02.初恋
何歳だったかももう覚えていない。
けれど、母に連れて行ってもらった劇団のオペラは光り輝いて見えた。
内容は当時の私には難しく、それが喜劇だったのか悲劇だったのかさえわからなかった。けれど、体に沁み込んでくる歌声に、瞳からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
オペラが終わった後も泣き止むことができず、会場の庭園で私は泣き続けていた。
「おい。要らないのか」
ぶっきらぼうな声に視線を上げれば、小さな少年がハンカチを差し出していた。何度も少年とハンカチを交互に見る私に、少年が急かすようにハンカチを突き出してくる。
早く受け取れと言いたかったのだろう。
「ありがとう」
「お前は泣き虫だな」
「違うもん。すごくよかったんだもん」
手をそっと出せば、押し付けるように再度ハンカチを突き出されて、私は再度少年の顔を見た。
美しい銀の髪に、純粋な青い瞳の男の子は、先ほどみたオペラよりも光り輝いていて、魅入ってしまった。
揶揄うように笑う少年に、むきになった私は、ハンカチを握りしめる程に手を強く握って、どんなに胸打たれたかを語って聞かせた。
内容を理解できていない頭では、擬音ばかりの的を射ないものばかりだったが、少年は私の勢いに押されながらも耳を傾けてくれる。
「そんなに楽しかったのだね。よかったね。ルティリア」
「うん!」
「でもそろそろ行こうね。君も、親御さんが心配しているよ」
「あ、はい。じゃあまたな」
「うん、またね!」
私だけが喋っていたような時間だったのに、また、と言ってくれた少年が嬉しくて、私は腕が千切れそうになるくらいに手を振った。
愛想のいい外面の父もにこにことしていたが、少年の言葉に眉がぴくりと動いていたのを私は知らなかった。
「マセガキが」
笑顔のまま父の呟いた冷たい悪意の言葉を当時は理解できなかったが、今思えば、既に母よりの顔つきだった私を、父は手放す未来はなかったのだろう。
母が父から離れられない楔としてではなく、母に何かあった時の代用品として私を見ていたのだと、今ならわかる。わかりたくもないが。
父の意に反して、私は少年に一目惚れしたのだった。
学園に入学して、少年の面影をルイス様に見たとき、私は心が早鐘を打つのを感じた。
再会できるとは思っていなかった私は、舞い上がった気持ちだった。同時に、父の偏執を感じ取り始めていた私は、顔から好きになったということに打ちひしがれていた。
私には父の血が流れているのだと思うと、身も心も汚いものに思えてしまった。
幸いにもルイス様は筆頭公爵家の長男という高嶺の花であることを知った。
私がどれだけ手を伸ばそうとも許されない身分差だ。
普通なら嘆き悲しむのだろうが、私が化け物にならずにいられるという安堵の方が強かった。
母からも好きな人と幸せになってと言われたはずなのに、私は好きな人を不幸にする化け物になってしまうのではないかと不安があったが、ルイス様と私の間に立つ壁は大きい。
踊り子であったが故に手が届いてしまった父とは違うのだ。
そっと鞄に入れたままのあの時のハンカチは、母の思い出と共に私を支えてくれる希望だ。
恋心に蓋をして、希望だけを胸に生き、将来は世界を旅すると決めたのだ。
それなのに。
「そっかぁ。1か月後かぁ」
放課後の教室は誰もおらず、私は1人ぽつんと宙を眺めていた。
屋敷に帰っても楽しいことなどちっともなく、むしろ放課後の教室は静寂に包まれた私の楽園だ。
1か月前に戻っている、というのは勘違いなのではないかと思ったが、授業の合間合間に先生がする世間話やちょっとした小話、質問をあてられた生徒など、記憶と一致している事ばかりで、勘違いとは思えなくなってしまった。
このまま1か月後を迎えて、私を待っているのは「転落死」か「化け物の捕食」である。2択しかないのであれば「転落死」を選びたいほどにバッドエンドしかない。
神様を信じたことはないが、神様を呪いたくなった。
というか、死に戻りなど神の悪戯としか思えない。
「あ、でも」
私は1つの天啓を得た。
私に残された道は1か月後に転落死する、ということだけだ。つまり、1か月後以上の未来など存在しないのである。
どうせ死ぬのであれば、ルイス様にこの思いを告げるだけ告げてもいいのではないか。父と同じ汚いものがこの身に宿っていたとしても、1カ月後には死ぬのだから。
蓋を開けて恋心と向き合ってもいいのではないか。
儚く散るだけの恋心など抱えていても仕方ないのだから、散らしてしまえばいいじゃないか。
――どうせ1カ月後に私は死ぬのだから。
それは私を幸せにしてくれる言葉の気がした。
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