後編
宮廷晩餐室では、すでに祝宴が始まっている。
入口から右手には飾り付けられた大きなテーブル。
中央には本日の主役である王弟と元侯爵夫人、両側に王族たちが座っている。
彼らを横に見るように、非常に幅広の長テーブルが三列並ぶ。テーブルの両側には参加者たちが座り、晩餐を始めていた。
総勢百名近くはいるだろうか、ほとんどの出席者は食事や歓談に夢中だ。
アイリーンたち宮廷楽団はというと、王族たちの真反対、三列の長テーブルの末尾の場所にいた。
今は懇談の邪魔にならないよう、穏やかな曲をゆったりと演奏している。
指揮者はオリヴァー。
長テーブルの末席に腰掛けたアイリーンは、彼をうっとりと見つめていた。
きっちり撫でつけた黒髪も、本番でしか着ない黒燕尾も最高に素敵だ。
アイリーンは作曲が終われば出番はないが、毎回曲の仕上がりが聴きたくて、きちんと淑女の姿をして楽団の近くに席を用意してもらっているのだ。
今日は藍色のドレス。アッシュグレーの髪はまとめて上げている。
「ふふふ……」
知れず、笑みが漏れた。
先日仕上げた曲はここ最近でも非常に良い出来である。
この後、王から王弟の結婚が発表され、曲が披露される予定だ。その時は参加者皆が楽団に注目する。楽しみだ。
アイリーンは音楽に耳を傾けたまま、会場に目をやった。
主役の二人は幸せそうに顔を近づけて何かを話している。ゴシップ誌ではあまり目立って描かれていなかったが、元侯爵夫人も美人だ。
他の参加者たちも食事を楽しみ、歓談している。
雰囲気は上々、これも楽団のBGMが素晴らしいからである。
リンリンと鈴の音がして、楽団が音楽を止めた。
参加者の視線が主テーブルに集まる。
結婚の発表だ。王が立ち上がり、咳払いした。
「今日は皆、よく集まってくれた。我が弟サイモンが、ああ、ようやくと言っていいだろうか」
小さく笑いが起きる。
「伴侶を見つけ、結婚することとなった。皆、祝福してほしい。今夜は良い夜を過ごしてくれ」
主役の二人が立ち上がり、拍手の中、微笑んだ。
少しして拍手が止み、オリヴァーが指揮棒を構える。自然と、出席者の注目が大広間の後方に集まった。
いよいよ、曲のお披露目だ。
トランペットのファンファーレを皮切りに、ヴァイオリンとピアノが重なる。厳かに、それから朗らかに。
天使が跳ねるような軽快な旋律。トランペット、トロンボーン。
音が連なり、華やかに進むにつれて出席者の表情が綻ぶ。
大雨のガゼボで閃いた旋律をフルートが独奏する。生き生きとした流れに、音楽に合わせて体を揺らす人も。
オリヴァーの背中からも、指揮を楽しんでいることが分かった。表情は見えないが、きっと微笑んでいるはずだ。
自分が作った曲を好きな人が指揮するなんて、結婚以上の共同作業ではないか。最高である。
しばらくうっとりと聴き惚れていたアイリーンは、ふと、会場の袖にいる人物に気付いた。
楽団が演奏している大広間後方は舞台のような作りで、両側の袖から裏の控室に入れるようになっている。
その袖に隠れるように、誰かいる。
「……ん?」
影になっていてよく見えないが、目を凝らすとドレス姿の女性だ。しかも見覚えのある人物。
ゴシップ誌で見た、商家の令嬢である。
「フィーネ嬢……?」
なぜ彼女がここにいるのだろう。彼女はいわば振られた側。今夜は招待されていないはず。
嫌な予感がして、アイリーンはそっと席を立った。近い出口から抜け出し、大広間の裏を足早にぐるりと回る。
演奏は続いている。もうじき一番の盛り上がり部分だ。
控室に入ると、フィーネ嬢はまだ舞台袖から楽団を見ていた。その背中は緊張しているようにぴんと伸びている。
「あの、すみません」
アイリーンが小さく声をかけると、フィーネ嬢は「きゃっ」と驚いて飛び上がった。慌てて彼女の口を塞ぐ。
