空駆ける
背を叩かれて顔を上げると、不機嫌そうに目を眇めた男と視線がかち合った。
「マーク、これが君の相棒になるクリス・スティレットだ。名前くらい知っているだろう? おいクリス、新しい副操縦士のマカエラ・カッツバルケルだぞ。仲良くやれよ」
「どうぞよろしく」
精一杯、明るい笑顔を作って右手を差し出したけれど、男は冷たい一瞥のあと、踵を返して調整中の〈イブラゼル〉の操縦室へもぐりこんだ。
行き場のない手を突き出したままでいると、上司であるバルク第三大隊長が苦笑とともに解説してくれる。
「あいつ、腕は一流なんだが、気難しくてな。とくにあの〈イバラエ〉のときから。まあ、悪い奴じゃないし、腕は確かだ。大丈夫、うまくやれるさ」
自信に満ちた笑顔を浮かべて、バルク大隊長は分厚い掌で私のお尻をひっぱたき、豪快に笑って去っていった。熊のような巨体は、整備場の奥にある管制室に繋がる階段に消えた。
いきなり萎えた気力を奮い起こして、あたりを見回す。
高い天井には作業灯が輝き、アームやらコンプレッサーやらが、ごちゃごちゃとぶら下がっている。その下には、内臓機器をぶちまけた〈メグメル〉〈ティルナノグ〉〈イブラゼル〉など、最新鋭の戦闘機が並べられ、薄汚れたつなぎの作業員達が、油まみれになりながら調整作業にかかっていた。
上下開閉式の扉を通って新たな機体が運ばれてくる。向こうは格納庫で、格納庫の向こうには滑走路が続いている。この整備場は位置的に、基地の中心部にあたる。
オグル帝国空軍中央基地。初めて足を踏み入れたこの要塞は、外観ののっぺりとした灰色の箱の印象とは程遠く、雑多で入り組んでいた。
「ほら、どいたどいた!」
突き飛ばされ、たたらを踏む。つなぎの作業員二人が、工具箱を手にして全力疾走していく。次々と運び込まれる戦闘機が、列を成しているのだから仕方がない。
私は、先ほど無視された相棒のところへむかった。操縦室にかかるはしごをのぼると、ぐっと視界が開ける。身を乗り出して、操縦席を覗き込むと、果たしてあのクリスがむっつりとした顔でなにやら機器をぽちぽち動かしていた。レーダーを点検している模様だ。
その手つきは板についていて、なるほど〈蒼穹の死神〉という二つ名に相応しい。
青みがかった黒髪に、白く滑らかな肌。彫刻のように均整の取れた横顔の輪郭線から、睫がふっさりはみ出ている。アイスブルーの目は切れ長で、年の頃なら二十歳前後。
「何か用か」
「いや、別に……。あ、私も後部座席覗いていいですか」
答えは返ってこない。駄目といわれたわけじゃないからいいのだと判断し、するりと機体にもぐりこんだ。
後部座席に設えられた機器は非常に簡素で、前の操縦席と会話するための通信機、他機に合図を送るための信号装置、簡易のレーダー、それから左右の翼につけられた銃の発射装置だけだ。高度計がちょこんと乗っているが、操縦桿は非常ロックがかかり、普段は操縦席でしか機体を操作できないようになっている。
「へえ、こうなってるんだ」頭に叩き込んだ操縦方法を思い出しながら、一つ一つ確認する。
「お前、初陣は」
顔をあげると、アイスブルーの双眸がこちらを見下ろしている。彼は濃紺色の飛行つなぎを、上半身だけ脱いで腰で袖をしばった状態で、しなやかに発達した腕や胸の筋肉が、作業灯の下であきらかになっている。といっても、薄手のシャツを着ているので、肌を晒しているわけではない。他の連中は恥じることなく上半身裸なのに。
やっぱり、伯爵家の御令息は違うわけか。お上品なことで。
「まだですよ。模擬戦は二度ほど経験してますけれど」
「模擬戦? くそ、こんな素人が……」
口の中でぶつぶつ言いながら、クリスはまた操縦席に引っ込んだ。黒い頭の天辺だけが見える。その頭をひっぱたいてやりたくなった。
素人で当たり前だっての! 一週間で操縦法だけをとりあえず叩き込まれて、なぜ戦闘機が飛ぶのかなんて初歩の初歩も理解せずにここに送られてきたんだから!
