08
魔力の渦巻く地下の小部屋。苔むした石壁を伝って扉を開くと、見慣れた王宮の一室が俺を迎えた。立てかけられた俺とクローディアの写真。人の気配のない豪奢なその部屋は。つい最近、見たはずの場所だった。
息ができる。手の、足の、体の感覚がある。
俺は幽霊ではない。もう、幽霊ではない――
「こ、こは……」
……クローディアの部屋。
クローディアの部屋の隠し扉の向こう、その地下に俺の体があった事になる、これは一体どういう事だ。理解ができない。俺の死体を隠していた事を疑わしいと断じる事もできよう。けれど、いくら魔女だと噂されようが、呪われた娘だと言われようが本当の彼女を俺は知っている。知ってしまったのだ。
――疎んじていただけだった時とは、もう違う。俺の前で彼女が泣きじゃくったあの瞬間から、世界は少しだけ色を変えて、俺の前で彼女が笑ったあの瞬間から、世界は少しだけ鮮やかになって。
そんな彼女は、おそらく今危機に陥っている。実の親であるゲオルグの手に寄って。
「クローディア……!」
彼女は何処だ。辺りを見渡しても人の気配は感じられない、扉の向こうを行き交っているであろう侍従や侍女たちの気配もまた、なかった。
走る。扉を開く。廊下には誰もいない。兵士の姿もない。これは好都合か、それとも不都合か。人を探して走り回っているうちに息が乱れた。久しぶりに動いたからか、心臓が酷く脈打って息苦しい。嗚呼でも、その全てが俺が生きている証だ。クローディアと、アリシアと、同じ世界に生きている、その証だ。
あちこち走り回って、人の気配のある所を探して走る最中だった俺は本当に運がよかったのだと思う。この時ばかりは天運に感謝した。
王宮切っての宮廷へと続く渡り廊下を歩く複数人の影。護衛に付き添われて歩んでいく、パーティドレスの可憐な金髪の後ろ姿。
「アリシア!」
大声で叫ぶと、護衛に向かって何事かを捲し立てていたアリシアがはっと振り向いた。
「お、お兄様……!?」
「レオンハルト様!」
兵士たちが口々に驚愕する。アリシアは魂が抜けそうな顔をしていたが、肩を掴んでがくがく揺さぶって正気を取り戻させる。
「何が起こった、何があった!?クローディアが今どうなっているか、お前たち、知っているか!?」
「そ、それが、レオンハルト様……い、いや、本当によくぞご無事で……わたくしども、殿下はもう死んでしまわれたとばかり……一体何故助かられ」
「黙って。お兄様には私から説明します。いいわね」
華奢な少女は深呼吸をする。髪につけた小振りな向日葵の髪飾りも、黄色の腰を絞ったドレスもまるで花のように美しいが、それに飾り立てられた少女の眼差しはきつく、怒りで周りを焼き付くさんばかりだった。
「ゲオルグ様は、お姉様を無理矢理王位につけるつもりよ。今夜はそのパーティ-。うちにも招待状が来たの、レオンハルト王子亡き今、王妃のはずだったクローディア姫を正式な王位継承者にするって」
息が、乱れた。
どういうことだ。
どういうことだ?
「無茶苦茶だ……!俺のいない所でそのような勝手が許されると……!?」
「お兄様は死んでいたでしょう」
なんだか酷い響きだな。
「そ、れはそうだが」
とにかくね、とアリシアは続ける。
「ゲオルグ様は血統も正しい素晴らしい聖職者だわ。裏で無理矢理手を回せば、王位継承権をあまり重んじる事がないこの国で、王族の遠縁の娘を――つまり、クローディアお姉様を王にするなんて簡単な事なのよ」
「な、に……!?」
「このままだとお姉様は望まぬ王になり、お兄様は恐らく死者の蘇りだと誹りを受けて処刑でしょう。……絶対にいや!絶対にいやよそんなの!」
地団駄を踏むようにして彼女は言う。それから、パーティが今まさに行われているであろう扉の向こうを射貫くように睨んだ。纏った黄色のドレスがめらりと燃え上がる炎の色のように見えて、俺は慌てて腕を掴む。柔らかな絹に包まれた華奢な腕。
「待て、アリシア!……俺も行く」
息を呑む音。小さく、溜息。それから彼女は笑った。
太陽の姫らしいぱっとした笑顔ではなくて、悪巧みをする魔女のような。
「……では、お姉さまのヒーロー役は任せました。アリシアは援護射撃するわ。あの詐欺神官、けちょんけちょんにしてやる!」
「頼もしい。ところでお前、笑い方がちょっと悪巧みする時クローディアに似てきてないか?」
「本当!?嬉しい!」
「褒めてないからな」
息を吸って、吐いた。
まだ、分からない事は沢山ある。けれど、君の気持ちが知りたいのは本当だ、クローディア。今、何を考えている?何を持って、王位を簒奪しようとする父親に身を委ねたのだ?
