風の色が変わる日
多分、疲れていたんだと思う。
朝。
いつもの通勤電車。
人波に押し込まれながら三号車の角を狙う。
押し込まれるスーツの群れは湿ったウールの匂い。
整髪料やまだ新鮮な香水の香り。
エンドノートとは違い、ファーストノートは鼻に刺さる。
少しの揺れで吊り革がきしむ。
誰かの肘が脇腹に刺さるが、どうしようもない事は理解できる。
耳に突っ込まれた誰かのイヤホンから漏れる、シャリシャリした高音。
なんとなく何を聞いているかはわかる。
そう、世界は、静かな顔をしてうるさい。
スマホが震えていた。
ポケットの中で、ぶるぶると小刻みに。
画面を見なくても分かる。
上司だ。
昨日の会議で、営業最下位の僕は吊し上げられた。
『数字が出ないのは努力不足だ』
努力。
便利な言葉だ。
具体的な物は何も提示されない。
結果を総評して辿り着いた言葉。
足りないと言えば、全部片付くと思って居るらしい。
昨夜は三時間も眠れなかった。
怒鳴り声が、頭の奥で反響していたからだ。
さらに電車がカーブに差し掛かる。
電車が揺れる。
窓の外の景色が、いつもより速く流れている気がした。
いや、違う。
あんな所にあんな店が。
へー、そうだったか。
いや、見慣れない。
駅名表示を見る。
降りたこともない、知らない駅だった。
「……あれ?」
本来なら焦る場面だ。
でも、胸の奥は妙に静かだった。
次の駅で降りる。
ホームに足をつけた瞬間、空気が違った。
湿度が少し高い。
風に塩の匂いが混じっている。
“これは海が近い”
直感で感じ取る。
何かに導かれる様に改札を抜ける。
それにあわせてネクタイに手がのびる。
そっとそれを緩める。
湿った風は滑り込む様に首元に入り込む。
この革靴のまま、海の方向へ歩き出す。
海で遊ぶにはフォーマル過ぎる。
それを選ぶのも、そこへ向かうのも、理由はない。
ただ、胸の奥のざわつきから、少し離れたかった。
各家の庭には名前もわからない樹木が枝を伸ばして居る。
少しのんびりした雰囲気が漂う。
そんな住宅街を抜けると、急に視界が開けた。
水平線。
空と海とその境目。
“THE 砂浜”がそこに広がって居た。
その砂浜は広く、ほとんど人影がない。
遠くで犬を散歩させている人影と犬の影。
それに、小さな漁船。
それだけ。
ざあぁ……
ざあぁ……
おおよそ皆んなが思いつくであろう、寄せる波が一定のリズムで呼吸している。
その音を聞いた瞬間、胸の奥の圧迫感が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……まぁ、いいか」
スマホがまた震えた。
ぶるぶる、と必死に主張する。
画面を見る。
そこには着信履歴が積み上がっている。
通知の赤い数字。
焦りの象徴。
僕はそれをしばらく見つめた。
「そんなに震えるなよ。なんだ寒いのか?」
誰もいない海に向かって呟く。
「自由になりたいなら、ほら、行ってこい」
自分でもどうかしていると思った。
でも、その時の僕は本気だった。
思い切り振りかぶる。
スマホは太陽の光を一瞬だけ反射し、小さな弧を描いた。
とは言え、野球をやってたわけではない僕の、調子の狂った投球フォーム。
“ぽちゃ”
遠投というには程遠く、すぐ先の波が届いて居る場所にはなんとか届いた。
「かっこ悪……」
映画みたいに行かない、悲しい結果にちょっと落胆する。
そして砂に刺さったそれは、波に飲み込まれる。
水面がわずかに揺れて、すぐに何事もなかったように戻る。
静かだ……。
しかしこれは怒られる。
間違いなく怒られる。
そんなのわかって居る。
だが今はそれで良い。
僕は通勤用のカバンを砂の上に置き、それを枕にして横になった。
砂は想像より温かい。
太陽に温められた砂粒が、背中をじんわりと包む。
“低反発より良いかもな“
よくわからない評価をこの寝具に下す。
”寝具か?”
まぁ細かい事は良い。
少し体勢をかえると、スーツの裾から砂が入り込む。
少しざらつきが気持ち悪くはある。
が、もうそんなのどうでもいい。
目を閉じる。
風が頬を撫でる。
波の音が、一定の間隔で繰り返される。
ざあ……
ざあ……
呼吸が、ゆっくりになる。
世界が意識の中から遠ざかる。
そのとき。
「ねぇ」
声がした。
近い。
「そこ、私の場所なんだけど」
目を開ける。
逆光の中に、人影が立っていた。
太陽を背にしているせいで、輪郭が光に溶けている。
長い髪が風に揺れる。
素足。
白いワンピースの裾が、砂に触れている。
少女の白いワンピース。
どこまでが雲で、どこからが布地なのか分からない。
あまりに自然に重なっていて、境界線が曖昧だった。
手には――向日葵色のバケツ。
「……ん?夢か?」
思わず呟く。
「聞こえてる?それとも、まだ夢の途中?どっち?」
澄んだ声。
でも少しだけ、呆れている。
少女は一歩足を前に出し、砂を踏みしめる。
さらり、と粒が流れる音がした。
「ごめん。ちょっと寝転がっただけで」
「そう」
彼女の納得行かないのが伝わりすぎる相槌。
「あのね、勝手に寝転がられると困るんだよね」
彼女は僕を見下ろす。
年齢は分からない。
高校生くらいにも見えるし、もっと若くも……。
どこか曖昧に見える顔立ちだ。
そして印象的なのは、瞳が、妙に澄んでいた。
「ここって砂浜だし、誰の土地でもないだろ?」
「今日は、私の」
即答だった。
迷いがない。
そして、少しだけ口元が歪む。
「起きないなら、起きないでいいけど」
「起きてるよ」
肘をついて上半身を起こす。
砂がスーツの背中からぱらぱらと落ちる。
少女は、にやりと笑った。
「ふーん。じゃあ、後で文句言わないでね?」