心中で怒鳴って、いらいらと作業に戻る。とりあえず、楽しい新生活とはいかないようだ。
■■■
オグル帝国は、隣のツハーナン共和国と長きにわたって争い続けていた。ツハーナンに遊学していたオグルの皇太子が、共和国議員に殺害されたという事件が、この大戦争に発展した。当時まだ七歳だった私は、こまごました二国間のやりとりを覚えていないけれど、開戦当時、まさかこれほど長引くとは思わなかった。
二国の境に横たわる大河エシャン。大陸に切り込みを入れるように鋭角に始まるエシャン川は、その始点を落差百間程の大瀑布にしている。川は、橋を架けることもかなわない深く幅広の渓谷の底に横たわっているのだ。この別名〈女神の御髪〉を戦場に、二国が互いの航空技術の粋を集めた戦闘機を送りだし続け早十年。両国の力は拮抗していたが、先後月の〈イバラエの裏切り〉以降、はっきりとオグル側の不利が見え始めていた。航空部隊で〈神兵〉と畏怖されていたバゼラード大佐が、イバラエ山上空で、百数十名の部下を引き連れ離反したのだ。彼らは今、ツハーナンの空軍にいると聞く。
〈神兵〉と並んで天才の名をほしいままにしていた〈蒼穹の死神〉が、いくら敵機を葬ろうと焼け石に水。士気が下がりに下がった我が国の空軍は、脱走者が増え、戦場でも攻めきれず、もはや敗戦を待つだけの有象無象と化している。
〈イバラエ〉のときに、沢山の兵を失ったオグル帝は、悪あがきにも、新たな徴兵に乗り出した。そのおかげで、田舎でつつましく暮らしていた私もこんな血なまぐさい場所に担ぎ出されたのだ。父が病気だった、視力がよかった、試しに模擬戦に出てみたら、射撃がうまかった。その偶然が重なって。不運、というのはこういうとき使う言葉だ。
おまけに、あてがわれた相棒の無愛想なこと。
伯爵家の出で、天才的な操縦技術を持ち、参戦して五年間一度も被弾したことがないという記録を持つクリス・スティレット。〈蒼穹の死神〉だなんて大層な名前も、巷に知れ渡っている超有名人。そんな彼の補佐をやれると聞いたとき、にわかに心が騒いだが、今はその時の自分を殴ってやりたい。
■■■
「うえぇえ」
跪いて、滑走路の側溝に吐いていると、同じ隊の仲間であるアレイが「大丈夫か」と背をさすってくれた。しかし、吐き気はおさまりそうにない。涙と鼻水のおまけつきで、とてもじゃないけれど人に見せられない顔だ。
「役立たずめ」
冷たい声が背中にぶつかった。ごわごわの飛行用つなぎの袖で顔をぬぐって振り返ると、〈イブラゼル〉に背を預けたクリスがいた。
「誰のせいよ! あんたが無茶な操縦するからじゃない!」
叫ぶそばから吐き気がこみ上げて、また下を向く。屈辱だ。
「あれで無茶だと? 馬鹿か、お前は。自分を見ろ。お前は今日、何機落とした? 一機でもその弾がかすったか? やる気がないなら、さっさと別の奴とかわれ」
ようやくえずきが落ち着いて、口をぬぐって顔を上げる。全力で睨みつけると、呼応するように、クリスのアイスブルーの目も細くなった。
「別の人がいるならとっくにかわってるわよ! 好きでこんなところ来たんじゃないわ! いきなり徴兵役員が来て、わけのわからない射撃の試験うけさせられて、満点だったからって連れてこられたのよ! 病気の親父の代わりにね!」
背中をさすってくれているアレイが「満点って、そりゃお前連れてこられるだろ」と驚いた声を出したが、無視。そんなの、知ったこっちゃあない。
「はっ。くだらない。どうせまぐれで満点だったんだろう。さっさと帰ったらどうだ。なんなら俺から隊長に頼んでやってもいい」
「帰ったら兵役放棄で投獄じゃない。馬鹿なこと言わないでよ。本当に性格悪いわね、あんた。操縦にも表れてるわ、それ。友達いないでしょ!」
