03
俺が幽霊になって、二日目。残り五日。
「アリシア姫は現在お出かけしております」
アリシアを訪ねたクローディアに告げられたのは、侍女のそっけない一言だった。その目が、この魔女にうちの姫様を会わせるわけにはいかないと告げている。
恐らく、俺が真っ先に考えたように、彼女が俺を……アルバート王国第一王子を殺したのではないかという考えが使用人たちの間にも浸透しているのだろう。
クローディアが何度会いたいと言っても、いつ頃会えるのか聞いても返事は曖昧模糊としている。最終的にクローディアは肩を落として来た廊下を戻るしかなくなった。
「殿下、…ごめんなさい。アリシア嬢に会わせてさしあげられなくて。私の評判のせいですわね」
『いや、いいんだ……クローディアのせいではない。誤解する側も、良くないのだ。アリシアには、また明日にでも会いに来る事にしよう』
かつての俺自身がそうだったように、宮中には未だ誤解が渦巻いている。
死んでから、色々な事が生きていた頃より見えるようだ。菫の瞳に黒髪のこの娘は、色々不器用なだけなのだと理解してやれなかった。彼女の気持ちも聞かず、宮中に渦巻く噂だけを鵜呑みにして。
彼女に注がれる侍従や侍女たちの眼差しの鋭さは、かつての俺の写し鏡だ。そう思うと、やりきれないものがあった。どうしてもっと、この婚約者を見ていてやらなかったのかと。
だからこそ、俺は言う。幽霊になった馬鹿な王子は、悪役のように扱われる令嬢に声をかける。
『街へ行こう、クローディア。……手を取って、馬車に乗せてやれないのが口惜しいが。……ちゃんと、動きやすい格好をするんだぞ』
「まあ、殿下。……まるで、私の兄のような口ぶりですわね。アリシア姫のように、お兄様と私も呼ぼうかしら」
無表情で言われて、責められているのかと感じたが、彼女の唇がほんの少しだけ綻んでいたので冗談だと察する。少しだけ、わかるようになってきたかもしれない。まだ一日しか、側で見てはいないけれど。少しずつ、少しずつ。
『冗談はわかりやすく言ってくれ…』
「それは申し訳ありません」
彼女が笑みを押し隠すのが見えて、俺も少しだけ、笑った。
出かけるときに、アルバート王国の王族は大体が家紋の入った自分の家の馬車を使う。
しかし、そんな事をしては目立ちすぎるということで、彼女は辻馬車を選んだ。
紺色の長い外套の中に、三つ編みにした黒髪を隠し、白いワンピースと革靴という姿で現れた彼女。普段よりも少しだけ幼く見えて、何だか少しだけどきりとした。
『殿下?』
袖の下に隠した小さな手帳に書かれる文字。辻馬車には当然人が大勢乗っているので、口頭での会話はできない。
『どうなさったのです?上の空で』
『いや、そういう格好をしていると幼く可憐に見える』
あ、黙ってしまった。気恥ずかしいのか、うつむいた頬が少しだけ薄赤く染まっている。彼女は手帳を閉じて、何も言わなくなった。怒らせてしまったのか、気まずくなってしまったのか。後者だろう、と俺は思う。彼女相手にこんな文句は口にした事がなかったから、きっと照れているのだろう。
お互いに無言になったままの俺たちと数人の乗客を乗せて、馬車はいつの間にか街の中を走っていた。
がたごと、と揺れる中は決して快適ではないけれど、嫌なわけでもない。どちらかというと、物珍しさが先に立つ。街に降り立った彼女は街の中の風景にも目を少しだけ輝かせて(とはいってもほぼ無表情なのだが)、馬車から降り立った瞬間に辺りをくるくると見回した。
石畳を歩く沢山の鮮やかな靴。青い空、市場がほど近いのだろう、人々が客を呼び込む賑やかな声。それに答える声、笑う声。王宮の中の上品なだけのざわめきとは、全く別物だ。
俺の方を振り返る。フードが外れて、黒髪の一本で結った三つ編みがふわりと青空に揺れた。その美しさに周りの人々が振り返るも、本人はあまり頓着していない。
「レオンハルト様、人が、こんなに大勢……」
クローディアが一人で中空に話しかけていても、その声はかき消されるほどに賑わいが大きい。
