七凪町萬奇譚 王と魔女(見習い未満)
玉砂利を踏みしめて数歩、細い木戸道の奥の右手にある、重厚な黒い木製の扉の前に、私はかれこれ10分程立ち尽くしていた。
「ううっ、敷居が高いです……」
深呼吸をして扉を開けようとするも躊躇することもはや……何度目だろう?
この先に在るのはただの喫茶店だ。知る人ぞ知るというよりむしろ知る人しか知らない、というべき常連客以外はほぼ来た事がないという謎の喫茶店。先日たまたま縁が在って、同級生の男の子が連れて行ってくれたのだけど……何故か何時の間にか、私の紅茶に垂らされていた香り付けのブランデーの分量が増加していて……確か最後のほうは紅茶入りブランデーと化していたらしい。
お酒の飲むのも初めてな私は、その、相当弾けちゃってしまい……泣くわ笑うわ喚くわ騒ぐわ迫るわ脱ごうとするわで、意識の飛ぶ寸前の最後の最後には、よりによって制止しようとしてくれた同級生、浦瀬君の胸で……その……えーっと……は、吐いちゃったりなんかしたみたいで……あぁああああああああ~~、う、埋まりたいっ! いくら誘われて一緒に喫茶店に入っちゃったりとかで浮かれちゃったとはいえ、か、片思いの相手に向かってゲロを吐いちゃうなんてどうなの?
で、気がついたら知らない部屋で目を覚ましたりなんかしちゃって、そこは浦瀬君の知り合いの家だとかで、家主の方にはお会いできなかったけど、浦瀬君の手料理なんか頂いちゃったりして……ま、まあ、二日酔いだったんでお粥だったんだけど……あぁ、どうして私っていつもいつもいつもいつも肝心なところで駄目なんだろ。
はふぅ、と溜息一つ。真面目で堅物な委員長なんて言われてはいるけれど。ほんとの私はぜんぜん駄目だ。他人の目が気になる、他人の評価が気になる、決められたルールに従っていなければ安心出来ない小心者。
それが私。ちっぽけで臆病な私。
そんな自分が嫌で、そんな自分を変えたいと、ある日この手に転がり込んできた神秘に手を伸ばしてみたけれど、やっぱり私は私以外にはなれないと気がついて。
「結局、駄目なままよね、私って」
私は首から提げたペンダントのトップ、小さな黒い宝玉を右手できゅっと握り締めた。あの日手にした祝福を。今の私を縛る呪詛を。
「……帰ろ」
まあ、紅茶内のアルコール分増加の犯人は間違いなくここのスタッフさんで、私を弄るのにノリノリだったのはここの常連さん達だったのは事実だけど、私がこの店で暴れ騒いでついでに吐いちゃったのもまた事実。せめてその分の謝罪くらいは……とか思ったんだけど、私の想像以上にこのお店の敷居は高すぎる。
くるり、と踵を反して、玉砂利を踏みしめて一歩目を踏み出した私の視界は、しかしながら黒い影に覆われていた。
「へ?」
振り向いた先に在った黒い“何か”にぶつかったのだと気が付いたのは、顔面に走った硬い感触に、脳の理解が追いついたから。私がぶつかった“何か”は大地に根を生やしたかのように微塵も揺るぐこと無く、現実にすら足が付いていなかった私はいとも簡単に跳ね返されてバランスを崩してしまい。ぐらり、と揺れた視界は一気に上へ上へと堕ちて、青い空と黒く染まる屋根の影とそして、影絵のような姿の……。
次の瞬間、まるで時間を巻き戻したかのように、私は前へと引っ張られていた。頬に当たる感触は柔らかな黒い布地。ふわりと優しくて大きなものに包まれている。
「ああ、失礼。驚かせてしまいましたか」
何が起こったのか理解出来ていない私の頭上から、低く、そして穏やかな声が落ちてくる。そこで私は、自分が逞しい腕に抱き留められている事にようやく気がついた。