「しーっ! まだ演奏中です」
「な、なんなの、誰よあなた! 邪魔しないで!」
「楽団員です。フィーネ嬢、いったい何を?」
アイリーンの問いに、フィーネ嬢がぎゅっと唇を噛む。迷ったように視線を彷徨わせてから、小さく呟いた。
「……あの男の悪行を暴露するだけよ」
「はっ!?」
「知ってるでしょう、あの二股クソ殿下、私に結婚を仄めかしておいて結局捨てたのよ、許せない。楽団には迷惑かけないから放っておいて」
「えええ」
迷惑である。
最高の曲の締めくくりをスキャンダル暴露により台無しにするつもりか。困る。
曲はすでに最後の盛り上がりを迎えている。じきに終焉。最後にシンバルが鳴って終いだ。
フィーネ嬢は観客の拍手とともに舞台に躍り出て、注目を浴びた状態で王弟の素行不良を暴露するつもりらしい。
ゴシップ誌のネタとしては最高かもしれないが、自分とオリヴァー、そして楽団員が作り上げた曲をぶち壊されるわけにはいかない。
「困ります! フィーネ嬢、落ち着いてください。そんなことしても解決になりませんよ!」
「望んでるのは解決じゃなくてあの男の破滅よ!」
なんたる過激派。
相手もろとも自分も堕ちようとしている。
その心意気、他人事であれば嫌いではないが、楽団を巻き込むのは勘弁してほしい。
「ダメです、帰ってください!」
「嫌!」
二人は舞台袖で揉み合いになった。
フィーネ嬢を控室に引っ張り込もうとするアイリーンと、それを拒絶するフィーネ嬢。
トランペットがフィナーレに向かって情熱的な旋律を奏でる。
「やめてください!」
「離して!」
シンバルが鳴った。
一拍置いて、万雷の拍手。
「あっ!」
二人は、つんのめった拍子に転がるように舞台に出た。
大きな拍手の中、二人の女性が突然楽団前に現れ、その場が「おや……?」とおかしな空気感に包まれた。
アイリーンが顔を上げると、驚いた顔をしたオリヴァーと目が合った。まだ指揮棒を持ったままだ。
「え、えーと……」
何かが始まるのかと、拍手が止む。
しかし中には女性の一人がフィーネ嬢であることに気付いたようで、好奇の視線と「ねえ、あれ……」というひそひそ声。
遠く離れた主テーブルの王弟も気付いたようだ。焦った顔をして、椅子から腰を浮かしかけている。
多数の視線を浴び、フィーネ嬢がキリッと顔を上げて会場を見渡した。
いけない、彼女の独壇場になってしまう。
フィーネ嬢に気付いてしまった出席者もいるのだ。何とかこの場を穏便に収めて退出しなければ。
「わたくしは、痛っ!」
「皆さま!」
アイリーンはフィーネ嬢が口を開きかけた瞬間、彼女の足を思い切り踏んづけた。
それから、全体に向けて大声を張った。
「王家の皆さま、おめでとうございます! 今夜、この素晴らしい慶事に立ち会うことが出来て光栄です!」
会場の注目が、アイリーンに集まる。
「そこで、ご結婚されるお二人にお祝いの気持ちを込めて、歌わせて頂きます!」
「は、はあ!?」
足にダメージを負って蹲っていたフィーネ嬢が目を剥いた。
会場がざわつく。アイリーンは彼女を立ち上がらせ、耳元に顔を寄せた。
「歌えますよね、『幸福への祈り』!」
「う、歌って、何故そんな」
『幸福への祈り』は結婚式で使われる聖歌だ。
教会で聖歌隊だけでなく参列者も歌う、誰もが知っている曲である。
オリヴァーはフィーネ嬢のレッスンに行ったことがあり、彼女は歌が上手だと言っていた。間違いなく歌えるはずだ。
「オリヴァーさん! 『幸福への祈り』お願いします!」
オリヴァーは二人のやり取りを見て修羅場寸前の現状を理解したのだろう。
アイリーンの合図ににやりと笑い、指揮棒を構えた。聖歌なので、当然楽団はそらで演奏出来る。
伴奏が始まる。
