深い眠りに落ちた私
「リネア様、リネア様!」
……どこからか呼び声が聞こえる。
でも私は、ふわふわと温かなお湯の中に浮いているみたいな気分に浸りつつ、起こさないでと願う。
もう少しこの居心地の良さに浸っていたい。
「花菓子でも起きないとは……」
誰かの悩んでいる声もした。
申し訳なくなる。そうするとまた、眠りの中に意識が沈んでいく。
どうして私、こんなにも眠いのかしら。
誰かが心にささやく。
――それは自分で望んだこと。
――何もかもから耳を塞ぎ、何もかもから遠ざかりたかった。
――傷つきすぎたの。我慢した末の未来が、想像以上に暗かったこと。
――そこから逃れるにも、恐ろしい思いをしなければならなかった。
ああ、と私は思い当たる。
本当は、怖かったのだ。
危険だとわかっているのに、一人で外出したことも。
今までそんな経験がないのに、ならず者達から追いかけられたり、スキルを使ってでも押し通ったりしたことも。
本当はどれもしたくなかった。
だけどそのままでは、ずっと幸せな気持ちになれる未来が手に入れられないと思ったから。
……がんばりすぎて、疲れたの。
――眠っていい。眠ればいいよ。
そんな声とともに、私の眠りはさらに深くなって、誰の声も聞こえなくなる。
けれど、ふと心の中に思い浮かんだ。
(もしかしてこれも……? ブロックスキルの影響?)
自分が『嫌なもの』を遮断できるスキル。
人生に疲れて、生きて行くことに疲れたから……私、眠りの中に逃げ込んで、外界から遠ざかっているのかしら?
心の中に、『これではだめなのでは?』という気持ちが湧く。
――だとしても少し休んだ方がいい。
――おやすみ、おやすみ。
ささやきかけられて、私の意識が一度途切れたのだけど……。
ふっと意識がまた浮上した。
カティの声が聞こえる。
「お嬢様、ご依頼の本が参りましたよ。すぐに手配してくださったみたいで。今日は起きてゆっくりと読書でもなさってくださいませ」
その言葉に、私は目を覚ます。
真っ白な天蓋の布が見えた。
一瞬、雲の中にいるような錯覚を起こしたけれど、すぐに喉の渇きを感じて、違うのだとわかる。
私、眠りから覚めたのね?
「お嬢様!」
本を持ったカティが、ほっとした表情で微笑んだ。
「ああ、おはようございます! 朝になって目を覚まされてほっといたしました」
さぁ顔を洗いましょう。お茶も用意しておりますよと言われる。
起き上がった私は、窓から差し込む光の方向から、たしかに朝だなとうなずく。東からの光だものね。
「私、お昼ぐらいからずっと眠り続けていたのね……」
ふんわりと、いろんな人が私に呼びかけていたのを覚えている。
きっと夕食の時間になって、起こしに来ても起きなくて、カティが人を呼んだのだろう。揺すっても起きなければ、そうなっても当然ね。
「本当に驚きました。何度呼びかけてもお目覚めにならなくて……。公爵閣下にもあの目を覚ます花菓子をいただいたのですけれど、それでもお眠りになっていたのです。医師も呼んでくださったのですが、ただ眠られているだけだから、もう少し待つように言われまして……でも良かったですわ」
顔を洗った私に、化粧水を差し出してカティは嬉しそうに言う。
「でも朝になってきちんとお目覚めになったのですから、本当にお疲れだったのでしょう。公爵閣下にも知らせて参りますので、どうぞお茶を飲んでいらしてください」
化粧水を使い、部屋着に着替えた私に紅茶の用意をして、カティーは退室した。
私は部屋のソファに座って紅茶に口をつけつつ、ひとりつぶやく。
「そんなにも眠るなんて、どうして……」
と、そこで夢の中で考えたことを思い出した。
「ブロックスキルの影響?」
たしかに、整合性はあるかもしれない。
すでに人生に疲れていたのは確かだし、牢獄行きかもしれないと思って、追い込まれた気持ちになっていた。
でも以前だって、特に未来に光明が見えていたわけではない。なのに深い眠りから覚めない、などということはなかったのだ。
スキルを取得して以降、この変化は起きたのだから、やはりスキルの影響かもしれない。
そして目覚めるきっかけになったカティの言葉を思い出すと、ますます心が疲弊していたせいかもしれない、と考えられた。
「今日はゆっくりしましょう」
私は様子を見に来たラース様にお礼を言い、明るくふるまって安心してもらった上で、カティに本を持ってきてもらった。
本は、想像していた以上に面白かった。
始めは勇者ですらなかったアデル。
でも彼女は、隠されたスキルを持っていた。それが……魔物の心がわかるスキル。
魔物と出会わなかったら、一生気づくことのないスキルだった。
大陸の帝王が各国を侵略するために、魔物をつくり出し、アデルの暮らす辺境の村にもやって来た。
魔物を倒そうとする人々。
だけど難しくて、人々が怪我をする中、アデルは魔物の嘆く心を聞いて、魔物の願い通りにとどめを刺す。
アデルの前では魔物は大人しく、その時を待っていたのだ。
村を救ったアデル。
だけどそれ以上に、魔物が従ったように見えたことで、アデルは魔物の仲間だと村を追い出されてしまう。
だけどアデルは、どうせならば魔物達を解放してあげたいと、目的を持って旅立ったのだ。
逆境の中でも自分の思いを貫くアデルに、やがて惹かれていく人々。そして彼女は魔物を解放しながら、帝王を倒すことに手を貸し……。
私は二日かけて、本を読んだ。
本当は一日で読み切れたのだろうけど、カティにはきちんと間に休みをとるようにと心配され、三食きっちりとラース様とアシェル様に見守られ、最後に夜更かしは絶対ダメだと念を押されたからだ。
そうして読み終わった私は、とても気持ちがすがすがしく、未来への希望も持つことができた。
「がんばれば、いつか報われるかもしれない、なんて思えてきたわ」
だって私もまた、一人きりじゃない。
勇者アデルみたいに、未来には光が見えると信じられる。
それに……。
「なぜ今までこういった本を読まなかったのかも、わかったわ」
以前は周り中が敵だらけで、とてもじゃないけれど私の味方ができるような気がしなかった。
それに勇者アデルと自分の差に、ますます落ち込んだでしょう。
だってアデルは、優しい母や友達がいた。
村から追い出されたけれど、そういった優しさで守られた生活をしていたのだ。
でも私には無かった。叔父様しか優しくない。
そして叔父様にも家庭があって、とても私を引き受けられそうには見えなかったし、依存したら、叔父様も逃げて行くだろうと思った。
だってあの状況を知っていても、叔父様は決して『自分が引き取る』という言葉だけは言わなかったから。
そんな風に前向きになれた数日後、あのカルヴァ大神官補佐がやってきた。
「養女にする手続きが整った。明日からそなたは兄の養女にして私の姪になり、明後日には復学する。……できるか?」
一応尋ねてくれたのは、たぶんこの人の優しさなのだろう。
眠って心が回復し、本を読んで気分が晴れやかになった今は、私にもこの人の誠実さが見えるようになったのではないかしら。
とにかく明後日から、私はエルヴァスティ伯爵令嬢ではなく、レーディン伯爵家令嬢として私は登校することになった。