呼吸を合わせる
少女は口を開く。
照れてる様でも恥ずかしいそうでも無く。
思い出したかの様な口調が、不思議と興味を集める。
「あたし、今こうやってお話してるけど」
波の音が、ゆっくりと間を埋める。
ざあ……ざあ……
寄せては返す白い泡が、夕方の光を受けて淡く光る。
空は少しずつ色を深め、青の上に薄い橙が重なりはじめている。
太陽は傾き、海面に長い光の道をつくっていた。
「外出の日にね、こうやって誰かと話すの、久しぶりだったんだよ」
少女がぽつりと言う。
「最近はずっと……誰かと会話って、してなかったなあって」
少女の横顔は穏やかだった。夕陽に照らされた頬は柔らかく、風に揺れる髪も静かだ。
でも、その言葉の端に、ほんの少しだけ影がある。
“久しぶり”。
それが、軽い意味じゃないことは分かる。
「ねぇ、君さ」
僕は、湿った砂を指でいじりながら聞いた。
指先にまとわりつく粒を、何度も指先で弾く様に払う。
「外出なんて言ってたけど、学校とか行ってないの?」
少女は、あっさり答える。
「行ってないよ」
迷いがない。
その即答が、逆に胸に落ちる。
「どうして?」
問い返す声が、少しだけ低くなる。
責めるつもりはないのに、自分でも驚くほど真面目な響きだった。
「んー……“外出”が許されない日が多いから」
「許されない?」
その言い方に、胸の奥が少し引っかかる。誰に許されないのか。家族か、医者か、それとも世界そのものか。
「なんだろうね、体質?かな?」
少女は空を見上げる。雲がゆっくりと流れている。
「外に出るとね、ちょっと……人より世界の音が大きいの」
「大きい?」
「うん」
彼女は耳元に手を当てる仕草をする。
風がその指の隙間を通り抜ける。
「海の声とか、風の声とか。あんたの心臓の音とか」
僕の胸が一瞬、ドキッと鳴る。
続けるように鼓動が、急に意識に上る。
さっきまで波のリズムと混ざっていたはずなのに、急にその存在に輪郭を持つ。
「そういうのが全部、普通の音じゃなくなるの」
少女の声は淡々としている。
「特に人の声がね」
人の声。
怒鳴り声。
囁き。
嘘。
焦り。
会議室のざわめき。駅のアナウンス。
コンビニのレジ音。
全部が、増幅されるのか。
「それ……大変だな」
思ったままが口から出た。
少女は小さく頷く。
「うん」
否定しない。
強がりもしない。
「だから、風が変わった日だけ、“ちょうどいい”の」
ちょうどいい。
強すぎず、弱すぎず。
耳の奥が痛くならない日。
「そして、誰も居ない所」
砂浜を見渡す。
足跡は僕たちのものがほとんどだ。
遠くで犬を散歩させている老人がいるが、その存在は景色の一部に溶け込んでいる。
ここには、怒鳴り声も、通知音もない。
世界の音が大きい。
それは、単なる比喩じゃないように聞こえた。
彼女は冗談を言っている顔ではない。
誇張でもない。
もし本当に、すべての音が増幅されるなら。
学校の教室は地獄だろう。
笑い声も、怒鳴り声も、椅子の擦れる音も、チャイムも。
全部が刺さる。
「慣れるってことは、無いのかな?」
僕は小さく聞く。
少女は少しだけ首を傾げる。
髪がさらりと肩に落ちる。
「慣れるって、何に?」
「色んな音に」
「うーん……」
少し考えてから、答える。
「慣れる前に、疲れちゃう」
短い言葉。
でも、その重みは十分だった。
風が、二人の間を通り抜ける。
シャツの袖がはためき、砂がかすかに舞う。
ざあ……ざあ……
波が、同じリズムを繰り返す。
「でもね」
少女は少しだけ笑う。
「今日は大丈夫」
「どうして?」
「音が丸いから」
また抽象的だ。
でも今は、否定しようとは思わない。
丸い音。
確かに、今日の波は尖っていない。
風も、肌を切るような冷たさじゃない。
空気が柔らかく、角がない。
「それにね」
少女は、ちらりと僕を見る。
「今のあんたは、静かだよ。うるさくない」
どこか安心したように言う。
「心臓の音も、ちゃんと一定」
無意識に、胸に手を当てる。
とくん、とくん。
さっきより、確かに落ち着いている。
仕事の話をしていた時のざわつきはない。
波と同じ速さで、ゆっくりと打っている。
少女は、砂を指でなぞる。
細い線が一本、砂のスケッチブックにゆっくり引かれる。
「外出の日はね」
少しだけ、柔らかい声。
「世界と同じ速さで呼吸できる日」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
僕は、静かに息を吸う。
海の匂いが肺に入り、ゆっくり吐き出す。
波と同じ速さで。
風と同じ温度で。
初めて本気で思った。
この少女は、ただの不思議な子じゃない。
世界を、生き延びる方法を知っているだけなのかもしれない。
そして僕は今、その方法を、少しだけ分けてもらっているのかもしれなかった。