その合間に、アイリーンはフィーネ嬢に言った。
「ここまで来たら、『クソ男を捨てて清々した女』になった方がいいですよ! 見てください、あの顔! すでに破滅みたいなものじゃないですか」
周りの王たちに冷ややかな目で見られ、王弟はわたわたと言い訳をしているようだった。大方、フィーネ嬢とは後腐れなく別れたと説明していたのだろう。
振られたはずの令嬢が未練を感じさせず、公然の前で祝福を歌う。
皮肉と取るか、きっぱり想いを捨てたのだろうと取るか。
いずれにしてもゴシップ誌は喜んで書くだろうし、フィーネ嬢のマイナスにはならないはずだ。
フィーネ嬢は一瞬呆けたような顔をしてから、ふっと笑った。
「そうね」
二人は聖歌を歌い上げ、困惑を含む拍手の中、堂々と退出した。
♦︎
場所を変え、大広間。
晩餐を終えた出席者たちはダンスを楽しんでいた。楽団も移動し、今はゆっくりとワルツを弾いている。
歌の披露を終え、フィーネ嬢はすっきりした顔で帰った。
それを見送り、アイリーンは大広間から繋がるテラスからぼんやりと外を眺めていた。
「お疲れ」
「オリヴァーさん!」
ここにいるはずのない人に突然声をかけられ、アイリーンは飛び上がった。
「えっ、あれ? 指揮は!?」
「それが前楽団長がやって来て。代わってもらった」
「いいんですか?」
「まあたまには。歌姫を労おうと思って」
泡が踊るグラスを差し出され、顔をしかめながら受け取る。
「面白い出し物だったでしょう?」
「ああ、うちの作曲家は良い声をしている」
「元聖歌隊だったもので」
オリヴァーはテラスの手すりに肘をついて外を向くアイリーンの隣に並んだ。
「ゴシップ誌のネタにはなるだろうが、大事にならずよかったよ。お手柄だ、アイリーン」
「どうも」
演奏が台無しになるのもそうだが、もしあのままフィーネ嬢が王弟の素行を暴露して修羅場になっていたら、フィーネ嬢の実家の商会だってただではすまなかっただろう。
「お手柄のご褒美に、どこか行くか?」
「えっ!?」
勢いよく隣に顔を向けると、オリヴァーがにっこりと微笑んでいた。
ご褒美、まさしく、それはデートということなのだろうか? 仕事がうまくいったので二人だけで過ごそうと? なんて素晴らしい誘いだ。
アイリーンはもじもじしながら口を開いた。
「え、えっと……、でしたらこの間出来た料理店はどうですか? ワインが美味しくて、ピアノ演奏があったり歌を聴きながら食事が出来るそうです」
「おっ、それはいいな。全員入るかな?」
「えっ」
固まった。
「20人と前楽団長も入れて……、来週なら時間が取れるな。そうだ、飛び入りの演奏や歌は出来るんだろうか? 出来るならアイリーン、また歌ってくれよ」
「ははははは……」
そうだ、こういう男だった。
人の気持ちにちっとも気付いちゃいない。
言葉の裏にある意味にニブすぎる。きっと直接的な言葉でないと通じないのだ。
だが、アイリーンは今オリヴァーが言ったことを思い出した。
──アイリーン、また歌ってくれよ。
閃いた、その手があった。
遠回しな表現が通じない相手なのだ。明確に告げなければ、伝わらない。
それに自分は作曲家だ。曲が書ける。
飛び入りで舞台に出て、彼のための曲を彼のために歌う。さすがにオリヴァーだって気付くだろう。
そうだ、そうしよう。
「お店予約しておきますね。私は忙しくなってきたのでこれで!」
「えっ、アイリーン?」
のんびりしてはいられない。
アイリーンはさっさとグラスをオリヴァーに突き返し、踵を返してテラスを出た。
締め切りは来週。すぐに帰って書かなくては。駆け足で作曲室へ向かう。
仕事や人のためではなく、自分の恋を成就させるために書くのだ。
「書くぞお!」
とびっきりの愛の歌で、彼はどんな顔をするだろう?
《 おしまい 》