騒 -time lag- 【2017年秋M3インスパイア】
初夏、とある月の金曜日。
高遠香奈は東京近郊で開催されている、研究製造に関する総合展を訪れていた。
とはいえ総合展の本来の目的――商談に対応する社員は別に複数派遣されているため、今回は人材育成プランに則った社外研修の一環として、同期の数名と共に会場内を見学して回るのみだから、いくぶんか気が楽だった。
ぶ……ぶぶ……
そのときふと鞄の中の携帯が震えたため慌てて取り出す。
『そっちはどう? 今どの辺にいる?』
夫である浩隆から届いたメッセージ。彼も今日は同じ会場に仕事で来ると言っていたから、どこかで会えるだろうとは思っていたけれど。しかし実際は、初めて入る広い会場と細かく複雑に割られたブース、そして多くの来場者に阻まれて、自分が迷わず歩くだけでも精一杯の状態だった。
『さっきセミナーが終わって、今は東5ホールにいるの』
会場案内図と周囲のブースを照らし合わせて現在位置を打ち込む。
『そうか。こっちは西1ホールの原料展で上司が商談中』
『まだ時間かかりそう?』
『いや。話はもう終盤だから大丈夫。君との待ち合わせには間に合うと思うよ』
お互いに今日は直帰だからと、終わり次第合流することにしていたが、商談ともなればその後どちらに転ぶか分からない。そのまま事後打ち合わせに発展することもあるだろうし、と予めの覚悟を忍ばせて返す。
『わかりました。適宜連絡ください』
少々突き放すような硬い文面になってしまったが仕方あるまい。腕時計の長針は既に16時を回っているし、17時には自分も一旦指定場所に集合して、研修担当の点呼を得ねばならない。
「さぁて。こっちもスパートかけようかな」
携帯を鞄にしまいこみ顔を上げる。
残りあと少しの時間でどのくらいのブースを回れるだろうか。
その後の連絡を期待しつつ、手にした案内図を再び開くと歩き出した。
++++++++++++++
「お疲れ様でした」
17時10分。エントランスプラザで点呼を受け晴れて解散となったところで、香奈は急いで携帯を取り出した。
結局あの後向かったブースで思いのほか製品説明に熱中してしまい、今の今までメッセージを確認できなかったのだ。
『こっちは首尾よく終了。今西1ホール前のエスカレーター近くにいます。そっちはどうかな?』
届いたのが10分前だから、おそらくは待ってくれているだろう。急がなきゃと顔を上げたところで同僚に声をかけられる。
「ねぇ、あたしたちもう少し会場見ていくけど、香奈はどうする?」
「え、えっと……あたし、ちょっと約束があるから!」
ごめん、と短く残してすぐさま西ホールへと駆け出す。一日中会場を歩き回って足がパンパンなはずだったが、思ったよりも足取りは軽く運んだ。
そうしてたどり着いたその場所。しかし、見回せども彼の姿は見えない。
「あれ?」
ここにいるはずなのに、と携帯を確かめた直後。
「あ」
再びの振動。
『ごめん、同僚に東3ホールまで引っ張られてきちゃった』
「あー……」
どうやら点呼に時間を要していた間に、背後をかすめて行ってしまったようだ。小さな溜息をつきつつ、気を取り直して東3ホールへ向かう。中へ入り、そろそろ撤収の気配がし始めた通路を進みながら、『今どのあたりにいるの?』と今度はこちらから送ってみる。
『知り合いがまだいるっていうから、挨拶をしに東5ホールに移動してきた』
えっと小さく叫び、くるりと踵を返す。そこなら真向いだしさほど時間はかかるまい。半ば駆け足で会場を渡り、1時間ほど前に自分がいたその場所へと足を踏み入れたその時だった。
『カナちゃん、今どこにいるの?』
少し焦りの覗くメッセージが届いた。
『東5ホールだけど』
『エントランスプラザじゃなくて? 今そっちに向っているんだけど……』
思いもよらなかった展開。その直後、きゅっと切なく胸が傷んだ。
なかなかかみ合わない、何度とないすれ違い。もしかしたらこのまま合流できないのだろうかと、最悪の結果が脳裏をよぎって混乱する。
まさか、そんなことがあるはずがない。だって、二人共この周辺にいるわけだし。
当たり前の事実を被せて平静さを取り戻す。
「……馬鹿みたい」
こんな些細なことで不安になるなど、どれだけ彼に寄りかかっているのだ。すっかり弱くなった自分を省みつつ、じわりと滲んでいた涙をぬぐうと、今度こそ重くなった足を踏み出した。
