざっている。
怒りの赤も、不安の灰色も、まだ消えていない。
でも。
でも、今日だけは……僕は自由だった。
胸の奥が、静かだ。
ざわつきはある。問題は何も解決していない。
それでも、今は暴れていない。
波と同じ速さで、呼吸が続いている。
風が通っている。
閉め切っていた窓が、少し開いている。
水平線の向こうに、最後の光が吸い込まれる。
ざあ……ざあ……
波の呼吸が、今日という一日を、静かに包み込んでいた。
僕はその音を聞きながら、砂の上に立ち尽くす。
今日だけは。
その言葉を、胸の奥で何度も確かめながら。