「うるさい!」
それまで余裕で腕組みをしていたクリスが、表情を変えた。アイスブルーの目が、まるで沸き立つ熱湯のようにぐらぐら煮えている。私の言葉の何かが、逆鱗に触れたらしい。整った眉を吊り上げる怒りの表情は迫力がある。だけど、ここで負けるわけにはいかない。私も平民の意地を総動員させて、彼をねめつけた。
じりじりと距離をつめて、お互いの胸倉を掴む。私は頭一つ半分背が低いので、爪先立ちになる。凍れる双眸に、自分の顔がうつっている。
「お前みたいな、戦場のなんたるかも知らない女が、偉そうに操縦桿を握ることが許せない」
「あんたみたいな、戦場しかしらないボンボンが、偉そうに説教するんじゃないわよ」
「おいおいおいおい、二人とも、止せってば」
間に割って入ろうとするアレイを目で殺し、私たちは睨みあう。
「ふん、お前なんて、大した戦績も残せずに野垂れ死ぬのが似合いだ」
「あんたこそ、大好きなお空を、一人楽しくあの世まで飛んでいったらどう。〈イバラエ〉で裏切った連中ならよろこんで先導してくれるわよ」
「貴様……!」
頬を張られた。パン、と乾いた音が響いた。一拍置いて頬が熱くなってくる。対して頭の中は冷たく冴えてきた。
わかった。こいつ、〈イバラエの裏切り〉とか友達って言葉に弱い。
あの日何かあったのかしら。
疑問に思いながらも、私の口は勝手に動いていた。クリスの心臓を抉るために、速射砲のごとく。
「はん、女に手を挙げるなんて、最低ね。どういう教育受けてきたのかしら、伯爵家が聞いて呆れるわ。そんなんだから、〈イバラエ〉の連中に裏切られるんだわ!」
あ、今度は拳だ。目の端で、硬く握られたクリスの手を認めながらも、私の唇は笑みを刻んでいた。相手の急所を着いてやった優越感が全身を満たしている。
たとえ殴られたって、本当に痛いのはこいつだ。
しかし、振り下ろされるはずの拳は、横合いから伸ばされた分厚い掌に阻まれて、私の横面までは届かなかった。
「勤務中だぞ。クリス、お前は格納庫。アレイは持ち場に。……マーク、お前は手当てだ」
厳しい表情をしたバルク大隊長は、クリスの腕を払うと、胸倉をつかみ合った私達を強引に引き離した。それでもなお、私たちは威嚇しあっていたが、肩をつかまれ無理矢理方向転換させられてはかなわない。有無を言わさぬ強力で引っ立てられてようやく、私はその場を離れたのだった。
■■■
鼻血が出ていると気づいたのは、医務室で手当てを受けはじめたときだった。それほど興奮していたらしい。頭に上っていた血が降りてくると、自分がどれだけみっともない真似をしたか思い知って、恥ずかしくなった。部屋の隅で成り行きを見ている大隊長の視線が痛い。
「いやあ、男同士のけんかで手当てに来る連中はいるけれど、男と殴り合って手当てに来る女の子は珍しいねえ」
老齢の軍医は、私のはれた頬を消毒液のにおいのする手でぺたぺたと撫でて笑った。骨は折れてないから大丈夫だという。今更、熱を持った患部が疼痛を訴える。
顔をしかめて、大隊長に向き直り、頭をさげた。
「どうも、すみません」
返ってきたのは、重いため息。
帳で仕切られた負傷者が寝ている寝台から呻き声が聞こえてくる。彼らに話を聞かれるのをはばかってか、大隊長は顎をしゃくると、バルコニーに出るよう促した。
暮れなずむ夕陽が、大渓谷の向こうに消えていく。とろりととろけて、輝く太陽は筆舌尽くし難い威厳を備えているように思う。今朝方、初陣があの太陽のもとで行われただなんて、ちょっと信じられない。私はただ乱暴な操縦に目を回していただけだから、そう思うのかもしれないけれど。
煙草に火をつけた大隊長が、私にも勧めてくれたが、断った。
