吠え男
夜、ドスドスと重たい靴音を響かせながら、男が団地の外廊下を歩いていた。足取りは鈍く、まるで靴底に鉛でも仕込まれているかのよう。背中は丸まり、口は半開き。今にもドロドロに崩れ落ちそうであった。
ようやく自室の前にたどり着くと、ポケットから鍵を取り出し、肺の奥の空気をすべて吐き出すように深く息をついた。
額に滲んだ汗を手の甲で拭い、鼻をすすり上げる。四階まで階段を登ってきたせいで――ということにしたい――呼吸は荒く、心臓は嫌に強く脈打っていた。こうなることは想像がついていた。それでも男はエレベーターを使う気にはなれなかった。ただ立って待つあの時間が、今夜の彼には耐えがたいものだったのだ。
しかしこうして自室の前に立って鍵を手にしていると、張り詰めていた心は少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。
――大丈夫だ、大丈夫……バレやしない……。
胸中で繰り返し念じ、男はもう一度深く息を吐いて鍵を鍵穴に差し込もうとした――その瞬間だった。
「ウワアアアアアオ!」
突如として遠吠えが夜気を切り裂いた。男は思わず手を震わせ、鍵をコンクリートの床に落とした。
――犬……か?
通りのほうからだ。男は振り返り、廊下の腰壁に身を寄せて階下に広がる住宅地を見下ろした。深夜の町はひどく静まり返り、灯りの点いている家はわずかしかない。
「ウワアアアアアオ! アアアアオ!」
――いや、人の声だ。
野太く濁った声で、若くはなさそうだ。酔っ払いか? ……だろうな。この辺りにはよくいるのだ。歌ったり叫んだりしながら千鳥足で夜道をふらつくやつが……。
――吠えたいのは、むしろこっちだ……。
込み上げる衝動に駆られ、男は息を吸い込んだ。だが声には出さず、喉の奥で押し殺した。
馬鹿。目立つ真似はやめろ。なぜなら、おれは今夜、上司を……。
「ア、アア、ウアアアオ! ワアアオ!」
声が近づいてきた。バタ、ドタ、と踏みつけるような不安定な足音も混じっている。男は腰壁に手をかけ、身を乗り出して目を凝らした。
『君はさあ、なんで生きてるの?』
『変な顔だなあ』
『濡れた犬みたいな匂いがするよ』
『この頭、よく響くなあ! 入ってないんじゃないの?』
『お、ここ禿げてるよ。はははは!』
ふいに脳裏に声が浮かんできた。耳にこびりついて離れない、あの声が。
――まさか、ありえない……。
あのときの感触が蘇り、指先が震え始めた。だがありえない。そうとも、あるはずがない。大丈夫だ。大丈夫……。
男はそう自分に言い聞かせた。だが、完全に安心するには確かめるしかなかった。あの声の正体を。
「アオオオオウウウウオオオオ!」
――嘘だ。
角の向こうから現れたのは、まさしく男が恐れていたもの――上司だった。
この夜、男は上司に飲みに連れ回された。鬱陶しい絡みは店を出ても続き、うんざりしながら並んで歩いた。耐えろ、我慢だ。ほら、駅まであと少しだ……そう思った矢先、上司はよろめき、路地裏に吸い込まれていった。
吐くつもりらしい。暗がりから嗚咽が聞こえてきた。放っておくわけにもいかず、男は渋々後を追った。だが突然、上司は男の胸ぐらをつかんだ。
『オエエエエップ……君はあ、本当にグズだなあ』
顔にゲップを浴びせた上司は、ケタケタと笑いながら壁に手をつき、今度こそ盛大に吐き始めた。
その足元で、何かがきらりと光った。アイスピック。繁華街の路地裏だ。誰かが捨てたのだろう――理由などどうでもよかった。男はそれを拾い上げ、そして――。
「アオオオ……? アアアアアアアアアアアアオオオオオオ!」
――見つかった。
上司が走り出した。
「さ、三駅も離れてるのに……!」
どうやってここまで来た。電車か? あの状態で? まさか走って? いや、それ以前に、なぜおれの家を知っているんだ。
疑問が渦を巻き、めまいと吐き気が男を襲った。
とにかく逃げなければ。部屋に――そう思い、ドアノブに手をかけた。その瞬間、男は鍵を落としたままだったことに気づいた。
慌てて屈み、拾おうとする。だが――。
「アウウオオオオ!」
男は浅く「ああ……」と息を漏らした。
廊下に姿を現した上司を目にした瞬間、すべてを悟った。
乱れたスーツ。首に絡まるネクタイ。頭には、突き刺さったままのアイスピック。
四つん這いで歯を剥き、唾をまき散らしながら迫りくるその姿は、まさしく犬そのものだった。