『ああ。……クローディアは、外に出るのは初めてか』
「はい。初めてです、こんなに賑やかで……明るい場所は」
『意外だな……宮廷では、』
「夜な夜な城下で遊び歩いて、男を虜にしているとでも言われていましたか?」
『……よく知っているんだな』
「自分のことですから。聞きたくなくとも、嫌な話は耳に入るものです」
微かに憂いを帯びて沈んだ横顔に笑顔を取り戻してやりたくて、俺は明るい声を出した。
『そ、それより、クローディア、向こうに市場があるようだぞ』
「……市場ですか?」
『ああ。俺もあまりいったことはないのだが、異国の食べ物や、珍しいものが沢山集まっている。美味いものも、きれいなものもだ。行ってみたらどうだ』
「ええ……それは、興味深いですね」
いつも通りの無表情で頷いたクローディアは、俺の方を振り返って少しだけ、不意に、微笑んだ。
人形のような無機質な顔からはあまり想像のできない、人間味のある笑顔だった。
「……お優しいのですね。以前は、あんなにも疎んでいらっしゃったのに」
『……すまなかった。お前がこういう娘だと、事前に俺が、わかっていれば……』
「いいえ。誤解を与えるような振る舞いしかできなかった、私も、悪いのです」
『まあ、何を言おうが、もう……後の祭りだがな。だが、いいんだ、今俺はお前とこうしている。それだけで』
小さく呟いた言葉は確かに彼女の耳に届いたのだろう。
菫の瞳で微笑んで、彼女はそっと俺に歩み寄る。勿論周りからは、路上に立っている娘が立つ位置を変えただけにしか見えないだろう。
そうして彼女は。
彼女はそっと、俺の手を握るふりをした。実際には触れないし、指先はすりぬけるのだけれど、それでも俺と手を繋ぐふりを。
「……私も、それだけで充分です、殿下。今はこれだけで。……殿下、婚約者同士はどうだか知りませんけれど、世間の男女はこうして歩くのでしょう?」
『それは少し知識が偏っているような……』
「世間の仲睦まじい男女は、と言い換えるべきでしたかしら。……私、少なくとも今は……殿下に疎まれていない事を、こうして、……その、実感していたいのです……いけませんか」
もうないはずの心臓が、切なく音をたてるような気がした。ぎこちなく、握り返す。女の手を握ったことなど山とあるはずなのに。しかも、実際には触れてすらいないのに。
いけないわけがない、と言いたかった。
言いたかったのに、俺のその声は、不意に上げられた鋭い声に遮られた。
「クローディア嬢!」
市場の方へ向かいかけていた俺とクローディアは、その一言で立ち止まった。
立ち止まらざるを得なかった。人混みの中から出て来る兵士、兵士、兵士。赤い制服に高い帽子。王宮の軍直属の衛兵たちだ!
人混みが勢い良く割れていく。町中では喧嘩に仲裁として軍が出ているのはよく見るが、王宮直属の兵士が出て来るなんてただ事ではない。何度も街に忍んでいるからこそ分かることだが、これは相当目立つ状況だ。
『なんだ、お前たち!』
叫んでも声は当然のことながら伝わらない。クローディアを乱暴につかむ手を払いのける事もできない。
やってきた兵士たちに腕を掴まれたクローディアは、眉一つ動かさなかった。鉄壁の仮面のような無表情。美しき人形のような美姫。
さっきまで人間味のある可憐な少女に見えていた娘は、今はまた、瞬く間に氷のような令嬢の表情に戻っていた。
「何事です。離しなさい、無礼者。私は今大切な方とのお話の最中でした。不愉快です」
「大切な方?どなたも側にはいらっしゃらないようだが。……クローディア嬢。あなたには、アルバート王国第一王子、レオンハルト様の暗殺嫌疑がかかっています。同行してもらいますよ」
「……なんですって?」
「お姉さまはそんな事なさらないわ!」
完全なる不意打ちだった。
側に、家紋のある王家の馬車が通りかかる。きらめく金の髪が、陽光に光を弾く。
馬車の中から、聞き覚えのある声が、そう叫んだ。