青き都 パンキード
「眺めに浸る気分でもないか」
城を出たところ、鼻をくすぐるマツリカの芳香に誘われた青年は足を止めた。
そう独り語ちた彼の眼下には、旧市街から新市街へと今も拡大するパンキードが朝日に照らし出され、早くも人々の発する雑多な熱気を伝えるかのように活気付き始めている。
トゥルバンの城都パンキードを含むラハパル地方は、西カルタン砂漠の東外縁に接する為、乾季には砂塵やパドゥーと呼ばれる乾いた炎風にほとほと悩まされるのが常だ。しかし一方で、大河インガナルを擁することから、豊かな緑の勢力が勝って砂漠化の侵食を免れているのは、何よりも幸運であろう。
元々この都市は、地理的状況から古くは東西の交易要衝地の一つであったと同時に砂漠の戦闘部族に睨みを効かす砦の意味合いがあった。
それなりのリスクはあるものの、やりよう次第では、利益の大きい領地であった。インガナルはその流域に肥沃な土地も育む。恵みは砂漠化を凌ぐだけでなく、多くの作物をももたらした。
そして、別名(青き都)と呼ばれるパンキードは、防衛能力も高い為に藩都として選択されたと言われている。実際は、それらだけが理由ではないが。
都市を囲む壁を突破しても、入り組んだ路地は、城に近づくにつれ細まり、進入した軍勢が一気に城へ攻め入ることができない造りになっている。石造りの建物には、火も効き難い。さらに急な斜面の丘に立つ城をめぐらせている城壁は鉄壁であった。
また、この都市が(青き都)と呼ばれる理由については、城壁に囲まれた旧市街の中を歩いていると、早くも明らかになる。
商店や家など建物全てが、文字通り青く塗られているのだ。これは遠い昔の身分制度の産物である。指導的地位にあった僧侶階級の家を区別するように青く塗っていたらしい。
大通りから路地に入ると日陰となって、苛烈な日射を避けることはできるが、滞留している空気は、狭い空間で異様な熱気を溜め込んでいて、大通りとは別の暑さが人々を苛む。そんな中、鮮やかな青に囲まれていると、気分的に少しは楽になるものだ。
さらに眼前にそびえるランガル城の方へと上って行き、麓まで来て振り返ると、青い町並みが、気持ち良いくらいに広がっている。
旅人は決まって、ここでふっと一息つくのだろう。
そんな人々を尻目に青年は優雅に坂を下っていた。
身に着けているのは民族衣装のクルタだ。シルクっぽい光沢のある白地に淡いくすんだ金色で葉っぱをあしらった模様が全体に広がっている。胸から襟元までは刺繍で細かな模様で彩られており、立ち襟も同様だ。簡素だが、落ち着いた品のある風合いである。
頭のダーバンは小粋にかしげ、今流行りの巻き方でこざっぱりと整えていた。
香をどこかにはたき込んでいるのか、すれ違う人々の鼻を仄かな香りがそっと掠める。
貴人ではないが、それ以上の品位を微風のように運んでいた。上流階級の持つ厭味や虚栄じみたところはなく、早朝の涼風を思わせる爽やかさをさり気なくまとっている。
それに気が付いた人々が、振り向くのも道理であろう。
一昨夜、ラーガ「ダイバハル」を名演したニキルである。
祝宴が続く一週間は、城内の客舎をあてがわれていた。無論、気に入った者にのみ特別にだ。その他の大半は、町に宿を取っている。
これは幸先良いと言うより、順当に第一段階を終えたと、彼は考えていた。その次は、どこまで信用させられるか。そして、王に宮廷楽士として求めさせられるかだ。
明後日の夜も別途召されている彼は、今現在の町の声を生で聞いておく必要があった。
領主は、自領の成功している施政について、話に上るのを決して悪く思わない。逆に語るに相応しい知識人と会話するのを好むものだ。
単なる楽士だけではないという部分も売り込めば、それだけ個人としての魅力を高めることができるだろう。王の人材漁りは、遠く聞こえていた。が、目は肥えているだけに底の浅いものには、手を出さないのも事実であった。
情報の付け焼刃は避けたいところだが、ニキルには各国への放浪がもたらした知識と経験がある。部分的にでも本質を見抜けば、十分に相手をする自信はあった。
平地に下りて、路地から通りをしばらく行くと、サルダルマーケットが続いている。
市場の賑わいは早い。
朝の涼しい内から、野菜や果物など生鮮食品を選ぶ人々が繰り出していた。
しかし、やたら男の姿が目に付く。
ニキルはシャンプルという小さな店で、ラッシーを頼んだ。ラッシーとはヨーグルトと水を主として、糖類、バニラエッセンス、塩・スパイスなどを混ぜて作られたヨーグルト飲料である。一般的にかなり酸味はきついが、辛味のある料理が多いこの国では、水代わりにも飲まれる国民的飲料と言える。ただし、辛口のラッシーも存在する。
同じ国民的飲料のチャイには、ジンジャーの強弱があるもののさすがに甘いのオンリーだ。