紫煙をくゆらせて、大隊長は遠くの夕陽を見つめる。いかつい顔が寂しそうに見えるのは、なぜだろう。
「全く、お前という奴は。気が強そうだと思っていたら、入隊三日目でけんかとは、いい度胸だよ。しかも、クリス相手に」
はあ、すみませんと、まぬけな相槌をうって、私も夕陽を見つめた。
「あいつもなあ。もともと人見知りする性質だったんだが、あの日以来、誰とも打ち解けなくなっちまって、今じゃあ何をするにも一人きりだ」
「あの日って、〈イバラエ〉ですか」
「ああ。あいつは謀反を起こしたバゼラード殿によく懐いていたんだよ。操縦法を学んだのも、あの人からだったからな。兄弟みたいだった。だが、あの日、大佐はクリスを置いていった。いや、置いていったというのは正しくないな。クリスが、誘いを断ったんだ」
首を傾げて、何故と問うと、大隊長は頭を振った。
「聞いていない。だがあいつはスティレット家の長男だ。離反したら、家がどうなるか。何よりあいつはこの国を自分が守るという使命感に燃えていた。それも、バゼラード大佐のもとで戦うという大前提のもとで。だから余計、堪えたんだろうよ。あれからあいつは笑わないし、泣かない。一緒に裏切って消えた相棒の代わりも、無理を言って断ってきた」
「そんなところに私が無理矢理押し付けられたってわけですか……」
「お前さんの腕なら、あいつについていけると思ったんだよ。いい操縦士には、いい副操縦士をつけてやりたい」
「だったら、他の空軍の兵士を宛がえばいいじゃないですか」
「数が足りんのだよ、数が。戦闘機の正操縦士にはきちんと訓練受けた者が必要なんだ。そうなると、間に合わせで徴発してきた一般兵は、副操縦士に回される。陸軍が動けるなら、歩兵になるべき連中だが、大渓谷のせいで今回は空軍だけだからな。お前みたいに、もともといる空軍の兵士の補助にするほかないんだよ」
「そうまでして、戦い続ける意味ってあるんですか。もう、どう見ても戦況は――」
「バゼラード大佐の功績だな。十年の膠着は、崩れた。あの人はその為にこの国を裏切ったのさ。この国のために。この国が疲弊する前に、戦力差をつけて降伏を勧めるために」
「……まるで、英雄じゃないですか。オグルでの地位も名誉も、すべてなげうって国のために、だなんて」
まさか、本当にそんな豪胆なことをやってのける人がいようとは思わなかった。私達一般市民には、〈イバラエ〉は卑怯な裏切りだったと伝えられているし、実際に劣勢になったおかげで、さらに取り立てやら徴兵やらが厳しくなっているもんだから、バゼラード大佐たち裏切りの兵士らは、まるで鬼か悪魔かといった罵られようなのだ。
その大事な事実はおそらく、軍部によって握りつぶされたのだろう。我が国の掲げる合言葉は「誇り高き戦士たれ」。屈辱の降伏よりは、名誉の戦死を選べというのだ。この言葉をいいとか悪いとか論じる前に、私は「嫌だ」と言いたい。死ぬのはごめんだ。
「たしかに、英雄だな。議会でも、彼に続けと降伏案を推す連中もいる。だが、俺は納得いかん。今まで血をながしてきた戦友たちはどうなるんだ。殺された皇太子殿下は。ツハーナンはいまだ謝罪の一言もない」
誇りを踏みにじられた、理屈を越えた生理的な嫌悪感を滲ませ、彼が煙草を踏み潰した。
戦場には戦場の、複雑な事情があるらしい。そう初めて理解する。村に住んでいると、自分たちの生活を圧迫する奴らは全員「敵」と同じだが、兵士になれば「敵」「味方」の立場だけで割り切れない、やりきれない思いがあるのだろう。
あいつもそうだったのかしら。アイスブルーの目に怒りを宿したクリスを思い出す。