どちらでもよかった。どちらでも構わなかった。
――今から、君を、迎えに行く。
扉を開く。
今まさに、新たな王位継承者が王冠を戴こうとしていた所。ああ、後ろ姿でも分かる。スミレ色のドレス。長い黒髪。美しくほっそりとした、その背中。ずっと触れたかった、その人だと。
「その戴冠、待った!」
朗々と声を響かせて、幽霊王子は悪役だったはずの令嬢を助けに馳せ参じる。
「殿下……!?」「レオンハルト殿下だと、生きて……!?」「おお、おお、生きておられた……!」「殿下だ、レオンハルト殿下だ、本物だ……!」
ざわつくパーティ会場。まるで小石を落とした水のように波紋が、囁きが広がっていく。煌めくシャンデリアの下、マントを翻した美貌の王子はまるで彫像の如し美しさと、異様な迫力を持って辺りにいるドレスの女性たちを分け、燕尾服の男たちを遠のかせた。彼は一歩、一歩と戴冠するはずだった令嬢に近づいていく。振り向いた令嬢の、光のない菫色の麗しい瞳から、――つうと、涙が落ちた。
ぎくしゃくと、娘は糸が切れた人形のように振り向く。――その瞳に、光が、ない。
「ゲオルグ……!貴様、クローディアに操りの術を掛けたな!?」
「おや、もうお着きとは……お早いですねえ、殿下」
からかうような柔らかい声にカッと怒りが燃え上がる。
魔術の中には人の意識をなくさせて、自らの思うがままに操る術もあるという。幼い頃学んだ魔術の授業、その中にあった一つの項目が脳裏を過って。
けれども、それも一瞬。
掠れた、声が。耳を打った。
「レオン、ハルト、さま……?」
愛おしい声が。
数歩の距離が、何万歩にも感じた。歩み寄る。触れる。
すり抜けない。もう、すり抜けない。
「ああ、ああ。クローディア、迎えに来た、お前を助けに来た」
跪いていた彼女が崩れ落ちそうになるのを支える。
「信じていました、ずっと……」
「それは光栄だ」
何度も幽霊になってから、抱きしめたいと思って。できなかった事が、漸くできた。花のような彼女の香りを感じた。さらさらと美しい黒髪に指を通すとえもいわれぬ心地にさせられた。あんなにも焦がれたものが、腕の中にある。
縋るように抱きしめてくる白い腕。愛おしい腕。嗚呼、こんなにも大切だったのに、どうして疎んじてしまったのか。
赤い柔らかな絨毯の上で抱き合う二人に、おざなりな拍手が落ちた。
「いやあ殿下、随分と劇的なご登場で」
「ゲオルグ……」
立ち上がり、クローディアを背中に庇う。ふらついた彼女を支えたのはアリシアで、太陽の姫は月の姫を守るようにして、白いクローディアの手をぎゅっと握った。
寄り添う菫色のドレスと菜の花の色のドレスの娘たちは、王子の後ろに控えながらも事の首謀者に視線を向ける。太陽の娘は射殺すように、月の娘は困惑と動揺を込めて。
それに気づいていない筈もないだろうに、彼はふわりと微笑む。その顔はいつもの『やさしいかみさま』の顔と全く変わらず、逆に不気味だった。
「もうちょっとで全てがクローディアのモノになったのになあ、残念ですよ」
「陰謀を図った事を認めるのか、ゲオルグ!」
彼は微笑んだまま、宮廷の人々を見回した。明るい光の中にいるのが当然だと思っている人々を。口の端を持ち上げて、嗤いながら。
「だって酷いでしょう?宮廷の人たちは皆可愛いこの子を魔女だという。酷い娘、呪いの娘、殿下の事を無理矢理奪った娘だって。そんなの、親として許しておけないでしょう?愛しているんだから許しておけないでしょう?だから、彼女がそういう奴らを思うままにできるような地位をあげたかったんですよ」
「そんな事を、クローディアは望まない……!」
