7.幼馴染だからって上手くいくとは限らない
自分の研究室を出たキールは一心不乱に街の中を走って行く。さっきクロの姿をしている時に向けられたような敵意は感じないが、それでも奇異の目が向けられていることは重々承知している。だが、走らずにはいられなかった。
まさか、自分の恋敵に発破をかけられるとは思いもしなかった。キールは呆れたように笑いながら、しかし、その歩みを緩めることはしない。
すべてクロの言う通りだった。それもそのはずだろう、なにせ彼は一度自分になったのだから。いくら器用に隠したところで、自分自身に隠し通すことなんてできない。
でも、それはこちらも同じことだった。自分も、一時とはいえ彼になったのだ。だから、彼の気持ちは手に取るようにわかる。
自分と同じように彼は……。
キールの思考はそこで止まった。誰かを待っているかのように、自分の屋敷の前で佇んでいる、幼い頃より憧れ続けた女性の姿が目に入ったから。
「セリス……」
ほとんど脳を介さずに言葉が出てきた。その言葉で気がついたのか、セリスがキールに笑顔を向ける。
「あぁ、キールですか。こんなところで何をしているのですか?」
いつもの、幼馴染の自分に向ける優しい声。自分が彼に成り代わっていた時に見せた冷たさは微塵も感じられない。
「……それはこっちの台詞かな?セリスこそ、自分の家の前で何をやっているの?」
「私ですか?……何をやっているんでしょうね」
なんとなく自虐じみた言い方。笑顔もどことなく自嘲しているように思える。
「誰かを待っていたように見えるけど?」
「そうですね……待っていた、確かにそうかもしれません」
セリスは、その美しいダークブルーの瞳をキールに向けた。
「私はあなたを待っていました」
ドクンッ。
自分が期待するような意味でないことは百も承知だが、それでもその言葉に心臓が高鳴る。
「僕を待っていた?」
「えぇ。……正確にはここに来るであろう誰かを待っていました」
あぁ、そういうことか。
キールは朗らかな笑みを浮かべた。それはどこか諦めたようにも、安堵したようにも見える。
キールは真っ直ぐにセリスの瞳を見据えると、静かに口を開いた。
「セリス、僕は君が好きだ」
「……えっ?」
セリスの大きく見開かれた瞳を見て、キールは内心、苦笑いを浮かべる。やはり気がついてはいなかったようだ。そういうところもセリスらしい。
「……本気で言っていますか?」
「あぁ、本気だ。僕は小さい頃からずっと君に憧れていた。ずっと君の側にいたいと思った」
キールは長年の間、自分の心にしまい込んでいた思いをぶちまける。
「どんな時でも君の事を考えていた。いつだって君に会いたいと思っていた」
言葉にすればするほど、自分身体が軽くなっていく気がした。
「君だけを見続け、君だけのために生きてきた」
彼の言葉に耳を傾けず、この思いを押し殺していたら、自分は溺死していただろう。
「セリス、僕は君のことを、この世界で一番愛している」
最初こそ驚いていたセリスだったが、途中から真剣な表情でキールの告白を聞いていた。そんなセリスを見ながら、キールはなぜか楽しげに笑う。
「……なぜ笑うんですか?」
「ふふ、ごめんね。セリスがあんまり真面目な顔で聞いてくれるから」
「……真剣な告白をないがしろにするほど無粋ではありません」
「セリスはそういう女性だったね。……でもね、笑ったのにはもう一つ理由があるんだよ」
「なんですか?」
セリスが不思議そうに首をかしげる。そんな仕草も、キールにとっては愛おしかった。だから、本当はこんなこと言いたくない。言いたくないけど、事実だからしょうがない。
キールは諦めたような笑みを浮かべる。
「世界で一番君を愛していると思っていたけど、違ったみたいだ」
「えっ?」
キールの言葉を聞いて、セリスは目をぱちくりと瞬かせた。
これ以上ないってくらいに想っている自信があったのに、それを軽々凌駕していく。そういうところも嫌いなんだ。
「いや、そんなことはいいんだ。大事なのは僕が君を愛しているという事実だけ」
彼も言っていた。俺もセリスも関係ない、お前がどうしたいのかって。自分は真正面から自分の思いをぶつけたい、それだけだ。
セリスが再び真剣な表情を浮かべる。キールはそれ以上何も言わずにセリスの言葉を待った。
どれくらいの時間がたっただろうか、実際には十秒程度だが、キールには永遠の時間のように感じた。
セリスは静かに、そしてゆっくりと頭を下げる。
「……キールの気持ちに応えることはできません」
心の底から申し訳なさそうに告げられた言葉。そして、頭の中で思い描いていたものと全く同じ台詞。
「そっか。理由は……聞かなくてもわかるかな?」
「……ごめんなさい」
「別に悪いことをしたわけじゃないんだから謝らないで。……それに謝らなければいけないのは僕の方だよ」
キールの言葉を、セリスは首を左右に振って否定する。
「いえ、その件は私に謝ることではありません」
「……そうだね。後で彼に謝らないと。でも、どうせ彼は真面目に謝らせてくれないんだろうな」
キールが困り顔で微笑んだ。セリスも少し寂しげに笑う。
「あの人は……そういう人ですから」
その声に深い愛情が注がれているのは、付き合いの長いキールじゃなくても気づくだろう。それほどセリスの声は慈しむように優しかった。
だから、不意に聞いてみたくなった。それを聞くのは少しだけ怖かったが、今日は自分の思うままに行動しようと決めたのだ。
「もし、僕が彼のまま告白していたら、セリスはどうしてたかな?」
「そうですね……」
セリスが思案気に目を伏せる。そして、ゆっくりとキールの顔を見つめると、抑揚のない声で告げた。
「そうしたら、私はあなたを一生許しませんでした」
その言葉だけで、セリスがどれほど彼のことを強く思っているのか、痛い程理解することができた。キールはセリスから目を逸らしながら、不器用に笑うことしかできない。
「そっか……」
「えぇ。ですが……」
セリスは柔らかな笑みをキールに向ける。その笑顔が余りにも魅力的で、キールは思わずぽーっと見惚れてしまった。
「あなたはちゃんと自分の姿で、自分の言葉で思いを告げてくれました。それはとても単純なことですが、とても難しいことです。……少なくとも私には真似できません」
なんで目の前にいるこの人は、こんなにも穏やかにほほ笑んでいるというのに、こんなにも泣きそうなんだろうか。
キールの胸が締め付けられて悲鳴を上げている。自分の手で何とかしてやりたい、悲しみに暮れる彼女の心を癒してやりたい。
だが、自分の中にいるもう一人の自分が冷静に告げる。セリスの悲しみを癒すのは自分の役目ではない、と。
キールは何かを耐えるように目を閉じると、静かに踵を返した。そして、セリスに背を向けながら小さな声で語りかける。
「……彼を信頼しているんだろう?だったら、そんなに思い悩む必要なんてないよ」
それだけ告げると、キールはもと来た道を戻っていた。必死に走ってここへと来た時とは違い、ゆっくりと一歩一歩踏みしめるように。
一人残されたセリスは、キールが言った最後の言葉を、頭の中で反芻していた。