あのとき、あいつのなかにあったのは、この燃える太陽のような灼熱の感情だけじゃないだろう。そう思うと、私の胸に去来するのはほろ苦い、自責の念だった。
いつも言いすぎて後悔する私だが、今日の後悔はまた格別に重たかった。
■■■
与えられた部屋は、二段ベッドと備え付けの棚が二竿の、狭い狭い一間だ。しかも、それで二人部屋。その他の設備は共用となっている。
温めたミルクを手にして、部屋の扉を細く開け中をうかがうと、真っ暗だった。
足音を殺して部屋に入り、ベッドまで進む。下段は帳が開け放たれ、穏やかな寝息をたてるクリスがいた。闇に慣れてきた目には、無防備な寝顔がぼんやり認識できる。
呆れた。けんかした相手と同じ部屋でも、おかまいなしで爆睡かい。
ふう、と息を吐いて、いそいそと上段に上る。軍内で、男女別室なんて心遣いはないらしい。これじゃあ、田舎の安宿の方が立派だと思う。とりあえず、上段だからまだいいけれど、やはりいろいろ不安があるから、枕元に護身用の電気銃を常備してある。
寝台に備え付けられた読書灯を点け、簡易のテーブルを引き出すと、ミルクを置いた。
枕の下から取り出したのは、家族写真。まだ父が元気だったころのものだ。もう七年もまえのもので、この戦争がまだまだ小競り合いと呼べたころ、随分のほほんとしていたころのもの。皆、暢気な笑顔でこちらを見ている。まだ十やそこらの私の幼い顔も映っていた。
帰りたいなあ、家に。狭くて何も無くて古くてみすぼらしい家だけど、家族がいる。
早くこんなくだらない戦争が終って、またあの小さな家に帰れるなら、なんだってするのに。肺を患っている父さんは、今どうしているだろう。
ため息が少し湿っていて、気合を入れるために頬をパン、と叩いた。
その後、おさらいに操縦技法書を読み返していると、かすかに耳に届く音に気づいた。
はじめ、それがなんの音かわからなかったのだけど――。
思い当たることがあってミルクをこぼさないように慎重に、ベッドの下の段を覗きこんだ。
泣いている。
クリスが眠ったまま泣いていた。時々鼻をすんと鳴らして嗚咽する。静かな泣き声とは裏腹に、苦しそうに輾転する。伸ばされた腕が空を掴んで彷徨っている。
夜泣き癖のある末の妹が、怖い夢を見て泣いているときに良く似ていた。
だから、思わず、その手を握ってしまったのだ。
「あ……」
細い息を洩らして、アイスブルーの眼が開く。焦点が合わないまま、しばらく視線を彷徨わせると、はたと目を見開いた。
「何してるんだよ」
あっさりと手を振り払われた。まるで毛を逆立てた猫のように、敏捷に起き上がって、さかさまに覗き込んでいる私から距離をとる。自分の頬が濡れていることに気づくと、彼の顔色が薄闇でも分かるほど朱に染まった。
「だから嫌なんだ、無神経な奴は」
「別に馬鹿にしたりしないわよ。あんたほど性格悪く無いもの」
言ってしまってからしまったと思う。どうして私はこんなに口が悪いのか。
「……大丈夫なの。具合でも悪い?」
「お前の顔を見て、寝覚めは悪い」
「可愛くないわね、ほんと」
私はするりと床に降りた。
「その、昼間は、ごめんなさい。酷いことを言ったみたいで」
「バルク大隊長に何を聞いた。〈イバラエ〉のことか」
沈黙がおりる。それはつまり肯定と同じだった。
クリスの頬に皮肉るような笑みが浮いた。
「満足したか。そうだ、俺は大佐に捨てられたんだよ。大佐の考えについていけなかったから、連れて行ってもらえなかった」
「違うでしょ。あんたがこっちに残ることを選んだ。捨てられたんじゃない」
