俺のうるさい心の中 (アカイ50)
俺はいつもの言葉が出てこないことに困惑した。
早く言わなくちゃ。あの心にいつも浮かびそして口から放たれるその言葉を。言わなければならないのにと俺は心の奥底へ向かい手探りで掻き出そうとする。
いますぐ思って口に出さなくてはそうしなければ俺は……耐えられない。この痛みにこの哀しみにこの苦しみに耐えられない。
だから傷つけないといけない。俺を苦しめ傷つけるその対象に。その苦痛を与えるのが当然の権利だと思い込んでいる対象に。
いつも自分にそういうことをしてくる存在に。嫌なものばかり押し付けて来る相手に。そうしなければ俺は苦しみを一人で抱え込んでしまう。
そんなのは耐えがたく何よりも嫌だ。孤独が全身を蝕み苦しめて来る。虚しさが全身を覆い被さり身体が冷たくなっていく。急いで温かくならないと。はやく熱くならないと……憎まないと。怒りで温め自分を癒さなければならない。生きる力を沸かさなければならない。
愛で繋がれないのならせめて憎しみで繋がれれば俺はまだ、救われる。俺は孤独に落ちなくて済む。一方的に関係を断たれたわけではないんだ。言わなきゃ、この女に。俺が無知で何も知らないと思い込んでいる女に。
俺の感情を分かり切っていると自惚れている女に。いつもの言葉で。ほら血が熱くなってきた。そうだ俺はお前のことなどはじめから……やはり出てこないことに俺は再び息が詰まる。言葉が出ない。思い浮かびもせず、苦しく、だが腹の底が奇妙に冷たいまま。
それでいて身体中の血が熱を帯びだし、いつものどす黒いものも含めたものが流れているのを感じる。恨みつらみという感情が、怒りがそこにあり、吐き出さなければならない。言葉で叫びで以って、憐れな自分を救うために、自分を捨てる存在にぶつけるために。
あの女のようにあの女のようにあの女のようにあの母であった奴に対してのように、俺は女を犠牲にして自らを救い生きないといけない。女だって覚悟している。手足が塞がれようとも口は言葉はふさげられない。
お前は耐えるべきだ。見捨てるものの怒りや悲しみに対して。それはお前に対する当然の報いであり義務でけじめだ。たとえ聞かなくてもその言葉を放たれないと願うべきではない。
俺の苦しみを受け止めろ、お前は俺を捨てるのだから、俺の哀しみに傷つけ、お前は俺を忘れるのだから、俺はお前よりももっともっと苦しみ哀しみ泣きこのことを引きずるのだから。お前は新しい男によってそれを癒せばいい。
俺は一人でこの苦しみと向き合うのだから。一人で生きていくのだから。女よ、女よ、なぜ俺を見捨てる! そうだ俺はいつものように叫ばなくてならない。
だが言葉が出てこない。
心の中どころか身体中に暴れながら生まれて来る荒々しい言葉たちが口から出てこれない。しかし唇は固く結ばれたまま、どこにも行けないどうにもできない、だから痛みは一人でそのまま俺の全てを痛めつけ苦しめた。
俺はどうして言えないのだ? こんなに苦しいのに吐き出せずそれどころか苦いものを呑み込み続けていく。苦さと辛さで喉が焼けるようなのに俺は何をしているのか? どうしてこの女にそれを、言えないのか?
「ねぇ、なんで何も言わないの?」
シノブが尋ねてきた。その表情には困惑と焦りそして苛立ちと怒りが浮かんでいる。それを見て俺は同意し思う。俺は間違えている。俺は正しくないことをしている。ならば言わなきゃいつもの言い慣れた言葉を。自分の真心を言わなくては。
「言いなさいよ」
そうだ言わないからって、なんだというんだ。もうシノブは遠くに行く。俺の呪詛を受け止めてから旅立つんだ。門出を呪う言葉を。与えなくてはならない。言わなかったら、思わなかったら、なんだというのだ?
可能性を信じているとでも? 情けなくも言わなければどうにかなると? ならなかったじゃないか、俺よ。結局は恨みつらみに耐え切れなくなり逆に駄目だった。どうにもならない、それが結論だった。なぁ俺よ、お前の元には誰も帰ってこない。誰もかもだ。この女もその大勢の中の一人になるに過ぎない。お前はいつものように見捨てられるだけだ。
「私は言ったよ」
その通りでシノブは伝えている。自分の本心を。真心を俺に伝えてくれている。だから俺もこの感情を伝えなければならないぶつけなければならない。
そうでなければ不公平でありそれは悪だ。痛みには痛みを苦しみには苦しみを、そうしなければ世界の秩序は保たれない、善には善を悪には悪を愛には愛を、与えなければならない。シノブの言う通りにしなければならない。俺は主の言葉の通りにしなければならないのだ。
「言ってよ」
誘われるまま黒き怒りの叫びを。
「アカイの言葉を」
俺は俺を捨てる女にいつものように伝えなければならない。俺は口を開いた。そうすれば言葉は声は遅れて出て来るだろう。自動再生されるが如く、言い慣れたいつもの言葉達が踊るかのように出て来るはずだ。
俺の中身とはその重っ苦しき荒々しい想いによって満たされているのだから。しかし出てくるのは無音だけであり、辺りに満ちていくのは静寂と虚無だけ。
無と空はいくら積み重なってもなにもなく、無音はいくらあたりに満ちても静けさだけ。それは圧迫し支配し、うるさくさえある。自分の呼吸音が、自分の血のめぐりが、聞こえるだけ。
自分自身のうるささに、自分自身の生きることの煩わしさに、気づくだけ。世界はこんなに穏やかであるのに自分はなんて激しいのだろう。まるで否定すべき存在であるように世界よりも自分が自身に告げて来るかのように。
「我慢しないで。こっちはわかってんだから」
シノブが堪え切れずに言うも、顔は冷静な能面が微かに歪みだし皺が寄り崩れ出していく。耐え切れないのか? いったいなにに? と俺は思うと同時に伝わってきた。
いま自分自身が思っていたこの無音の世界についてのことをシノブもまた感じ思っていたのか? すると先ず頬に衝撃が来た。首が右に動き左頬に熱が広がりそれから絶叫が耳に入る。
「言ってってば! 言え!」
正面を見ると平手打ちをするシノブの半泣きな顔が見えると、やっと胸に痛みがやってきた。そこ? と俺は呆然とすると遅れてようやく頬に痛みが来るが、それでもそれは痛みと呼ぶにはあまりにも小さすぎた。
自分はもっと痛さを感じているのだから、どこに? とアカイは考える。俺はどこを痛めたのだ? どこの胸を? いやそれよりも違う大きな痛みが、ある。
どこに? いったいどこに……俺は前に立ったままのシノブを再び見た。どうしてかシノブが小さく弱く見えた。本当の力を取り戻したと言っていたのに……強くは見えないどころかどうしてそんなに以前よりも小さいのか。どうしてそんなに胸を痛めているのか?
「シノブ! アカイ殿!」
背後からスレイヤーの声が聞こえた。