中編
一日目、放置。
二日目、ぼんやりと楽団の練習を見学する。
三日目、ピアノの前に座ってみる。流し弾きをする。思いつかない。
────四日目。
「いやいやいや! 無理!!」
この三日、あっという間に時間が過ぎてしまった。当然ながら欠片も書けていない。
しかし作曲室に引きこもっていると死にたくなってくるので、アイリーンは楽団の練習室に入り浸っていた。
「アイリーンさん、大丈夫なんですか? 締切明日ですよね」
「大丈夫に見えます? 見えないでしょう? 大丈夫じゃないんですよ!!」
「逆ギレ……」
呆れた様子で楽団員が離れていく。
いけない。焦りとイラつきを周囲にぶつけるなど。アイリーンは呻いた。
しかし情緒不安定のアイリーンは割といつものことなので、楽団員たちも扱いに慣れている。
トランペット奏者の一人がアイリーンに近寄り、新聞を差し出した。
「アイリーンさん、曲に行き詰まっているなら、もう少し対象のことを知ってみるのはどうですか?」
「対象?」
「今回のラブストーリーがまとめられてますよ」
受け取ったのは大手出版社のゴシップ紙『スキャンダル』。一面を割かれ、今回の騒動が挿絵と共に詳しく記載されている。
「恋多き王子の最後の恋……」
『スキャンダル』によると、王家は王弟と元侯爵夫人の結婚をおおむね前向きに受け入れているという。
実は、王族が離婚経験者と婚姻を結んだことは過去にない。今回が初めてのことである。
奔放だった王弟がようやく結婚する気になったのだ。相手がどうあれ、王家としてはやれやれという気持ちなのかもしれない。
恋のさや当てを繰り広げていた商家の娘の挿絵もある。
美貌の令嬢との噂だが、確かに描かれた姿絵は美しい。むしろ主役よりもキラキラしている。
彼女は振られた側なのに、ヒロイン感強く描かれているのは何故なのか。
「フィーナ嬢か。レッスンに行ったことがあるぞ」
「あっ、オリヴァーさん」
いつの間にかオリヴァーが後ろに立っていて、紙面を覗き込んでいた。
「シューハイム商会の娘さんですよね?」
「ああ、フィーナ嬢。こっちが本命かと思われてたけどなあ。確かに美しくて、歌も上手いぞ」
「へえ」
宮廷楽団員は貴族や有力な家の令嬢、令息に音楽のレッスンに行くことも仕事の一つだ。
それはピアノやヴァイオリンといった楽器や、歌のこともある。上流階級の人たちの嗜みの一つなのだ。
オリヴァーは音楽関係に関して世辞は言わない。つまり、フィーナ嬢の歌が上手というのは事実なのだろう。
しかし美しく教養があっても振られてしまうのだから、人生分からないものである。
そのままアイリーンがぼんやりと紙面をめくっていると、オリヴァーに肩をがしりと掴まれた。
「ところでアイリーン、進捗は?」
「…………」
「進捗は?」
「…………」
無視を決め込んでいると、はぁ、とため息をついたオリヴァーから「散歩だ、散歩」と首根っこを掴まれ、アイリーンは引きずられるように部屋を出た。
♦
外は曇り空。
今のアイリーンの気持ちを表しているようである。そもそも締め切りが五日など、土台無理な話だったのだ。横暴過ぎる。
隣を歩くオリヴァーをジト目で見上げると、気楽な表情で「なんだ?」と返された。
恨めしい。信頼されていることは嬉しいが、毎度キリキリと胃が痛むこちらの身にもなってほしい。
「少し冷え込んできたな、寒くないか?」
「大丈夫です、むしろ頭の中は煮詰まって沸騰しそうです」
「ははは」
二人が散歩しているのは宮廷内にある庭園だった。
木々がさわさわと揺れ、池からは魚が跳ねるような水音。
アイリーンはヒントになりそうな音を探して耳を澄ましているが、何も思いつかない。
「今度こそ無理ですよ。戻ったら過去の楽曲を引っ張り出します。結婚関係の曲は手がけたことありませんが、お祝いの曲は色々作ってきましたし、適した曲から組み合わせます」
「結婚発表の曲って作ったことなかったか?」
「ないんですよねぇ……」
深く悩んでいるのには、実はそこにも大きな理由があった。
アイリーンは元々、教会の聖歌隊の出身だ。そこで作曲していたところ前宮廷楽長にスカウトされたのは前述の通り。
しかし聖歌隊にいた頃も、結婚式に関わる曲は作ったことが無かった。
なぜかというと、結婚式やそれに付随する儀式の曲は多くは定番のもので決まっているためである。
『幸福への祈り』、『天使の祝福』や『輝かしい未来への讃歌』。
古くから伝えられてきた曲があり、アイリーンは結婚の曲に憧れはあったものの、新しく曲を作る必要性や要望は無かったのだ。
また、冠婚葬祭に求められるのは伝統であり、参列した誰もが聴き慣れ親しんだ曲を使うことで、皆が結婚という儀式を意識し、感動することが出来る。
よって、アイリーンは今回のような結婚発表の場といえど、気楽に曲を作ることにためらいがあった。