「違わない! 俺にはできなかった。あの人、バゼラードのために総てを捨てることが。地位も名誉も、家族も投げ出して、あの人についていくだけの度胸がなかった。わからなかったんだ。今までずっと戦ってきた相手に着くことが、本当にこの国を救うことになるなんて。仲間を殺してきた連中と手をとって、屈辱に耐える勇気もなかった。だから俺は逃げたんだ」
怒鳴り散らしたあと、クリスは笑い出した。
「満足か、俺の情けない話を聞いて。お前みたいな農民連中は、俺達みたいな職業軍人を憎んでいるんだろう。俺達のせいで戦が終らない、俺達が全員死んでくれたほうがいいって思ってるんだろう。その方が早く平和になるとでも、思っているんだろう? ええ?」
「まるで、農民になったことがあるみたいな分析じゃない。当たっているわよ」
「ふざけるなよ! 俺だって好きで戦闘機に乗っているんじゃない。俺が好きなのは空なんだ。空を飛んでいられればそれでよかったんだ。なのに、兄と慕った人に裏切られて、挙句の果てに昔の仲間を殺して歩くんだぞ。お前たち農民にその苦しさがわかるかよ。俺達軍人は好きなだけ殺しあっていればいいんだろ。馬鹿みたいに共食いしてればいいんだろ!」
「ああもううるさい!」
気づいたら、手が出ていた。しかも、ガツンという重たい音がした。頬骨がぶつかった指の骨が痛む。つまり拳だった。
きょとんとした顔で頬を押さえるクリスがいた。
「なんなのよさっきから一方的にまくし立てて悲劇の主人公きどり? あほか! 愚痴を言いたいなら言う、私を馬鹿にしたいならするどっちかにしなさいよ! ていうか、誰が悪いとかそういう次元の話じゃないでしょ、この場合。自分が選択した道なんだから諦めて受け入れる他ないじゃない。誰だって、死にたくてこんな場所 来てるんじゃないでしょ! でも仕方ないじゃない、逃げられないんだから。だったら死なないようにするしかないじゃないのよ馬鹿! あーもう、馬鹿は死ななきゃ治らないんだから一度死んだらいいのよ馬鹿!」
よく噛まないで言いきったと自分を褒めてやりたい。
肩で息をして、睨みつける。硬直していたクリスが、わなわなと唇を振るわせたかと思うと、急にその切れ長の目からぼたぼた涙をこぼし始めた。
「ぎゃあなんか出てる出てる!」
「お、お前こそ一方的だろう!」
「痛い! 枕投げるんじゃないわよ! この自己陶酔型悲観主義者!」
「うるさい無神経女! 人の弱みに付け込んで言いたい放題言って説教か!」
「髪を引っ張るな暴力男! だから嫌なのよ金持ちのボンボンは! 大事な場面でああだこうだ言いやがって! 腹決めて玉砕しろ!」
「言ってること矛盾してるぞ! 顔ひっかくな顔! 目をつつくな! 死なないようにしろって言ってなんで玉砕なんだ馬鹿だろうお前!」
その時、壁ががんがんがんと激しく鳴った。継いで「うるさい他所でやれ!」という怒鳴り声が飛んでくる。どうやら、隣の部屋の住人らしい。
肩で息をして、掴み合っていた胸倉をいっせいに放した。お互い無残な格好になっている。
とんでもない疲労感が襲ってきて、私は床に腰を下ろした。クリスはまだ涙腺が決壊したままで、それを隠すように抱えた枕に顔をうずめた。
頭をがしがしかいて、私は顔を見せない同居人に言い放つ。
「くそー、謝るつもりだったのよ。本当は。悪かったわよ、昼間は」
「くそ、はいらないだろ謝罪に……」
弱弱しい答えが返ってきた。しばらくして、酷い顔のクリスがのそのそ枕を放した。
「俺も、今日は少し……言いすぎた、の、かもしれない。その、初陣だし、戦績が思わしくないのは、まあ、仕方がないというか」
「尻の穴ちっちぇー。一言、『言いすぎたごめん』でいいじゃないのよ」
「お前さ、謝罪の言葉くらい静かに聴けよ」
「……はぁい」
反省する。
