ちょうどいい
波が引く。
白い泡が細くほどけ、砂の上に残った筋をゆっくりと消していく。
砂が、さらりと崩れる。
夕方の光は、さっきよりも低くなっていた。
海面のきらめきは細くなり、代わりに空の色が深くなる。
オレンジと薄紫が、境目もなく混ざり合っている。
「ねぇ」
僕は、なんとなく口を開いた。
言わなくてもいい問いだったかもしれない。
でも、今なら聞ける気がした。
「君は、どうしてこんなところでひとりなんだ?」
砂浜は広い。
さっき見えた老人の姿はもうない。
足跡だけが、波打ち際の手前で途切れている。
風が少し冷たくなってきた。
少女は、海を見たまま答えた。
「外出の日は、ここなの」
その“ここ”に、特別な響きがある。
「ここで寝るのも、怒られるのも、泣くのも、自由」
その言葉は、軽いようで重い。
怒られる、という言い方が引っかかる。
誰に、とは聞かない。
「自由、か……」
口に出してみる。
会社では、自由はない。
評価に縛られ、数字に縛られ、時間に縛られる。
メールの通知一つで、思考が中断される。
ここでは。
少女は、砂をつまんで、指の間から落とす。
細かい粒が夕陽に光りながら、さらさらと崩れていく。
「あんたもさ。今日だけ、自由にしたら?」
風が、僕のネクタイを揺らす。
今日だけ。
さっきも聞いた言葉だ。
「……そうだな」
完全な肯定でも、否定でもない。
でも、拒絶はしなかった。
少女はくるりと振り向く。
動きは軽いのに、視線は真っ直ぐだ。
「ほら、砂の上に寝っ転がってみなよ。
あったかいし、音が柔らかいよ」
促されるまま、僕はゆっくりと仰向けになる。
背中に、じわりとした感触が広がる。
スーツの生地がまた砂を吸い、ざらりとした重みが増す。
頭の下のカバンは固いけど、砂の温度が心地いい。
昼間の太陽に温められた粒が、背中をじんわりと包む。
硬い地面とは違う、受け止める柔らかさ。
ざあ……ざあ……
波の音が、上から降ってくる。
視界には、空しかない。
「うん……たしかに柔らかい」
音が、だ。
耳に刺さらない。
ただ、広がる。
まるい布で包まれたみたいに、角がない。
「でしょ?」
少女の声が、少し誇らしい。
彼女も隣で寝転んだらしく、視界の端に髪が揺れるのが見えた。
しばらく、二人で空を見る。
雲がゆっくり流れる。
色はさらに深まり、金色が薄く差し込む。
「ねぇ、ひとつ聞いてもいい?」
僕は横を向いた。
少女もこちらを向いている。
軽く見つめ合う形になるが、そこには特別な感情はなく、ただ興味だけが積み上がっている。
「なに?」
「その……外出の日以外は、何してるんだ?」
一瞬だけ、少女の視線が止まる。
ほんのわずかに、呼吸が浅くなった気がした。
「秘密」
即答だった。
「そっか」
それ以上踏み込まない。
でも、少女は少しだけ言葉を足した。
「ただね」
風が、間を通る。砂の匂いと塩の匂いが混ざる。
「誰かと会うとね、その人の“音”が、あたしの体の中で響きすぎちゃうんだ」
さっきの話の続きだ。
「……それで疲れちゃうのか」
「うん」
淡々と。
「でも、あんたは平気」
予想外の言葉だった。
「え? なんで?」
少女は、僕の胸のあたりを見る。
鼓動の位置を確かめるみたいに。
「あんた、今ちょっと壊れてるから」
「壊れてる?」
「音が出てない」
さらりと言う。
「空っぽの風船みたいに、ぺしゃんってしてる。
だから聞きやすいの」
ぺしゃん。
その擬音が妙に的確だった。
張り詰めていた何かが、抜けた状態。
パンパンに膨らんでいた風船から、空気が抜けたみたいに。
「……そうかもしれない」
否定できない。
怒りも、焦りも、今は薄い。
ただ、疲れている。
だから静か。
少女は、少しだけ微笑む。
「今はね、ちょうどいい」
ちょうどいい。
その言葉が、やけに優しく聞こえた。
壊れていることが、否定されない。
役に立たないことも、責められない。
ただ、“聞きやすい”。
波がまた、砂を撫でる。
ざあ……ざあ……
夜の気配が、ゆっくり近づいてくる。
空の端に、淡い星がひとつ滲む。
僕は空を見上げたまま思う。
壊れている状態が、誰かにとって“ちょうどいい”なら。
それは本当に、壊れていると言えるのだろうか。
もしかしたら。
ただ、少し空気が抜けているだけで。
また、必要な時にだけ、ゆっくり膨らめばいいのかもしれない。




