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ラーガ「ダイバハル」

 ラーガ「ダイバハル」の香り立つ様な馥郁たる響きが、深閑とした大広間を荘厳に支配していた。

「大地」を意味するこのラーガは、基本的に早朝に演奏されるもので、大地への畏敬と感謝を謳うものである。その旋律は、ラーガにしては広大な音階のうねりと重厚な音回しが特徴だ。聞く者の多くは言う、「ダイバハル」の持つ非常に心地良くも深い響きが、全身から浸透するかのような感覚に包まれる、と。

 時として、その物哀しくも切なく流れる旋律の本質を捉え得る者は、このラーガに秘められた大いなる「愛」を見出すだろう。

 ちなみにダイバハルに使用される音の中で重要な音(主音/ヴァーディ)は、G()で、その次に重要な(サムヴァーディ)は、N()である。

 ニキルの紡ぎ出すラーガ「ダイバハル」の即興は、もはや見事の一言に尽きた。シタールはリズムを刻みつつ、旋律を奏でる上に、下にある共鳴弦が鳴り響くので、熟練したニキルの手にかかれば、とても一つの楽器で演奏しているとは思えない。まるで小さな管弦楽のような音が生まれる。

 トゥルバン国お抱えの一流宮廷楽士たちは、その隔絶的な凄さを知り得るが故に、畏怖の眼差しでニキルを見た。そして、その身に奔る戦慄は、羨望と抑え切れぬ嫉妬、同じ楽士としてのどうしようもない魂からの賛嘆、それら渾然の表出であった。

 その表現力・技量共に、この世界では三十半ば如きの若造が、弾き出す境地ではなかったのである。

 主奏者であるニキルとタブラ奏者との拍子(ターラ)の運び具合も絶妙で、シタールが主題(決められた旋律)と即興を交互に繰り返し、タブラもそれに応じて即興と基本パターン(テカ)を切り替える。

 タブラとは、左手で奏する低音のバーヤ、右手で奏する高音のタブラの大小一対を総称する打楽器である。張られた皮は山羊皮でその表面に黒鉛やマンガンで塗り固めた、黒い円形の部分がついている。

 タブラは主奏者(主奏楽器)の基音にチューニングするのが役割と言える。そしてタブラは、あらゆる言葉を表現できるとも言われる。

 ニキルは、タブラ奏者の癖と技量を即座に見切って、それに合わせてつつ、巧妙に実力以上の高みへと導く。二つの音が激しくも官能的に絡み合い、圧倒されるほどに研ぎ澄まされた高峰を次々に構築していた。それは、正しく雲に霞む神域の頂であった。

 演奏のテンポ(速度)はビランビット(遅)に始まり、マディヤ(中)、ドゥルット(速)へと上り詰めていく。そして、さらにスピードが加速されて、最終段階のジャーラーで極限まで速められる。

 そして、フィナーレ――

 天上より零れ落ちた煌きのようなシタールの旋律は、名状しがたい余韻を残して、終息した。

 ――水を打ったような静けさ。

 水晶のように硬質で透き通った不純物の無い静寂は、この大広間を、壊すのをはばかられる異空間に変えてしまっていた。

 誰もシタールがもたらした余韻を失いたくなかった。その一瞬一瞬の積み重なりが、彼ら個々の心に蓄えられてきた音楽史に比類なき金字塔を打ち立てているのだ。

 そう、演奏を耳にする意識と記憶は遊離し、異空を彷徨うが如く感覚は一点に集中され過ぎる。来るべき津波のような情感は、無音が構成する余韻にこそ爆発した。

 そして、常識で考えれば、あまりに不思議なことではあるが、その音無き世界にすら至高の価値が存在していたのである。

 音楽は時として、人の心の深奥に達し、その者の魂を大きく揺さぶる。曲が持つ力と奏者の能力が調和した時、その影響力は抗しがたい。それは身分や人種はもとより、国家すら超越する。その時はもはや、神の声に等しいものだ。