大丈夫よ。
今度こそ。
それだけを思い、それだけを願い、歩みを進める。
そうしてエスカレーターを上り、ブリッジからコンコースを抜けたところで……
「カナちゃん!」
サービスコーナーの前で手を上げた彼の姿を見止める。ほっとしたような笑顔と共に名を呼ばれるや、思慕が急激に湧き立ち、香奈はそのまま彼の胸に飛び込んだ。
「か、カナちゃん? どうしたの……」
照れたような、慌てたような声を無視してスーツの襟をギュッと掴む。
「大分待たせちゃってごめんね。それにしても、なんで東ホールに?」
「え」
「だって夕べのうちに、エントランスプラザを待ち合わせ場所にって決めていただろう? 君らが点呼する場所だからって。だからそこで待ってるんだろうって……でもさっき『東ホールに居る』って送られてきたから、いっそ探しに行こうかと思ってたんだ」
彼の戸惑うばかりの言に、今更ながら夕べのやり取りを思い出す。加えてこれまでの自身の行動をも思い起こし、現在位置を伝えていなかった事実に気づいて香奈は愕然とした。
完全なる物忘れ、そして空回りの末の無益な問答。
「ばかみたい……」
今度は羞恥に顔を上げられなくなる。そんな様子を責めることもなく、彼は小さく息を吐いてから頭を優しく撫でてくれた。
「ごめんね」
「何が? カナちゃんに謝られるようなこと、何にもされてないよ?」
「とにかくごめん!」
半ば勢いで圧し、はいと返事を得てから顔を上げる。
「あっ、香奈ー!」
その直後、通路の向こう側から名を呼ばれ驚いてそちらを見やる。すると先ほど別れた数人の同期の女子たちが、西ホールの方向からこちらに歩いてくるのが見てとれた。
「あれ? 先に帰ったと思ってたのに、まだ会場にいたんだ?」
時計を見ればもう18時。30分以上も近辺を徘徊し続けていたことに、改めてげんなりと溜息をついて、身体の疲れを再認識した。
「ああ……うん、まぁね」
「ところでこちらの方は? 知り合い?」
同僚たちがどこかおずおずと覗ってくる。今更ながら、掴んでいた襟を離してわたわたと場を繕った。
「えっとあのね、彼は」
「香奈の同僚の方ですか? はじめまして、国枝と言います」
解説するより前に、彼が自ら名乗りを上げる。人当りのいい笑みと共に向けられたそれに、彼女らの身体にピンと一本芯が入ったのが分かった。
「いつも妻がお世話になっています」
「え゛ッ?!」
告いだそれに思わずの反応が全員から漏れ出す。驚きと興味と興奮とがないまぜになったその中で、香奈は一人堪えきれなくなって顔を真っ赤に染めた。そんな様子もものともせず、浩隆はにこにこと笑いながら続ける。
「では、僕らは先に失礼しますね。皆さんもお気をつけて」
「え、あ、はい! お疲れ様でしたッ!!」
皆が皆揃って直角に頭を下げる。なぜか丁重に見送られる羽目になり、なおのこと恥ずかしくなって身体を小さく縮めた。そんな心境を知ってか知らずか、おもむろに背中に回された彼の手に促されながら、駅の方へと一緒に歩き出す。
閉会し帰路に就こうとする人波に紛れながら、そっと彼の横顔を覗ってひそりと溜息をついた。入籍は先月のうちに済ませてはいたが、業務連絡の都合もあって社内では旧姓使用で通している。だから知らない人間はまだ大勢いるのだ。それなのに、まさかこのタイミングで、しかも自ら暴露しようとは。
「だから、そういうところが……」
「ん? 何か言った?」
あっけらかんとしたその表情に、先ほどまでの不安から一転、ふつふつとした怒りが一気に湧き上がって。
「色々心臓に悪いのよッ! バカッ!」
言いながらその頬に軽い拳をかまし、香奈は反動でゆるみ落ちそうになる頬を必死の思いで引き上げた。
元ネタ(?)提供は、ひろかなボイスドラマで二人の声を担当していただいたジョン・ドウさんとhana10さん。お二人が2017年秋のM3でされていたやりとりあっての小話です(笑)
お二人とも、水成へのパワー充填ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。
ところで……今回題材として使ったイベントと会場はそこはかとなくどころかしっかり実在します(笑)
特に会場はお分かりになる方の方も多いのではないかと……業界ではもちろん有名だしね。
展示会の方も検索かけると出てくると思います。てか確実に出てきます(笑