頭痛は安眠の敵1
後宮なんて、来るつもりはなかった。
「菫花!」
聞きなれた声に顔をあげれば、目鼻立ちのくっきりした背の高い美女が、満面の笑みで抱きついてくる。
「・・洗濯中です。濡れますよ。梅姫様。」
無表情に返しているのに、美女、梅姫は、笑みを深める。
「そんなのいいから、いらっしゃい。珍しいお菓子があるの。お部屋でおしゃべりしましょう。」
(バカなんですか、こっちは仕事中なんですけど?)
洗濯が終われば、当然干す作業があって、干している間に庭の掃き掃除だ。
それが終わったら、食事の煮炊きの当番があり、賄い飯を作らなければならない。
(忙しいっていうのに、こいつときたら・・。)
「拒否権はないよ?」
顔をぐっと近づけて、梅姫は菫花の耳元でささやく。
「さあ、行きましょう?鈴花、後を頼めるかしら?」
梅姫から微笑まれた同僚の鈴花は、魂を抜かれたような呆けた顔でこくこくと頷く。
分かってはいる。
菫花は、梅姫の誘いを断れない。
(鈴花、ごめん!)
こうなったら、菫花にできるのは、梅姫の『用事』をさっさと済ませて、仕事を余分にするはめになった鈴花への埋め合わせに菓子の一つでもちょろまかして戻ることしかない。
「分かりました。さあ、早く参りましょう!」
決めたら切り替えは早い。
濡れた手を前掛けでふき、菫花は梅姫を促す。
梅姫は嬉しそうに菫花の手をとり、すたすたと館に向かう。
心得たお付きの女官達が黙ってあとに続く。
相変わらず影のような女官達。
その本職を知るのは、ここにいる中では梅姫と菫花だけだ。
(あとは、帝か。)
とりとめもなくそんなことを考えているうちに、館につき、門をくぐる。
華国の後宮には、数多の美姫たちが集う。
彼女たちは、皆、帝の寵姫になることを目指し、ここに入るわけだが、身分の差ははっきりとあり、館を与えられるのは、ほんの一握り。
五つしかない館には、地位の著しく高いもの、もしくは寵愛の著しく深いもの、に限り入館を許される。
他のもの達は四つの共同の館に割り振られ、部屋が与えられる。
そこも大きな豪奢な部屋から、寝床を確保するだけの小部屋まで様々。
後宮内でのしあがると、部屋が入れ替わる。
そのため、プライドの高い高貴な姫達は、表に裏に熾烈に帝の寵を競う。
魔の巣窟。
愛欲のカオス。
だが、見た目は、一年中良い香りに満たされ、美しく調度品がしつらえられ、華やかな美女達が微笑む桃源郷。
それが後宮だ。
その館の奥で。
「さあ、お召し物を脱いでください。」
菫花に急かすように言われて、梅姫は顔を赤らめる。
「やだ、そんな、菫花、積極的な。」
百合の花が咲き乱れそうな梅姫の恥じらいを、菫花は一蹴して、
「ほら、早く。」
と手を伸ばす。
梅姫はふっといじわるな笑みを浮かべて、その手を掴むと、そのままに、寝台に倒れこむ。
はからずも梅姫に押し倒された形の菫花だが、その顔に動揺はない。
梅姫はそのまま、するりと帯をとき、着物がはらりと脱げ落ちた。
たくましい体躯。
(いつ見ても理想的な肉のつきかたよね。)
その身体は、鍛え上げられた武官のもの。
女の身体ではない。
「ふざけてないで、始めますよ。」
菫花がそう促しても笑みを崩さない梅姫だったが、ふいにその顔が歪み、そのままがくりと菫花の方に倒れ混む。
間一髪菫花はすり抜けて、代わりに梅姫の背に跨がった。
「っく!頼む!!」
そう悔しげに言う梅姫の背に、菫花は右と左の手の親指を立て、真っ直ぐに力を込める。
パキ、パキ、という微かな音と手応え。
時折聞こえる
「うう!」とか「うぐ!」
という、くぐもったこえ。
それが一通り終わる頃。
梅姫は健やかな寝息を立て始めた。
「まったく、またこんなになるまでほっておいて。」
穏やかな顔で眠る梅姫を起こさないよう寝台から降りると、菫花は脱げ落ちた着物を布団がわりにそっとかけてやった。
菫花、十七歳。
訳あって梅姫を名乗るこの『男』に連れてこられ、下働きの侍女として働き始め、一年になる。
(あの時、仏心を出しさえしなければ・・。)
何度悔やもうと、時間は前に進むことを強制する。
「お疲れさま、菫花。」
そう声をかけてくる女官頭を一瞥して、しょうがないので軽く頭を下げる。
小一時間の労働。対価をくれるのは、彼女なのだ。
「はい、これ、良かったら食べてちょうだい。」
そう言って彼女が差し出したのは、茶菓子が一つと、金平糖が2袋。
金平糖は、鈴花の好物だ。
(むかつくくらいに気が利くのよね。)
「ありがとうございます。」
ぶっきらぼうに、だけどきっちり礼を言って受け取る。
「・・肩甲骨周りと首の後ろ側を出来るだけ動かすことと、次はもう少し早めに声をかけるようお伝えください。」
一応言っておく。
女官頭は、困ったようにほほに手を当てて微笑んだ。
「ええ。お伝えしておくわ。」
(まあ、無駄だろうけど。)
次に呼ばれるのも、きっとぎりぎりだろう。
一年付き合わされれば分かる。
奴は、そういう男だ。
(まったく、いつまで続くんだろう?)
館を出て歩きながら、菫花は深いため息をついた。
後宮なんて、来たくなかったのに。