 ニキルの技と「ダイバハル」の世界観は完全な融合の下、その域に近くもあり、彼の弾きが持つ独特の“枯響”が一層わびさびを深め、人々を魅了し尽くした。

 夢から覚めたような(ラージャン)が、ようやく長く続く拍手の一拍目を打ち鳴らした。

 そして、まさしく万雷。

 呼び水となった(ラージャン)の拍手に間を置かず、広間に居並ぶ全員が、いてもたまらず狂喜したように拍手と最大の賛辞を贈り続けた。

 ニキルは皆に深々とお辞儀し、優美な面持ちに似つかわしからぬ堅硬な沈毅さを払い、この上なく燦然とした笑顔を持って応えた。

 賛嘆の嵐もようやく落ち着き、(ラージャン)はかしこまって膝を着くニキルに声をかけた。

「真、古今稀に聴く演奏よのう。

 そちの噂は遠の昔に聞き及んでいた。余も(がく)の横好きが高じて、ようやく一端に弦楽器を扱えるようになったが故、実はそちの名高きシタールを一度聴いてみたいと思っておったのじゃ。

 ただ、数年前より放浪に出てばかりとも聞いておったのでな、隣国の楽士に無理強いもできまいと思っておった。

 しかし、今回はわが国にとって重要な記念祭じゃ、何としても花を添えてもらおうと思ったのじゃよ。

 その甲斐があったわ。

 当代随一と言ってしまえば、老ラウディカーン辺りにに文句を言われるであろう故、口にせぬが、しかし追随する技量がある。

 その歳で、ここまでの境地に至るは、そちの天凛のほどを如実に示しておる。その才に溺れず、よくここまで練磨した。

 そちは楽史に名を残すべき奏者よ」

「おお、何ともったいなきお言葉、身に余る光栄にございます。

 (ラージャン)よりの御褒詞、私にとりまして何よりの褒美に存じます。

 しかし、老師にはまだまだだと、厳しいと指摘をいつも受けております。」

 ニキルは物柔らかな言いようで返した。

「ふうむ、あの男のことじゃ。さもあろう。何度か会うたこともあるが、あの歯に衣を着せぬ物言い、煙たくはあるものの、不快を通り過ぎて逆に小気味良いわ。

 じゃが、師として宮廷楽士には呼びたくないな。マイソウレの藩王のように楽器をぶつけられたくないからな」

 (ラージャン)は機嫌良く大笑した。

 ニキルもつられて笑みを浮かべる。

 老ラウディカーンの逸話は枚挙に暇ない。(ラージャン)の言う話もその一つだ。

 指示に従わぬマイソウレの(ラージャン)に業を煮やした老師が、サランギーを藩王目掛けて投げ付けた話は有名だ。さすがに怒気を発して顔色を変えたマイソウレ藩王を、老師は覆い被すように大喝し、懇々と説教した。その迫力にには、その場にいた誰も止めようがなかったと言う。藩王の態度が改まったことは言うまでもない。その分、精進が効して、藩王の腕前はかなりのものと評判になった。

 インダーナ音楽の真髄は即興にあるのだが、ある時、ラウディカーンを含む三人の名手が複数のラーガの弾き比べをした。

 ラーガとは簡単に言えば、旋律であり規則である。その規則に忠実に沿って、即興でここの音楽を表現するわけだ。規則に乗る限り、同じラーガでも奏者によって、音の使いがコロッと変わるものである。

 基本的ラーガに始まり、次第に複雑で難解なラーガへと題目が矢継ぎ早に変えられていく。これには名手とは言え、元より無茶な変えようをされるので、繋ぎがどうしても破綻するのは止むを得ないものだ。しかし、ラウディカーンのみは、平静な表情でつまずくことを知らない。どうして、あのわずかな時間で流麗な音を紡いでいけるのか、皆不思議がった。

そして、弾き比べの終了後に言った言葉がふるっている。

「これは遊びだよ。だがら、余計に気張ることなく思いつくまま、指に任せるのさ。こんなものは考え過ぎる方が、無駄だ」

 これだけのことを遊びではできない。少なくとも普通の奏者には。

 自分にも共通するところがあると、ニキルは思う。師とは似た者同士だ。ただ、自分は必要な時に自制しているだけ。

 ニキルはわずかに視線を揺らし、視界を広げた。(ラージャン)との和んだ会話とは裏腹にニキルの目は、(ラージャン)を中心として冷徹に周囲を細かく観察している。

 歴戦の太守(ナワーブ)を何人も見てきたが、さすがにトゥルバンの藩王は武人然とした風格が違う。他の藩王も王とした風格は確かにあるが、放蕩めいた緩みがどうしても滲み出ている。

