夜語り
開け放たれた窓の外では、煌々として浮かぶ月が、遠くは眼前の山並み、近くは庭を彩る草木を神秘的に浮かび上がらせている。冷たい月光とそれが綾なす影は、雲の働きによって定まらぬ濃淡豊かな墨絵を思わせた。
その月は満月より僅かに欠けを見せ、楕円を描いていたが、天より降り注ぐ光量は十二分にあり、外に眼をやる男には、路傍の小石すら視認できた。
たなびく薄雲が時折、月を過ぎる。その時は、わずかに虹色の暈をその身に燻らせた。幻想的な装いが、これほど月に似合うのは、月自身の性質がもたらすものであろう。
彼は窓辺に寄りかかって、純粋無垢な月明かりと包み込んでくる夜気を無防備に浴している。月夜の生む、神秘性と幽玄が顕在化させられた独特の雰囲気に、ひどく心を奪われていた。それはいつものことで、気が向けば、小一時間眺めやることもざらであった。
陽光に満ちた広大な草原の風景に浸るも心地良いことに否はないが、昼間の光景は、彼には少し雑然とした余計なものまでも感じられる気がした。何やら騒がしいのだ。求める所の質的な違いと表現してもいいだろう。彼にとって、完全な鎮まりを求めるには、深閑とした夜の静寂と暗闇が必要なのだ。そして何よりも、不思議と癒しをもたらす和らげな月の光を。
確かに彼の内面には、滾る想念が渦を巻き、それが少年時代より絶えず彼を突き動かしていた。今の彼の多くを形作っているのに、その影響は決して少なくない。
彼は暗い瞳を、手元の短剣へと落とした。
鈍く輝くその面は、ダマスカス調の刃紋が複雑に浮き出ている。彼の手によれば、この短剣は魔法を与えられたが如く、生き物のように洗練された踊りを舞う。だが、その無機質な美しさは常に冷厳さを帯び、狂おしい死の影を漂わせた。未だ血を吸うたことは無いが、持ち主の陰の気をたらふく含んだ結果であろう。
腰に差す簡素な飾りの短剣にしては、実用性に富んだ刀身をしている。数打ちものではなく、刃姿、切れ味共に名工によるものと知れる。これは亡き父から贈られた唯一の形見でもあった。銘は、カルギト。
それ故にそれは、唯一の使命を宿していた。およそ20年間、遣い手の昏き悲愴を孕みつつじっと待ち続けた。そして、その働きは無論、剣としての本領である。
彼は問うた。
「20年間の私の思い。それ故に得てきた多くのもの。それに沿うて、準備されし様々なこと。来るべき収束点は間近に迫った」視線は複雑な刃紋をなぞる様に刀身の上を微かに泳ぐ。「お前は、それに応えてくれるか?」
自身の体術・剣捌きはもはや、天上の技だ。かの者の取り巻きが、いかな達人と言えど、凡俗の技など歯牙にもかけぬ。が、逃げ切れることも考えていない。いかな手錬でも、数の前には、死を覚悟することも必要。ただ、やり遂げる確信に一分の瑕も無い。
しかし、この短剣が見掛け倒しならば、目的を達するどころか、無為に命も潰える。
御前では、短剣を帯びることを許されるが、精一杯のところ。それもこの国では成人男子の印として、ほぼ全ての階級のものが、腰に短剣を差す慣習がある故。殺傷力の高い武器など持ち込むのは無論不可だ。
それに対し、護衛を兼ねる側近や取り巻き連中は、必ずタワール(曲刃刀)やカンダ(両刃直剣)で武装している。瞬間的な立ち回りの最中、その動き故に刃を合わす可能性は僅少だが、仮に短剣が折れてしまえば、相手は凡俗の技とはいえ、達人の域にある。無限に全てをかわし続けることは、さすがに不可能。帰結は自明だ。
冷たい感触が額に触れる。
第三の眼と呼ばれる辺りに、カルギトをそっと抱いていた。
瞬間、脳裏で底の無い見えぬ深淵を覗き込む。
黄泉の風が耳元で、ゴオゴオと唸りを囁き始めた。
幻聴とは知れているが、全身総毛立つ。
幻覚がもたらす闇の固まりは、そこここに絶えず胎動を繰り返し、必死に何かを生み出そうともがくようだ。
湧き上がるけたたましい哄笑が、深淵を揺るがしつつ、その底でとぐろ巻く何かを肥大化させていく。
身近で耳朶を打つその哄笑は、何物のものだ?いや、誰のもの?
