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悠久なるインガナルの誘い

 市場には男の姿が多く見られる。この国では買い物は男の仕事なので不思議ではない。女性のサリーを見立てる男性を目にするのも当たり前の光景だ。

 彼らがもたらす雑多で喧騒感に満ちた活気は、どこの藩国でも似たり寄ったりだ。時に独特の風土に彩られたこの国民性は、絡んでくるような粘性ある執拗さと厚かましいほどの無遠慮さ加減が特徴で、遠い異国の旅人たちからしてみれば、鬱陶しく感じられることも少なく無かろう。好感を持つか、そうでないか両極端に分かれると言うのも納得だ。

「よお、そこの兄ちゃん、安くしておくよ。どうだい? あんただよ、男前。ほら、白いクルタを着た、小粋なターバンの。あんた、ここの人じゃないだろう。旅行かい?」

 初め自分に声が掛けられているとは、気が付かなかった。あまりに無遠慮な口調なので、別の人と会話でもしているのかと思ったからだ。

 思わずきょとんとした顔で振り返ってしまった。人通りに紛れた小さな露店に色の黒い半裸の老人がニタニタ笑いながら、こちらを向いていた。そして、手に持った何かを振り回しながら畳み掛けるように話し続ける。

「そのクルタにこのベストはとても合っているじゃないか。30ピルパに負けておくよ。さあ、持ってけ持ってけ。若いもんが遠慮するんじゃない。何じゃ何じゃ、その気の抜けたような顔は、暑さにでもやられたのか?」

 苦笑を残したニキルは颯爽とした足取りで、人ごみを縫って行く。老人の追いすがる様な掛け声は、すぐさま賑わいに埋もれた。

 ニキルは鍛錬と用心を欠かさなかった。スリの手を払うのも三回は数えた。しかし、そんなことの用心ではなく、付けられていないかという点に対してだ。雑踏にあっても不審な者を見分ける、感じ取る鍛錬は絶えず続けてきた。仮に相手が子供であっても、不意打ちされれば危険に陥る。獲物が小さな針でも毒が塗られていたら、それで終わりなのだ。

 城内では、何となく視線を時々感じて仕方が無かった。

 ラーガ“ダイバハル”を演奏して以来、奏者としての自分に明らかな視線を向ける者が多くなったのは事実だ。しかし、それだけではない別の探るような視線を感じたのもまた事実だった。それに気付いてニキルが視線を向けても、こちらを見る者はいないのである。

 やはり、藩王に気に入られたが為の監視である可能性が一番考えられた。シタール奏者として名が通っていても、所詮は放浪を好む一楽士に過ぎないのだから。

 特に政治情勢に追い討ちがかかっている、このご時世だ。あちらとしても当然、用心は欠かせないだろう。

 西方の大国ロンガルドからの政治的なちょっかいが増えていることもあり、ここ近年は各藩国の間でも緊張が高まりつつある。このナディル亜大陸のほとんどの藩国は大局を見ずに、自藩の目先を追うばかりだ。愚かな藩国の中には、漁夫の利どころかロンガルドと結託しようとするものまでいる。ロンガルドの戦略目的がどんなものかを冷静に見抜くことができれば、それには乗れまい。結託と言うより、隷下である。

 トゥルバン藩王は、差しさわりの無い外交を進めつつ、他藩国に反ロンガルドの重要性を内密裏に説いていた。遥か東方の遠国では、ロンガルドの植民地政策の的にされて、抜き差しなら無い状況に陥っている国があるという情報も耳に入ってくる。甘言を弄していても、その裏で何を考えているか分かったものではなかった。

 そんな反ロンガルドの首魁として目を付けられつつあるトゥルバンには、ロンガルドの間諜が商人に化けて、入り込んでいるとの噂もある。その筋のルートでは確かな情報らしい。ただ、対ロンガルドの情報は、まだ市井には伝わらない種類のものではある。

 そういう事情で、先進の軍備を擁し、合理的で手段を選ばぬロンガルドからも狙われていると考えていた方が良い。つまり、以前からの敵対関係にある藩国だけでなく、さらに厳しい相手と対峙していかなければならない状況へ押し流されているのである。

 ニキルは時折、メインの通りを折れて路地の店も見て回るように動いた。どちらかといえば、旅人より現地人向けの店舗や住居が多くなる。道も細くなり、入り組んでいて迷路のようなので、前後の通行人の確認はし易くなる。そのためでもあった。

 数年の放浪生活の中で、裏の世界も少しは知った。用心深さも、その中でさらに練られていった。そして、そうした世界の情報を仕入れるルートとのつながりもいくらかは作っている。そんな中で見知った顔を、入り組んだ裏路地で見かけたのは少なからず驚きだった。

 メイン通りから三回目に路地へ入って町の東西を走る少し大きな通りに出た時だった。日に焼けた怖い目つきをした頑強な顔立ちが印象の男で、背は高くないが、がっしりとした体躯の持ち主だ。何よりもその腰の置き方と無駄の無い足運び、そして絶えず即時対応可能な体幹バランスを保っている姿勢が、只者でないことを如実に物語っている。

