閑話:ラース
「ラース」
帰途についたところで、馬車の向かい側に座ったアシェルが切り出した。
「あの娘は本当に大丈夫なのか?」
護衛騎士ではあるものの、アシェルとは幼い頃からの知り合いということもあり、彼には敬語はいらないと言ってある。
初対面の人間は皆驚くが、ラースが普通に接していれば、そのうちに慣れてくれる。
「……そうだね。気にはなるんだけど」
ラースとしても、あいまいな返事をすることしかできない。
アシェルが気にしているのは、先ほど会った令嬢のことだ。
――美味しい物を食べたら悪夢など忘れられると言ったリネア。
ラースも気になってはいた。
悪夢の程度はわからないが、あきらかに日々憔悴している様子を見ると、気にしていないわけがないと思うのだ。
その上、今日のようなことが毎日あるのだとしたら、彼女の精神状態は心配ではあった。
「彼女の状況なら、そういう反応をしても仕方ないと思うんだ。あまり直接見かける機会が少なかったせいで、あそこまでとは思いもしなかったけれど……」
今日の出来事は、ラースとしても正直目を覆うような代物だった。
目ざとくない人間がぱっと見ただけなら……もしくは、ことが起こった後の状態だけを見たら、リネア・エルヴァスティはとても情が無い、冷たい人間に見えただろう。
しかしラースやアシェルは、その前から彼女とその周辺の出来事を目撃していた。
バケツを持ったまま貴族に駆け寄るという、わけのわからないことをする召使いが、まずありえない。
そもそも廊下を掃除する際、召使いは時間内にできなかった場合、一度生徒達が他の教室へ引っ込むなり、帰宅していなくなるのを待つはずだ。使用人用の通路などに引っ込んで。
それどころか、周囲に人がいる時に、堂々と話しかけようとすることがおかしい。
その召使いに足払いし、転ばせようとした令嬢達は、あからさまに嘲笑する表情をリネアに向けていた。
どちらも、リネアへの悪意がにじむ行動だ。
おそらく彼女が手を差し伸べたとしても、それをきっかけに言いがかりをつけただろう。
早々に立ち去って、冷たい人間だと思われた方が軽症で済むくらいに。
嫌われ者だとは知っていたが、あそこまで徹底的に見下され、攻撃されているとは思わなかったラースは、珍しくぼうぜんとしてしまったものだ。
アシェルに「どうする?」と尋ねられて我に返ったが……。
「噂は聞いていたんだけどね。エルヴァスティ伯爵家の令嬢は、父親と同じ冷酷な人間だと……嫌われていることは」
彼女とかかわりがなかったラースは、そのまま聞き流していた。
エルヴァスティ伯爵家には実際に疑惑があるので、あまり近づく気がしなかったせいもある。
けれど令嬢の方は、そこまで言うほどのものではないと思ったのは、彼女の叔父に花菓子を譲った時のことからだ。
――母を早くに亡くして、ずっと寂しい思いをしているようで。
訪れてやると、とても嬉しそうにしてくれるんですよ。
子爵は、菓子を贈る相手についてそう語った。
気まぐれに尋ねたラースは、彼の姪が誰なのかを聞いて驚いた。
父親同様に性格の悪い娘だと評判の、リネア・エルヴァスティのことだったのだ。
ただ、実際と噂が違うことなどよくある。
だからラースは、身内の言うことの方が正しいのだろうと思っていたので、彼女に声をかけることも特にいとわなかったのだが。
「これからも協力をお願いしたいのに、学院に来られないような状態になっては困るけれど……」
彼女自身のことも心配だが、エルヴァスティ伯爵家と表立って関わることはラースでさえ難しい。
場合によっては、聖花が手に入りにくくなるのだ。
今やスヴァルド公爵家にとって、聖花や花菓子の取引は大きな事業でもある。この国だけではなく、他国とも取引がある。商売を失敗することで領民を困窮させては、本末転倒だ。
アシェルがつぶやく。
「彼女が、上手くこちらに助けを求められればどうにかなるんだろうが……。そのために、わざわざこれからも花菓子を渡す約束をしたんだろう?」
そういう形ででも、彼女との繋がりを保つために。
ラースは苦笑いした。
「これが彼女の役に立てばいいんだけどね……。こちらも、どんなに可哀想でも、むやみに庇護することもできないのが、歯がゆいね」
彼女と自分達だけが約束し、彼女を庇護して世間から遠ざかった場所へ連れて行けば、父親に拉致したなどと言われるのが目に見えている。
せめて彼女が、自ら家出でもしてくれた方が保護しやすいくらいだ。
そのような状況の令嬢であれば、学院を休学させることも、ラースの伝手を使って可能にすることができる。
しかし学院を休学したままというのは、貴族の名誉に小さいながら傷がつく。
それをリネアがよしとするかどうか、わからない。
ただでさえエルヴァスティ伯爵家の娘というだけで、周囲から避けられているというのに、学院を卒業していない娘となれば、普通の結婚は難しくなるのが目に見えていた。
本人がそれでもいいと言わない限りは、ラースたちが無理に手を出せばただのおせっかいになってしまう。
「僕たちにできることは、手を離さないことぐらいではないでしょうかね」
リネアが思い切ることができるまで。
もしくは、リネアがこの状況を跳ね返すきっかけとして、ラースとの繋がりを利用することに気づくまで。
答えを聞いたアシェルがため息をつく。
「早めに、逃げ出す決意ができたらいいがな……」
「君のように?」
尋ねたラースに、アシェルは嫌そうな顔をした。
「俺のことは関係ない。だが、ラースのようなお人よしが手を差し伸べてる間に、どうにかできればいいと思っただけだ。あんなのを目撃したくはないからな」
そう言うアシェルに、ラースは微笑んだ。