明日は明日の風
波が引いて、また寄せる、繰り返す音が心地良い。
ざあ……ざあ……
白い泡が細い線を残し、ゆっくりと砂に吸い込まれていく。
さっきまで濡れていた場所が、少しずつ色を変え、夕暮れの光に照らされている。
少女は、砂を指先でなぞりながら、ふとこちらを見た。
細い指が描く線は、特に規則性は無いようだ。
「あんたは? 世界の音、うるさい?」
不意打ちだった。
僕は少しだけ空を見上げる。
茜色が、ゆっくりと紫に溶け始めている。
答えを探すみたいに。
「最近は……」
言葉が喉に引っかかる。
胸の奥にあるものが、うまく形にならない。
「自分の心の音が、うるさいかもしれない……かな」
自嘲気味に笑う。
外じゃない。
内側だ。
静かなはずの部屋でも、夜のベッドの中でも、勝手に鳴り続ける音。
「あー、わかる。悩みが暴れてるやつ」
少女は即答する。
軽い口調なのに、妙に的確だ。
「暴れてるし、勝手に机ひっくり返したりしてるかな」
会議室の机が頭に浮かぶ。
怒鳴り声。
数字の羅列。
刺さる視線。
それが全部、心の中で暴れている。
誰もいないのに、誰かに詰められている感覚。
「机ひっくり返す悩みは厄介だね」
少女は真顔で言う。
僕も思わず苦笑する。
「うん。毎日、心の中が散らかってる」
書類が床に散乱しているみたいに。
拾っても拾っても、また落ちる。
整えたと思った瞬間に、新しい紙束が降ってくる。
「掃除すれば?」
あまりにも簡単に言う。
「できたら苦労しないよ」
即答だった。
簡単にできないから、こんなところにいる。
少女は少しだけ首を傾げる。
風が彼女の髪を揺らし、頬にかかった毛先が光る。
「じゃあ……今日だけ掃除してみたら?」
「今日だけ?」
その響きに、引っかかる。
「そう、“今日だけ”」
少女は、海に向かって視線を戻す。
「明日のことは、明日の風が決めてくれるよ」
風が、二人の間を通り抜ける。
ネクタイの端が揺れ、砂の表面がささやくように動く。
ざあ……ざあ……
その言葉は軽い。
責任も、計画も、保証もない。
でも。
妙に、優しい。
波の音だけが響く。
遠くでカモメが低く鳴き、すぐに静けさに溶けた。
彼女の言葉は簡単で、子供みたいで、でもどこか、大人より大人だった。
明日のことは明日の風が決める。
無責任だ。
でも、僕はいつも“明日”に押し潰されている。
明日の数字。
明日の評価。
明日の叱責。
まだ来てもいない時間に、心を握りつぶされている。
もし、今日だけ軽くなっていいなら……
今日だけ、机を立て直さなくてもいいなら。
今日だけ、散らかったままでも許されるなら。
そう思えてしまう自分がいた。
胸の奥が、ほんの少しだけ緩む。
きつく縛っていたネクタイを、指先で少しだけ緩める。潮風が首元を通り抜ける。
少女は、僕の顔をちらりと見る。
「どう?」
「……何が」
「掃除、してみる?」
僕は少し考える。
風が頬を撫でる。
波が、一定の速さで呼吸する。
「少しだけ、窓を開けた感じはする」
胸の奥に溜まっていた空気が、ゆっくり入れ替わるような感覚。
心の中の机はまだひっくり返っている。
書類も散らかったままだ。
でも、閉め切っていた部屋に、涼やかな風が入った。
それだけで、少し違う。
少女は、にやりと笑う。
「それで十分」
ざあ……ざあ……
波は同じリズムで繰り返す。
空はさらに深い色へと沈み、海面に星の気配が滲み始めている。
机はまだひっくり返ったままだ。
悩みも、消えたわけじゃない。
でも。
今日だけは。
散らかったまま、風を通してもいいのかもしれない。
明日の風が、今までの憂鬱を吹き飛ばしてくれると――
ほんの少しだけ、信じてみようと思えた。