宮廷楽団は新鮮な曲を求められるが、結婚という伝統を重んじる行事とは方向性が逆なのだ。
そのようなことをアイリーンがつらつらと説明すると、オリヴァーは首を捻った。
「なるほどな、結婚式は確かに決まった曲が多いが……、あ、そうだ」
「?」
「例えば、俺とアイリーンが結婚するとする」
「…………は!?」
突然爆弾を投下され、アイリーンは絶句した。
「俺たちが結婚するとなると、皆が祝ってくれるだろう。確かに定番の曲は弾きたいし聴きたいが、新しい曲もやはり欲しいな。明るい曲がいい。それで」
「ちょちょちょ、え、待ってください、は!?」
一体何を言っているのだろう、この男は。
こちらの気持ちを知っての発言なのだろうか、いやきっと違う。少しでも意識していたらこんな不用意な発言はしないはずだ。
うわ、それはそれで切ない。なんたる音楽バカ。
人をまとめる立場なのだから、もう少し仕事相手の気持ちに注意を払って欲しい。
致命的なデリカシーの無さではないか。
しかし、こんな音楽バカで熱意があって、なのに朗らかだから好きになったということもあるし──
「あ、雨だ」
「えっ」
アイリーンが混乱しているとオリヴァーが空を仰いで呟いた。つられて空を見ると、アイリーンの頬にもぽつりと雫が落ちた。
そして突然、大雨が降ってきた。
「わ! 急に降ってきた!」
「こっちだアイリーン、走れ!」
慌てて二人で庭園の真ん中にあるガゼボに駆け込む。
「ま、すぐ止むだろう」
「そうですね……」
突然の夕立に、二人ともびしょびしょになってしまった。ずぶ濡れだ。
腰にぶら下げたポーチからハンカチを出して頭から拭く。オリヴァーも同様に上着からハンカチを取り出していた。
しばらくは雨宿りだ。
雨は強く降り続けている。ガゼボの屋根に叩きつけられる雨音と、池に降る水音が混じる。
ざあざあ、どしゃどしゃ、じゃぶじゃぶ。
それらの音にオリヴァーの声が被さってきた。
「俺が言いたかったのはな、あまり気負わなくてもいいんじゃないかということだ」
「?」
「式典曲は確かに定番で構成されることが多い。けれど、伝統も文化も変わっていくものだ。いずれ、宗教だって変わるかもしれない」
「はあ……」
「だから、好きな曲を作っていい。むしろアイリーン、君が新しい伝統を作ってやれ」
さーさー、ちゃぷちゃぷ、ぴちゃぴちゃ。
「私の曲」
「ああ、作曲家が死んでも曲は残るだろう? 君が作った曲がいずれ結婚式の曲として定番になるかもしれないぞ」
ぽつぽつ、しとしと。
ピピピと、鳥が鳴いた。雨雲が過ぎていく。
自分の作った曲が引き継がれる。いつか、伝統になる。
ぴちょん。
それってすごいことだ。後世に名前が残るよりも、遥かに。
ガゼボの屋根から、溜まった水がさーっと流れた。
もし、自分がこの人と結婚するとしたらどんな曲を?
見上げたら、目が合った。
黒髪から雫が落ちる。
音は聴こえなかった。
「……書けるかもしれません」
「おお、さすがだ」
気が急いて手が滑りながらも、アイリーンはポーチの中から携帯ペンと紙を取り出した。早く書かなければ。
だが、ポーチの中まで雨が染みていて、紙はふやけてしまっていた。
手の上に紙を乗せて、そこにいつも通りペンを走らせようとしたが、紙は無残にもペン先を当てた部分から破れた。
「やだ、書けない!」
慌てて他に書けそうなものがないか探す。
紙は無理。辺りはびしょびしょ。しかし、アイリーンの視線は隣のオリヴァーで止まった。
「ん、なんだ?」
「ちょっとすみません」
「え、な、なんだ!?」
オリヴァーが狼狽えるのに構わず、彼の腕を取り、服の袖をぐいとまくる。筋肉質な腕がむき出しになった。
そこに遠慮なく、ペンを立てる。
「えっ、おい、アイリーン! まさか俺の腕に書くつもりか!?」
「他に書けるものがないんですよ!」
「や、やめ、くすぐったい!」
「じっとしててください!」
書き始めたら、オリヴァーは静かになった。
アイリーンは頭に浮かんだメロディを一心不乱に彼の腕に書きこんだ。
重要な部分だけでいい。足りない部分は清書するときに思いつくことが出来るだろう。
書け、書け、頭から過ぎ去らないうちに。
しばらく無言で書き続けて、オリヴァーの両腕がぐるりと楽譜で埋められたところでアイリーンは息をついた。
「ふう、ありがとうございました」
「お疲れ……」
オリヴァーが顔をしかめて自らの腕を眺めた。
あたかも腕に呪術を施されたようになってしまっている。書かれているのは結婚発表用の幸せな曲なのだが。
「……このまま戻らないといけないわけだな?」
「そうですね、擦らないように気を付けてください」
「人形になった気分だ」
「あー、だから色々とニブいわけですね」
「え?」
「なんでもありません」
雨は止んだ。
機械仕掛けの人形のようになってしまったオリヴァーの隣に、アイリーンは上機嫌で並んだ。