許可は自分で出す
僕は仰向けのまま、空を見上げた。
さっきまで澄み切っていた青が、少しずつ色を変えている。
端のほうから、薄い橙が滲み始めていた。雲の輪郭がやわらかく染まり、光がじわじわと沈んでいく。
夕暮れ。
いつの間にこんな時間に。
時間を忘れていた。
腕時計はまだ手首にあるのに、針の位置を確かめようという気持ちが湧かない。ポケットの中のスマホも、ただの重りのままだ。
時計も、通知も、締切もない。
ただ波の呼吸と、風の温度だけで過ごしていた。
ざあ……ざあ……
波が引き、また寄せる。その一定のリズムが、どこか大きな生き物の鼓動みたいに聞こえる。
「もう少しで、外出の時間終わっちゃう」
少女の声は、少しだけ名残惜しそうだった。
隣で寝転んだまま、彼女も空を見ている。逆光で表情ははっきり見えないが、声の端にわずかな寂しさが滲んでいる。
「門限みたいなもの?」
僕は横目で彼女を見る。
「そう」
少女は空を見上げたまま答える。
「風の色が変わったら、もう戻らないと」
「風の色……?」
僕には、まだ同じ夕方の空にしか見えない。
橙が深くなっているだけだ。
雲がゆっくり流れ、光が薄くなる。それだけだ。
「気にしないで」
少女は小さく笑う。
「あんたの世界には、多分まだ見えてない色」
まだ、見えてない色。
それは、能力の話なのか。感覚の話なのか。それとも、心の余白の話なのか。
色が増える日。
色が暴れる日。
丸い音。
彼女の言葉は、まだ半分しか理解できていない。
でも。
半分は、確実に残っている。
胸のどこかに、沈殿している。
「ねぇ」
少女がこちらを見る。
「びしょびしょのシャツ、乾いてきた?」
袖を触ってみる。
さっきよりは軽い。布地はまだ冷たいが、重さは少し抜けている。
「君のせいでな」
「ふふ」
悪びれもせず笑う。
その笑いは、波よりも軽い。
「じゃあ、お詫びにひとつだけ教えてあげる」
「なにを?」
少女は少しだけ真顔になる。
さっきまでの軽さが、すっと引く。
「“今日だけ休んでいい日”って、自分で決めてもいいんだよ」
「え……」
その言葉は、思った以上に胸に刺さった。
風が一瞬止まったように感じる。
「何言ってるんだ?」
反射的に否定しかける。
社会人は勝手に休まない。責任がある。役目がある。
そういう言葉が、喉元まで上がってくる。
でも、少女は続ける。
「あんた、ずっと誰かに許してもらおうとしてるでしょ」
図星だった。
上司に。
顧客に。
同僚に。
世間に。
そして、どこかで親にも。
「サボることも、逃げることも、やめることも」
心の奥が、わずかに疼く。
逃げたいと思うたびに、自分を叱ってきた。
休みたいと思うたびに、正当な理由を探してきた。
「でもね」
少女は、まっすぐ僕を見る。
その瞳は、からかいも同情もない。ただ、事実を言うみたいに静かだ。
「許可は自分で出していいんだよ」
波が引く。
ざあ……。
静かな余白。
誰かに認められたい。
許してほしい。
正当化してほしい。
そうやって生きてきた。
自分の判断より、他人の評価を優先して。
でも。
「……そうか」
それだけしか言えなかった。
胸の奥に、小さな隙間ができる。
そこに風が通る。
ひやりとした、でも心地いい空気。
「あんたの音、明日は少しは戻るよ」
少女は、穏やかに言う。
「外に出たら、また聞こえるようになる」
音。
僕の音。
壊れて、ぺしゃんとしていたはずの何か。
それが、戻る。
「戻らなかったら?」
思わず聞く。
怖かった。
元に戻れなかったらどうするのか。
社会に溶け込めなかったらどうするのか。
少女は肩をすくめる。
「また外出すればいい」
あまりにも簡単に言う。
でも。
その言葉は、救いに近かった。
やり直しがある。
戻れなかったら、また風を通せばいい。
夕暮れが、さらに深くなる。
橙が、赤に近づく。
海面の光が細くなり、やがて黒に溶けていく。
風の温度が、ほんの少しだけ変わった気がした。
少女は、ゆっくり立ち上がる。
砂が足元で崩れ、さらりと音を立てる。
僕は、まだ空を見ている。
今日だけ休んでいい日。
それを、自分で決めていい。
そんな発想は、今までなかった。
波の音が、最後の光を飲み込む。
ざあ……ざあ……
風の色が、変わり始めていた。
そして僕は、その変化を、前よりも少しだけ感じ取れている自分に気づいていた。