逆巻く闇闇は、虚無ではなく、粘質な液体の圧迫感を伴っている。そして、意味不明なことをざわざわと訴え、帰る道の無い深淵の深遠へ引きずり込もうと、密かに不気味な引力を発し続けていた。
突如の
―閃き
―瞬き
―眩み
刹那の遊離感、浮遊感。溶けゆくように覚束ぬ五感。激しい酩酊に似た感覚が波状的に襲う。
地鳴り。海鳴り。遠雷の轟き――
遂に怒濤の光景が顕現する。
猛々たる狂気の支配者が鉤爪の一振りで絶望の夜界を召喚する。暗いビロードが即座に天を蔽い、津波のように溢れ返る瘴気の爆流。地獄の苦痛と燃え滾る憎悪と血も凍る恐怖を、湖ほどもある大釜で煮詰めながら、愉悦に満ちた凄絶無比の笑みを湛える巨大な魔人たち。あらゆる滅びと共に迫り来る、錆び崩れた鋼の異形化物群――大地はことごとく穢れ、大気は色彩を失い、命あるものは普くその灯火消しゆく。其は、世の終わりを告げる物ども也・・・・等々。
マタリの異端的文豪、イド・テルクロール畢竟の大作であるカラン三部作、その第一部「魔界群像」で描き出された光景が、鮮烈にフラッシュする。その世界を巡ったかの如き既視感の覚えは常にあり、その度に自身が何ものなのかと、激しい戸惑いを繰り返す。
しかし、凄まじい精神的嵐の中で、これらの幻覚的妄想?にすら恐怖は無かった。ただ、抵抗があった。一線を踏み越えることで、失うものの大きさを無意識に憂えていたのかも知れない・・・・。
ゴオオオ――
ゴオォ――
ォ―――
耳朶を打つ凶風が遠のく。
―現実回帰。
頭を上げ、目を開ける。
神々しいほどの月姿が変わらず、そこにある。その玲瓏たる月明かりは、精神的な高次の昇華と神秘なる鎮まりを与えてくれた。
視線を手元に落とす。下ろしていた手と共に陰に沈した刃は、もやは何も語り掛けてはこない。ただ、冷たい感触だけがある。
彼は乾いた笑みを浮かべて、物言わぬ相棒に言葉を投じた。
「・・・お前は、恐ろしいほどに私の一面を映し出してくれるな」
短剣を鞘に収め、サイドテーブルにそっと置く。
その傍らには、シタールが立てかけてあった。上(主)弦7本、下(共鳴)弦13本の二段弦構造になっている弦楽器だ。これは表側の、とも言うべき、もう一つの相棒だった。
シタールは彼にとって、黒きうねりの中でのオアシスとも取れる存在と言えた。それに触れる時、本来の自分でいられるような気がするのだ。
二番目の弦、ジュリタールを爪弾く。
シタール独特の音色が、韻々と響き渡った。
シタールには、その音響的な構造故に、はまると抜け出せないような不思議な魅力がある。少年時代の彼もまた、魅せられた一人だった。
付け爪を付けて、再び音を出す。
やはり少し下がっている。
糸巻きを調整した。
先日、弦を張り直したばかりなのだ。そうした時は、すぐに音が下がる。そのため音合わせ――チューニングを繰り返さなくてはならない。合わせて下がって、合わせて少し下がって、合わせてまた少し下がってをしていく内に、音が安定してくるのである。
3番弦パンチャム、4番弦カラーチと順次調整していく。そして、5・6・7を合わせ、7・6・5の順で弾く。
ジュワワ〜〜ン
この音をチカリ(C#・C#・#G)と呼び、この3本が演奏の際のリズム的伴奏に使う弦である。
下(共鳴)弦は、一般に演奏する曲によって、チューニングは全て異なる。逆に言えば、同じ曲でも共鳴チューニングで雰囲気が、がらっと違うものになるのだ。
ラーガ「エンティウム」を軽く弾いてみる。
冴え冴えたる共鳴が、月夜に相応しい静謐な広がりをもたらし、部屋に音響調和と叙情的高揚の風が吹き渡る。
生滅変化しない永遠絶対の真実である“無為”を歌う厳粛な「エンティウム」は弾き手を粛として選ぶという。
しかし、男の指は澱みなく、その表現力は稀代の天稟が発揮するものだった。この曲自体が積層する複雑な煌めきを余すことなく、汲み上げている。
彼は短剣のみならず、シタールにも類稀なる魔法の息吹を与えることができるのだった。
この男、名をニキル・アルバーナという。齢は三十半ばほど、波打つ黒髪と射るような眼差しが人目を引く。そして、その挙措は貴族さながらの優雅にして、また武人然として沈毅。澄んだ薄緑色の瞳と色白の肌が際立つ顔立ちは、彫り深く淡白に整っているものの、表情は常に憂いを帯び、儚さを湛えている。しかし、自らの楽に対する賛辞喝采には、まばゆいほどの輝きを返す。それはあたかも、分厚い暗雲が割れゆき、一条の陽光が強く差し込み始めたかのように、燦然とするものだった。
そして彼は、もはや伝説的奏者とさえ謳われる老ラウディカーンの門下に籍を置き、その名は若くして世を席巻したが、元来が孤癖で放浪を好み、今や漂泊の一楽士に過ぎない。限られて知る者ぞ知る名奏者と言ったところである。
窓から微風と共に夜気がそっと忍び入る。
時が凍り付いたかのような静寂美。
空には天の船(月)が緩やかに頂を跨ぐ。
その脇を過ぎ行く雲の群れ。
其は色を帯びて姿を現しては消え行くのみ。
草木は降り来る露を柔らかに纏う。
玉なる露は、それぞれに微細な星を宿している。
闇に輝ける夜は天地双方、宝石に満ちていた。
ニキルの顔には、例えようもない穏やかな笑みが戻っていた。
夜語りは眠りなく、そして淡々として続いていく。