「え? え! あ、あ、あの、あのあのあの、わ、わた、私、その、ご、ごめ、ん……な、さ……」
大慌てで私を抱き留めた広い胸板から顔を引き起こして上を見上げた私が、パニックに陥りながらも辛うじて口にしていた謝罪の言葉は、しかしながら途中で止まっていた。いや、違う。飲み込んでしまったのだ、言葉を。
私の真上、見下ろすような位置に有る、柔らかい微笑みを浮かべた、彫りの深い白皙の容貌。長い長い、闇の色の髪。そして縁の無い眼鏡の奥に在る琥珀の瞳。そこに居たのは、白いシャツに黒いベスト、そして黒いスラックスというぱりっとした格好をした、私が今まで見た誰よりも背の高い男の人だった。
ゴクリ、と喉のなる音が私の内側に響く。
分かる。私には、今の私にははっきりと分かる。これは違うモノだと。これは途轍もなく怖いモノだと。イメージは闇。人の姿をした暗黒。この世界に相容れない異質。
私の眼の奥の恐怖を読み取ったのか、その人は微笑んだ瞳に苦笑の色を浮かべた。
「随分と勘の良いお嬢さんですね。……なるほど、では貴女がツキムラ・ショウコさんですか?」
「………………あ。……は、はい、そ、そうです!」
私の慌てっぷりが面白かったのか、目の前の男性は笑みを深くすると、静かに私をその腕から解放して一歩だけ後ろに下がってくれた。それでも、その視線は私より遙かに高い位置で、目を合わせるには少々首が痛い。
「ふーむ、なるほど。話に聞いていた通りの方ですね。……あの二人が気に入る訳だ」
「あの……貴方は……あの、一体……?」
「? ああ、これは失礼しました」
小さく後退りながらの私の疑問に、その人は表情から笑みを消して眼を伏せる。そのまま胸に右手を当てると優美な動作で一礼してみせた。
「私が当店の主人です。先日は所用にて不在でしたからお会いするのは初めてですね、ショーコさん」
「……え? …………ええっ!! え、あ、あの、と、透子さんがお店の店長さんじゃなかったんですか!?」
私の驚きに、頭を上げたその人、マスターさんは小さく笑い声を上げる。
「いえいえ、透子さんは私のお嫁さんですよ。まあ、彼女は殆どの時間店に居着いている我が店の主ではありますけど、ね」
「は、はぁ……」
えっと、つまりあの小さくてフワフワした透子さんは店員さんで、こののっぽさんがマスターさんで、で、透子さんはこの人のお嫁さんで、お嫁さんっていうのは結婚しているってことで、え? ええ!?
「と、透子さんって、透子さんって、人妻さんだったんですか!?」
だ、だって身長差が50㎝以上ほどありそうだよ? いや、身長で結婚する訳じゃないんだろうけど、でもだって、だって。
「ええ。まあ、私には戸籍が無いのであくまで形の上、ですけどね」
「はあ」
何か、頭の中が真っ白だった。多分、ものすごく間抜けな顔をしてたのだろう。そんな私をくすくす笑いながら、マスターさんはその大きな手のひらで、ぽんぽんと私の頭を軽く叩いた。
「だからね、安心して下さい。フミトと透子さんの友人に手出しはしませんから。そんなに怖がる必要はありませんよ」
「あ」
何だろう、違和感は未だ感じている。けれども。この恐怖は噛み殺すべき感情だ。
「はいっ、よろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
どうせ私も今や非常識にどっぷり足を突っ込んだ身。今更他人の存在にどうこう言える資格も無いだろう。どうせ私も異質枠に入ってるんだろうし。
高く遠い青い空。私の目指さなければいけないところはそのくらい遠いのだろうけど。
今はこの縁に感謝しよう。少なくとも私は一人じゃないんだから。