自分より少し年上に思える店の者が、シナモンラッシーをテーブルの上に置いた。
「ありがとう。この町は景気が良さそうだね。他の国と比べても活気がありそうだ」
話しかけられた店員は笑みを浮かべてうなずいた。(お客の顔立ちからするとラジプシャンか?厳めしいのが多いと聞く割に、らしくない雅な感じだな)
「ああ、そうですね。元々が交易都市なもんで人と物の流れは多いんだけれど、年々集まりが多くなっているって聞きますよ。
今の王様は戦も上手いが、他藩や外国との交流を活発化させて経済的な取引を最優先に進めているらしいからね。しかも税の優遇もあるから、商人も多く集まってくる。ま、あんまり難しいことは知らないけど、少なくとも俺のじいさんの時代からすると、この町の大きさも何倍にもなってますよ」
「どうやら今の王の才覚によるところが、結構大きいようだ」
「ああ、それは間違いないと思いますね」
「他藩では貧しさに怨嗟の声を巷で聞くこともあるが、この藩の暮らし向きでは、誰も王に文句は言えないな」
「文句どころか、我々にしてみれば藩を豊かにしてくれた尊敬の的、逆に敵からすれば暗殺の的だ。ここまで来るには、色々あったろうし、友好国以外から見ると、この藩は脅威だろうから、敵も多いと聞きます。我々には、それが心配の種ですね」
自藩にとっては、噂どおりの名君ということか。ただ、ここまで来るには確かに色々とあったな。
ニキルの目に微かな暗みが過ぎった。
奴を殺ろうとしている敵藩敵国の刺客も当然、この町に存在はするだろう。常に屈強の護衛を身辺に侍らすのも不可欠なことだ。
必要とされる王は、もはや自分自身だけのものではない。藩国を構成する民全体の精神的な大きな支えであり、良くも悪くも実生活を左右させる力を持つ存在である。下々にとって、細かなことは分からなくとも、今の王が優れた為政者であることは、明白だった。その王が消えれば、この藩がどうなるのか? そう考えた時、恐れと不安が生じるのも無理は無かろう。そうした立場上、個としてのみならず、全体のために自身を守ることも義務だ。
向かいの店で、母親と共に店番に立つ子供の姿が目に入った。手伝いをしているのだろう。他藩に比べて、経済状態は良いとは言え、平均水準が飛び抜けている訳ではない。子供も労働力の一員として考えねばならないのは、ここでも同じだ。しかしここでは、最貧層ですら飢えは少ない。そうした人々への労働の斡旋と環境の改善。貧困層の底上げは、王が早期から執着してきた課題であった。無論、単なる慈善精神のみで為したものではない。それは、彼の遠大な国力強化政策の一端であったと言えるのだが、それを見抜く者は数少ない。
傍目には非常に成功している国造りも、様々な問題や矛盾を抱えていることは、否定しようの無い事実である。大なり小なり何かを得る為には、何かを犠牲にしなければならない。それは真理だ。
例えば、昔からあった利権を潰し、開放や分配を強制するに当たって、多くの喜びだけを産みはしない。失った者の恨みは、そこここの闇に息づいている。その摩擦が、水面下で大きな炎塊となって、危うく表出する水際で鎮火させたこともあった。
しかも、その機に乗じて、反乱分子に手助けをした他藩に、大義名分を得たとばかり速攻で領地の三分の一を攻略した手際は、異常なほどに的確で迅速であった。戦の準備が不完全であったその相手方は、手も足も出ず崩れ去った。
当時、体力がまだまだ十分で無かったトゥルバンを虎視眈々と狙っていたボンダル藩。防衛面での戦略から、どうしてもその戦力を削いでおく必要があったのは周知のところである。
その同時期になされた富の集中を緩和させる国内改革。不満と反発はシナリオ通りであり、既得特権が奪われる階層の耳に危険な誘惑がいずれ吹き込まれることも、想定の範囲内であった。
不穏な動きのある中、機先を制してボンダル側を手引きし、国内の元特権階層に橋渡しをしたのは、実は王の手の者であった。元特権階層が話に乗らなければ、それで構わない。内情として、そこまで危険ではないということの証になる。しかし乗れば、一挙に懸案の両者を潰すか、力を減じさせることができる。
現実は、話に乗った。だからこそ、逆に裏でボンダルに攻め込む準備は着実になされていたのである。
そして、史実にあるように、事は王の計画通りに進んだ。
この策は軍師サンギルの進言によるものであるが、敢えてその策を取ったのは王である。このことは、時として善人であることだけが、藩王として必要な資質であるとは、決して言えないことを如実に物語っている。老獪や狡猾さも荒波の舵取りには、どうしても必要なものなのである。それは一種、再生や成長を促す破壊にも類似する感があった。
しばらく世間話を続けた後、ニキルは店を出て容赦無い日差しに目を細めた。そして、再び雑踏の中を歩き始めた。