 しかし、この(ラージャン)は一代で小国をここまで大きくしただけあって、虎と向かい合っているような圧迫感を無意識に放ってくる。くっきりと濃い両眼は絶えず炯々とし、鉤爪のような鼻と見事な髭を蓄えた口の造りも、堂々とした印象を与えていた。

 ただ、壮麗な王宮に対して、身に付けている物は華美なものではなく、質実剛健を思わせる。帯剣も他の王侯のように金や宝石で必要以上に飾り立ててはいなかった。そのため、見栄えのみで言うと、藩王らしからぬものであろう。

 隣の王子もその資質を受け継いでいるようだが、まだまだだ。歳は、二十後半か。明敏さはあるものの、威厳が付いて来ていない。こればかりは年齢と経験が必要だ。

 ここからが問題だ。

 (ラージャン)の後背と左右に控える護衛と側近、揃いも揃って鍛え上げられた体格と精悍な顔付きが、嫌でも目に付く。

 腰帯しているカンダ(両刃直剣)は、中・近どちらのレンジでも素早く立ち振るえる実戦的な造りで固められている。

 剣同様に、ラーガに浸った後でも全員、油断ない表情と張り詰めた雰囲気に崩れは無かった。

 ――いい人材を揃えている。優秀な難物ばかりだ。

 思わず感心した。

 だが、気になるのは、特に背が高くピンととがった顎鬚と厳しい面長が特徴の男だ。

 その男は色んな意味で、できる奴だと、直観が告げていた。他の者は武のみだが、この男は素晴らしく理知的で物事を透徹する光を、その目に湛えている。

 怖いタイプだ。結して用心を欠かしてはいけない。

 目を合わせるのは、一瞬一回のみ。

 (ラージャン)が右手を軽く差し出し、一言投じた。

「柄を――」

 (ラージャン)が相手の差し出した剣の柄に触れると言うのである。

それは、「近臣に等しき意」を持つほど相手に気を許すという特別な表示行為である。通常は、士族など身分の高い者同士で行われるものであり、楽士対象ではあり得なかった。周囲がざわついたのも道理。

 よほど、ニキルを気に入った証拠だろう。シタールの才だけではなく、貴族を凌ぐ気品と華麗さ等、溢れる人間的魅力も要因の一つであることは、間違いない。

 今は約七mの距離。仮にここから殺到しても、周りの護衛が必ず壁を作り得る。蹴散らすこと自体は、無論可能だが、その間に王は逃げて、入れ替わりに兵が雪崩れ込むだろう。さすがに命取りになりかねない。無理をしても成否は五分五分だ。

 しかし、(ラージャン)は手の届くところまで来いと言うのだ。それには動悸が速まる。目の色もわずかに変わっただろう。しかし、この距離と室内の明るさでは、この微妙な変化に気付きはすまい。例え、気付いても普通の反応か。驚かない楽士はいまいよ。

 とは言え、面長の男に目をやる危険は冒せない。

「はっ、真に恐れ多いことではございますが、――」

「構わぬ、近う寄るがよい」

 ニキルの言葉を遮るように王が継いだ。

 深奥に棲み付く闇が疼き出す。

 では、と一揖し、ことさらにゆっくりとうつむきかげんに王の方へと足を進めた。

 一歩一歩踏みしめる足裏にペルセアの厚みのある絨毯は妙に心地良かった。深みのある赤と淡い黄色を中心とした細やかな幾何学文様が、足元を川のように流れていく。その緩やかな流れが、王を確実にこちらへと引き寄せているかのようなイメージを結ばせる。