「おや殿下、随分と幽霊でいらっしゃる間にあの子と仲良くなったんですねぇ、いいことです。……そう、クローディアは望まなかった。だから、あなたに毒針を突き刺したんですよ」
「ど、ういう……?」
彼は滔々と何かに魅せられたかのように語った。
己が語るべきではない事まで、語った。
「私が、クローディアの王位のために殿下を殺す前に……殿下が死んだ事にするために。
あなたを仮死状態にする毒を盛ったんだ、クローディアは。私を出し抜いてね。
私は殿下を殺そうと、図書館で致死毒を幾つか信者に見繕わせ、毒針を用意しました。
が――殿下を守る魔力が強すぎた上に、何処にあなたの『仮死状態の体』があるか分からず、何もできなかった。
全ては、彼女の抵抗の結果。
あなたが幽霊になったのも、あなたが今この瞬間生きているのも。全ては私の娘のもくろみ通りというわけです――ふふ、遅い反抗期かな?可愛いクローディア。
お前が王になれば私も国を支配できたのに。私の駒として動かなかったお前はもう要らないよ、何処へなりとも行くといい、ふふ、あはは、あははははは!」
「――っ、……ゲオルグを捕らえろ!」
俺は叫んだ。壊れた神官を、これ以上娘であるクローディアの前に置いておきたくなかった。彼を尊敬していたアリシアの前にもさらしておきたくなかった。
クローディアの愛のためだとうそぶきながら、結局は己の欲望のために彼女を利用した男
壊れたように笑い続ける神官を、兵士たちが取り押さえる。乱暴に、王位簒奪を目論んだ相手を捕らえるに相応しい暴力を持って。思い切り殴りつけられ、唇が切れて血が流れても、それでもゲオルグは笑っていた。満足そうに。まるで自らの望みを全て達したかのように。
クローディアは彼から向けられた言葉に立ち尽くしながら、父親が連行されていくのをただ見守っていたが、やがて――笑った。
「クローディア……?」
「いいえ、レオンハルト様。……相変わらず、お父様はお馬鹿さんなのだと、そう思っただけですよ」
笑いかけた。すみれ色の瞳で、美しい黒髪を揺らして。彼女は、父親に歩み寄る。連行されていく父親に。
寄り添って、囁く。罪人に柔らかな手で触れる様はまるで魔女ではなく、聖女じみて美しかった。
「馬鹿なお父様。……今回お父様がした事は、とても許せる事ではありません。……でもね、わたくしの分まで、そんな風に悪者ぶらなくて、よかったのに」
彼女は囁いた。王子と、アリシアと、自分にしか伝わらないような声で。
あなたがわたくしを要らないと言えば、わたくしは王位簒奪を目論んだ魔女のような令嬢から、『父親から捨てられた可哀想な娘』に見えるようになるでしょう。
『私の駒として動かなかったお前はもういらないよ』
あなたがそう言えば、お父様に皆の憎しみが向き、わたくしに同情が集まり、わたくしが結果的に今までより幸せになると――あなたは思ったのでしょう。でもね。
お父様にそうしてもらわなくても、わたくし今から、きっと幸せになれますから。
だから、お父様――ありがとう。
「ああでも――反抗期は、そうだったのかもしれませんね。わたくしの幸せは、わたくしが決めます、お父様」
去りゆく父親の、見開かれた瞳。
罪人となった男の、つうと一条伝った涙に口づけを一つして。
悪役だったはずの令嬢は身を引いた。
悪役を引き継いだ父親の背中に向かって、深々と、彼女は頭を下げた。
こうして、一連の事件は幕を閉じた。
幽霊王子は生者へと戻り、王子を誑かした魔女だった筈の娘は『親に利用された可哀想な少女』へと宮廷内で評価を変じさせ、――神官は、彼の狙い通り悪魔と噂された。
そう、彼の、本当の望み通りに。
悪役だったはずの令嬢は、もういない。