アーロン殿下、放置していた婚約者を観察する
ロゼリス・アーバートン。
彼女の名を耳にするたびに、最近はやたらと妙な噂がついて回る。
曰く――「家で頭を打ってから別人みたいになった」。
曰く――「おかしくなった」。
曰く――「壁と話していた」。
(……俺の婚約者、頭打っておかしくなったって本当か?)
アーロン・ジークスは眉をひそめながら、学院の廊下を歩いていた。
靴音が磨かれた床に響く。
すれ違う女子学生たちが小さく息を呑み、「アーロン様……!」と頬を染める。
そんな反応にも慣れっこの彼は、軽く会釈だけして教室へと向かう。
…それにしても、あの舞踏会の夜のことは、今でも理解できない。
(あいつ、本気で“婚約破棄してください”とか言ったんだぞ?)
あの時の光景が脳裏によみがえる。
いつもなら俺を見るだけで顔を赤らめていたロゼリスが、堂々と真正面から俺を見上げて、はっきりと言い放ったのだ。
「婚約を破棄してくださいませ!」と。
(あんなの、俺の気を引きたくて言ったに決まってる。……だって、あいつ、俺のことが好きで好きで仕方なかったじゃないか)
毎日わざわざ執務室に来て、「今日も麗しいお顔ですわね、アーロン様♡」だの、
「殿下の笑顔はわたくしの一日の糧ですわ♡」だの。
正直、鬱陶しいと思っていた。
父上の命令がなければ、絶対に婚約なんかしなかったタイプの女。
(……なのに、急に婚約破棄? 何が狙いなんだ、まったく)
そんなことを考えながら、教室の扉を開ける。
瞬間、女子たちの黄色い歓声が上がる。
「キャー! アーロン様!」
「今日も素敵ですわ〜!」
いつもなら、その中心にロゼリスがいた。
制服にアクセサリーをつけて、誰よりも声を張り上げていた。
だが、今日は違った。
(……あれ? いない?)
視線を巡らせた先で、アーロンは見つけた。
教室の隅。
自分の隣の席の少女――ルチアルーアンに向かって、妙に瞳を輝かせているロゼリスを。
頬をほんのり赤らめ、うっとりとした目でルチアを見つめ、時折こくこくと頷いては、何やらハンカチで顔を押さえている。
(……なにやってんだ、あいつ)
アーロンは眉をひそめた。
どう見ても、俺の方を見ていない。
いつもなら、俺が入ってきた瞬間に真っ先に駆け寄ってくるのに。
まるで、俺の存在なんて眼中にないかのように――。
(おいおい……まさか、本当に俺への興味が冷めた? いや、そんな馬鹿な……)
そう思いつつも、胸の奥が妙にざわつく。
喉の奥に小さな棘が引っかかったような感覚。
ルチアが笑う。
ロゼリスが、その笑みに目を細めて嬉しそうに頬を押さえる。
(……なんだ、あの顔)
アーロンは机の上に手を置き、軽く拳を握る。
意味もなく、指先に力が入る。
そして、気づけば心の中で小さく呟いていた。
(……なんだあいつ。本当に、頭打って変わったのか……?)
教室の窓から差し込む光が、ロゼリスの髪を淡く照らす。
金糸のような髪がきらきらと輝いて見えるのは、彼女が推しを見つめているからか。
アーロンは思わず視線を逸らし、ため息をついた。
その時、背後から聞き慣れた落ち着いた声が響く。
「殿下、ロゼリス様は本当に変わられましたね…。」
振り返れば、いつもの護衛騎士ルミナスが腕を組んで立っていた。
灰銀の髪に鋭い青の瞳。冷静沈着で、どんな時でも表情を崩さない男だ。
「社交界ではもっぱらの噂です。“アーバートン嬢、頭を打って覚醒した説”とか」
「覚醒ってなんだよ……」
アーロンは呆れたように額を押さえる。
「それにしても、愛がどうとか言ってたあいつが、今じゃルチアルーアン嬢ばっかり見てるって……意味わからん」
ルミナスは肩をすくめた。
「転けただけで、殿下への愛が消えるわけない、って思ってます?」
「当然だ! 俺への愛はあれほど……いや、しつこいくらいだったんだぞ?」
「……いや、マジで消えたっぽいです」
「は?」
アーロンが思わず聞き返すと、ルミナスは真顔のまま続けた。
「殿下、あれだけ冷たくあしらえば当然です。
あの令嬢、殿下に何度冷たい言葉をぶつけられても笑顔で立ち上がってました。
正直、殿下に“あそこまで言われてもめげない令嬢”なんて、ロゼリス嬢くらいでしたよ」
「……」
「でも、あの舞踏会で本気で“婚約破棄してください”って言われたんでしょう?
…あれ、多分、もう時間の問題ですよ」
「じ、時間の問題って……なにがだ」
「婚約破棄、です。ロゼリス様の方から、正式に」
「……っ」
アーロンは言葉を失う。
胸の奥で、なにかが小さく弾けたような感覚がした。
窓の外では、春の風が柔らかく木々を揺らしている。
ロゼリスの笑い声が微かに届く。
(……なんだよ、あいつ。俺の方から破棄しようと思ってたのに、先に言いやがって……)
アーロンは唇を噛み、目を伏せた。