 約三mのところで止まり、片膝をつく。そして、さらにその半分をにじり寄った。

 視線を上げ、王の胸元辺りに据える。その広い視野は、護衛たちの姿を完全に捕捉する。内心苦笑を禁じ得なかった。

 面長の男は、いつの間にか位置を変え、王の左後方に配し、しかも体を微かに斜に構えている感じではないか。分かる者が見るに臨戦態勢と言っても過言でない。

 こちらの一挙手一投足を見極めようとしているのだろう。最初に睨んだ通り、この男は他の者とは違う。

 奴の抜き打ちは迅速を極めるだろう。見切りと体術だけで、その剣先をかわせるだろうか? 極力、短剣でいなす危険は避けたいところ。あのタワールは身が厚そうだ。

 ニキルは右手を腰帯の短剣へと伸ばした。

 ニキルの意識の中で、それはスローモーションのようであった。

 彼の体から銀光が迸る。と、同時にその姿は飛燕の如き速度で霞んだ。

 周囲の護衛は事態に気付きながら、姿を目で追うが、体は即時に反応できない。

 しかし、唯一長身から繰り出された凄まじい斬撃は、迫るニキルを完全に捉えていた。斬り上げられた刃は、血煙を舞わせるはずだった。

 その時、ニキルは旋風と化し、回転しながら紙一重でかわしつつ、王の右手を駆け抜けた。

 手中の短剣はたっぷりと血を吸っている。

 ――ジジ・・・傍らの灯火が揺れた。

 ニキルは必要以上にゆっくりと、カルギトの柄を王の前に差し出していた。

 瞬く間に展開していた撃剣シーンは、ニキルの頭の中にだけ繰り広げられたものだった。

 獲れる!だが、まだだ。

 恐ろしいほどの憎悪の猛りを必死に抑えながら、自分に言い聞かせた。

 まずはタグのソターのように相手を魅了し、完全に油断させるのだ。最初から選択肢を絞る必要はない。自分個人の復讐で、できるかぎり類を及ぼしたくはない。それが本心だった。

王はさっと柄に触れ、ニキルは来た時と同じようににじり下がった。

「しばらくは逗留するが良かろう。そちの演奏をもっと聴かせてもらうぞ」

「はっ、喜んで弾かせていただきまする」

 ニキルは深々と頭を垂れ、大広間を退出した。

 その姿をじっと見送っていた面長の男が口を開いた。耳元で小さく、

(ラージャン)――」

「良き演奏であったの。うーむ、どうしても欲しくなったわ。あれほどの名手はそうそう出ぬぞ。そう思わぬかラフマンよ」

 いつもより低い声で王に問われた面長の男、ラフマンは答えた。

「確かに手練ではございますな。ただ、あの者、少々楽士らしからぬ雰囲気を持ち合わせておる気がします」

「さもあろう。傑出した才を持つ者は、往々にして異風を帯びるものよ。身ごなしの華麗さは、そこらの貴族も及ぶまい。あれは生来のものであろう。結して身に付くものではない」

「・・・・率直に申し上げますが、あの隙のない姿勢と揺らぎを見せぬ緻密な動きは、相当に訓練された戦士のようにも思えます。

 それに控え目とは言え、あの者より滲み出る気も純粋な鋼のように硬質で、ひとかどの若武者を思わせるよう。高名な楽士故、考え難くもあるのですが、刺客の可能性が・・・」

「無いとは言い切れぬか? 直感かね?」

「はい、確証はございませぬ」

「フッ、相変わらず聡いのう、そちは。

 上手く隠していたつもりだろうが、あの者の目の奥底には昏い熾きが灯っておったわ。しかし、そうだとしても単なる刺客ではあるまい。確かに闇を抱えてはいるが、澱んだ臭みも刺客特有の酷薄な殺伐感も一向に垣間見えぬ。仮に余を狙ってのこととするなら、個人的な恨みか。しかし、高名なニキルに憎まれるようなことをしたかのう? いや記憶にないな。

 まあ、余に向けられたものとも限るまい。あの者の胸中に長年積もり積もってきたものが、かような性情を作り出すこともあろうよ。それはそれで、憐れなこと。が、逆に言えば、あれほどの弾き手になるには、その心に神を宿すか、それができねば鬼を棲まわせねばならぬかも知れぬ」

 そう言いつつ不思議な感覚を持ったのも事実だった。初めて会ったはずが、そんな気がしない。妙に懐かしい匂いがするのだ。

 ラフマンは分かってはいたが、王の眼力に改めて舌を巻きながら、

「念の為です。調べさせますか?」

「ははは、無粋な真似は控えよ。今はな、奴が欲しいのだ」

 ジャンルを問わず人材漁りは王の趣味でもあった。

「懐に、いつ牙を剥くか分からぬトラを飼おうと仰るのですな」

 それに間髪入れず切り返す。

「それも一興ではないか」

 王は迫力のある笑みを、口元に湛えた。


※話の中に出てきた「タグ」とは、インド亜大陸を舞台に実在した盗賊の一種であり、カーリー女神を崇拝しつつ、代々500年間に渡って2000万以上の人間を黄色いハンカチーフで、絞殺しつづけた殺人秘密結社(宗教団)のことです。ソターとは、その中で相手を油断させるホスト的な役割の者。

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