05.初恋(ルイス視点)
ルイス・ヴィクターの初恋は10歳の頃に母に連れてこられたオペラで出会った女の子だ。
母はオペラや演劇、美術展など、芸術と名の元にあるものすべてを愛している。
10歳になった頃、母は俺にも芸術を愛してほしいのか、熱心に俺を連れまわした。とはいえ、幼い俺には小難しい話は分からず、感情に訴えかけるような演目は理解不能だった。
そしてあの日も俺は悲劇が演目だというオペラに連れだされていた。
ぼんやりと眺めているだけの俺の隣で、母はうっとりと魅入るようにオペラを見ている。
母にとっては極上の時間でも、俺にとっては退屈な時間でしかない。
欠伸をこらえるのに必死になりながらも、浮かんでいた涙をみて母は感動の涙と誤解したのか感激していた。
わざわざ母の機嫌を損ねる意味もなく、俺はただ黙っていると、ぐずぐずと泣いている若草色の髪の少女が目に入った。
「じゃあわたくしはご挨拶に行ってくるわね。おとなしく待ってられる?」
ついていったところで、感想を聞かれても困る俺はこくりと頷くと、母はオペラへ招待してくれたという主催の元に挨拶へと向かう。
残された俺は先ほどの泣いている少女が目に入って、そんなによかっただろうかと首を傾げてしまった。
周りを見ても泣いている子供など少女くらいなものだ。
あまりにも泣き止む様子のない少女に、どこが良かったのかを知りたくて、少女へと近づく。
「そんなに面白かったのか?」
ポケットから出したハンカチを差し出して話しかけても、少女は聞こえていないのか泣いているばかりだ。
無視されているようで、むっとした俺は声量を上げて再度声をかける。
「おい。要らないのか」
少女の後ろには両親と思われる男女が立っているが、特に止められる様子はない。
声量を上げたからか、少女はやっと気づいたのか、顔を上げた。
ガラス玉のような赤い瞳が涙で濡れて輝いている。綺麗な瞳に吸い込まれるように、俺は息を飲んだ。
何度も俺とハンカチを見ていた少女に、受け取りを催促するようにハンカチを突き出した。ゆっくりと手が伸ばされれば、ハンカチを押し付ける。
「ありがとう」
「お前は泣き虫なのか?」
「違うもん。すごくよかったんだもん」
堰を切ったようにどれだけ素晴らしかったかを話し始めた少女。
その内容はすべてが曖昧で、何が良かったのかさっぱり伝わってこなかった。
けれど、熱心に話す赤い瞳は輝きに満ちていて、俺は先ほど退屈だったオペラをもう一度見て見たいと思った。
その時、隣に少女がいれば、どんなに素敵なことだろうか。
「そんなに楽しかったのだね。よかったね。ルティリア」
「うん!」
少女の後ろにいた男が声をかけたことにより、少女の感想が止まる。もっと聞いていたかったが、せがむことなど恥ずかしくてできるわけもない。
「でもそろそろ行こうね。君も、親御さんが心配しているよ」
「あ、はい。じゃあまたな」
「うん、またね!」
また会いたくて思わずそう言えば、少女が大きく手を振って応えてくれた。
どうしたらまた会えるかとそればかりを考えている俺は、きっとこの時にルティリアを好きになったのだろう。
「マセガキが」
風が運んできたその呟きはナイフのように鋭く俺の鼓膜に刺さった。
気のせいかと思った俺はちらりと振り返ると、男の濁った瞳と一瞬だけ目が合う。ガラス玉のような瞳の少女の父とは思えないほどに、その瞳は冷たく底冷えしていた。
近くに寄っていた母が俺の肩をぽんと叩くまで、恐ろしいものを見たようなぞわりとした感覚が体に走っていた。
「お母様。ルティリアという娘がいる家をご存じですか?」
「あら、もしかしてルインの傍にいた女の子かしら。とすればホルン男爵家ね」
話していたのを見ていたのか、母は少し悩んだ後に、すぐに名前を出した。
貴族名鑑を頭に叩き込んでいる母は、男の顔から名前を引っ張り出したのだろうさすが筆頭公爵家夫人だ。
「ホルン男爵家……ねぇ……」
うーん、と悩むように眉間にしわを寄せている母の顔を俺はじぃと見つめる。
見つめられていることに母が気づかないはずもなく、頬に手を開けて困ったように息を吐いた。
「あまりいい噂を聞かないの」
「それはどういう……」
「お父様と相談しますね」
にこりと笑った母には、これ以上何を聞いても無駄だとため息を吐く。
その日の夜。
父に呼ばれた俺は父の仕事部屋を訪れていた。本棚にファイルと本を詰め込んだ部屋は厳格な空気に包まれていて、思わず背筋が伸びる。
「ホルン男爵家のご令嬢が気になるというのは本当かい?」
「きっ!気になるというわけでは……」
気になる、ということが惚れたということを指しているのだと俺でもわかり、思わず言葉を詰まらせる。素直にはいと言うには気恥ずかしさを感じた。もごもごと口を動かす俺を父は顔を緩ませて見つめている。
「ただ、あの家はあまりよくない事業を手掛けている上に、爵位は男爵だ」
「よくない事業、ですか」
「うーん、潰しちゃってもいいんだけど」
机の上で指先を使いトントンと音を鳴らす父は勿体ぶる口調だ。
筆頭公爵家の力を使えば男爵家の事業を潰すことなど容易いことだろう。そもそも家自体を潰すことだってきっと簡単なことだ。
けれど、気軽に使っていいことではないのは、子供の俺にもわかることなのだ。
「俺は、ルティリアが好きです」
「そうかい」
今度はちゃんと認めて、父に伝える。顔を上げて父と目を合わせれば、父は嬉しそうに目を細めていた。
父と母は恋愛結婚だというのは有名な話で、幸いなことに両親は好きになった子なら誰でもいいと昔から言っていたものだ。
一度だけ、貴族として家のための結婚はしなくていいのかと聞いたことがあるが、母は目を細めて「うちはそんなことでは揺らがないもの」と言って笑っていた。
俺は苦笑いするばかりだった。
「けど、条件がある。きちんと彼女に告白して受け入れてもらうんだ。ルイスだけが好きなのは意味がないからね」
「はい」
「あの男爵は少々歪んでいるからね」
あの男の底冷えするような冷たい瞳を思い出してぞわりと背中に冷や水をかけられた気になる。頭にはあの瞳が残り続けた。
子供の俺は、両親からの愛は純粋なものであると信じており、ルティリアへの歪んだ愛なんてあるとは思いもしなかった。
やっと溺愛が始まります。
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