 一瞬、こちらに目をやったが、表情に変化は無かった。面識は無く、以前こちらが顔を見ただけなので、向こうは知らないのだろう。こちらも相手の素性は全く分からない。

少し離れて、すれ違った後に視線を感じたが、無視した。少なくともトゥルバンの手の者ではあるまい。関わらない方が得策だ。

 さらに3回、大通りからの路地裏巡りを繰り返した。当然ながら入り組む路地裏先にある商店は少なく、喧騒の薄れた中で全般的に鄙びた感じが、ゆっくりとたゆたっている。

 そこを進むニキルに、自然と住民たちの視線が向けられる。「迷ったのか?」と声をかけてくる者もいた。確かに服装を見れば、地元の者ではないし、観光客はこんな所まで来ることも珍しい。城の者に付けられていたら、逆にこんな路地裏に入る者は怪しいと見られるかも知れない。ニキルは時折、声を掛けては世間話の中で、さらに市況を仕入れていた。どうやら藩同士の確執は知れていても、真の暗鬱たる政治情勢は、それほど衆庶まで届いていないようだ。彼らは、迫り来る足音に耳を澄ますこともできない。

 得たい情報を大まかながらも手に入れたニキルは、歩速を早めて人ごみの中を風のようにすり抜けていく。そんな中でもニキルのしなやかな動きは、優美さを失わず、流水に浮く木の葉の様に眼前を阻む人々を軽やかにかわし続け、賑う市場の密集度に関わらず他の人にかすりもしなかった。

 ニキルの研ぎ澄まされた感覚は、人の発する臭いや温度が彼の体表を滑るように触れるのを逐一感じ取っていく。それと共に過ぎ行く周りの人々や光景が色彩を帯びた流れとなって、全ての生活音はうねりを持ち始め、過度な音階は丸みを帯び、意思を持って調和に向かおうとする。

 そうして彼だけの世界が構築されていく。この時の彼には呼びかけに反応しにくくなってしまうが、人の発する気には特別鋭敏になる。意識と無意識の狭間の中で、特殊な感覚が彼を支配していた。

 幼少の時、経験した死と生がせめぎ合う地獄図がトラウマとなって、内在する精神的不安定さが、長い年月をかけて彼の精神空間に特異な領域を作り出した。その領域が日常にも大きな影響を及ぼしていたのである。カルギトと交感した時に見せられた「魔界群像」もまた、それが生み出した狭間の世界だった。

 そして、気が付いた時にはずいぶん遠くまで来ていた。昼を過ぎ、日も傾きかけている。

 乾いているはずの空気に水の臭いが微かに混じっていた。ふと、それに気付く。

 空は快晴だ。雨の予兆ではない。

 インガナルが自らの存在を知らしめているのだ。

 通りに連なっている建物は切れることなく続き、その向こうに悠久なる大河がその偉容を現した。その流れは滔滔として余りにも大きく、どこまでも続いているかのように先は霞んで地平線に溶けていた。川の際まで立ち並ぶ建物も、岸に沿って延々と続いている。

 町と河の境界である河べりには、石で作られた階段と踊り場が整備されており、人々はそれを利用して河で沐浴をしている。インガナルは大いなる母であり、河自体が神聖な信仰の対象でもあった。死期を悟った人々は、この河のほとりで死を待ち、荼毘に付された灰は母に流し還されるのである。

 大人に混じって、浅瀬で遊ぶ子供たちの歓声が色とりどりに響く。

 濁った水は決して綺麗だとは、言いがたい。しかし、この地の人々にインガナルは身近な存在であり、太陽や風のように当たり前でいて、とても大切な欠かすことのできないものである。

 不意に日が翳った。厚く大きな雲が陽を過ぎったのだ。色の種類は乏しいものの鮮烈だった彩度は身を潜め、周りの景色の色彩が急に生気を失う。焼けるような気温もふっと和らいだ。

 遠くの景色は浮き上がって見えるほどに陽の光を存分に受けており、自分がいるこの場所が別世界に思えるような対比の激しさで、目が眩むような感覚に捉われた。

 石造りの建物は淡い金色の輝きをまとうが如く、陽に焼かれている。砂を含んだ空気は熱によって、さらに霞み、目にするもの全てを揺らぎ惑わせる自然のフィルターと化していた。

 再び、自らが立つ影の世界へ視線を戻す。

 遮る雲の巨塊は、今だ去らずに圧迫感を伴って下界を睥睨(へいげい)していた。

 水面(みなも)もベールを被せたように反射無く暗みを増す。

 河で親を呼ぶ子供の声が、ニキルの耳朶を掠めた。

 歓声にも似たその声は、悲鳴にも似ていた。いつかどこかで聞いた記憶が、暗い闇淵(やみわだ)の底から躍り上がってくる。

 その瞬間、彼は故郷のあの時のあの川辺に立ち返っていた。


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