まだ鼻をぐずぐずやっているので、懐に入れていたハンカチを渡してやると、遠慮なく鼻をかんでくれた。せめて洗って返して欲しい。新品でもいい。
「俺は中等学院を卒業して、すぐにこの基地に赴任したんだ」
彼の生い立ちなど、あまり興味のないことだったけれど、今は耳を傾ける気になった。
「中等学院でも飛行訓練は受けていたけれど、実戦的じゃなかった。前線に出ると学ぶことが山ほどあって……。俺はもともと飛行士になりたくて、航空課にいたからそれなりに飛べた。それでも足りない部分はあの人が、……バゼラードが笑いながら教えてくれたんだ。あいつとは、家同士の付き合いがあって、年は離れていたけれど幼馴染だった」
スティレット伯爵家とバゼラード侯爵家のお付き合い。一体どんなお上品なお付き合いだったか想像もつかない。
「何年も、あいつの下で戦ってきた。仲間が死んで、同じくらい相手を殺して。罪悪感すら平淡な慣れに変わるまでずっと一緒にいたんだ。あいつは少佐から大佐になって、俺も大尉になった。きっとそうやって、この基地で血にまみれながら、二人で時を刻むのだとばかり思っていたのに」
時折、芝居がかった言葉選びをしながら、彼はそこまで語って、また目を潤ませた。〈イバラエ〉で大きな打撃を受けたのは、国だけじゃない。この人見知りの飛行士も、同じ様にうちのめされたのだ。
昼間、まだじくじく膿んでいる彼の心の傷口に、塩を塗りこんだ私は、言葉につまった。
震える吐息を細く残して、クリスが視線をあげた。
「お前は、なんて名前だっけ」
「うわ、まず、そこから? マカエラ・カッツバルケル。マークでいいわよ」
「マーク、お前出身は?」
「西ハイデレッツのオアヌ村よ。綿花の産地。といってもそれ以外なんの特徴もないど田舎よ。うちも綿花を育てているわ。女ばかり七人姉妹で、両親もいる。私は次女ね」
「オアヌ。知っている。一度、飛行訓練で綿花畑の上を飛んだ。春先でまだなにもなかったな。広大な更地があった」
「夏になると、花が咲くわ。乳白色で、時間が経つと薄桃色に変わるの。とても綺麗よ。そして秋口に、実がはじけて白い綿が出てくるの。一面、実がはじけると壮観よ。枯れた茶色い枝に、白い綿。雪が降っているみたいにも、真っ白な花が咲いているみたいにも見えるの」
もちろん、都の整備された花畑や植物園に比べれば地味だし、美しいとはいえないだろう。それでも、あの見渡す限り総てが白い綿と枯れた枝、そして青い空という三色の世界は、圧倒されるものがある。
「いいな。今度、自由飛行するときは、ぜひ行ってみたい」
都の美しい風景に慣れているお貴族様が嫌味か、と反感を抱いた。だが目を眇めて見やると、クリスは言葉に偽りがないように、穏やかに笑んでいた。夢見る、少年の目だ。
なんだかむかつくような切ないような気分になって、私は視線をそらす。
「見た目はいいけれど、収穫する側は大変よ。実のとげで手はぼろぼろだもの」
不意に大きな手に手首を掴まれる。アイスブルーの目がしげしげと私の掌を見つめる。ベッド上段の弱い読書灯のおこぼれでははっきり見えないからか、徐に私の掌に指を這わせた。
背筋が粟立つ。手を振り払う。
「なるほど、お前には操縦桿は向かないな。土の匂いがする」
「褒め言葉と受け取っておくわ」
「戦が終ったら、オアヌへ行くからそのときは案内しろよ」
「いいけど、有料よ。それより、終戦だなんて、いつになるのよ」
「そう長くは続かないさ。明らかな劣勢だ。半年か、一年か……」
それでもまだ長いじゃないの。
クリスも同じように思ったのだろうか。輪唱したため息のあと、しばらく、二人してまんじりともせず、床に落ちる読書灯のオレンジ色の光を、じっとみつめていた。
■■■
ゴーグルの向こうに見た敵機の影は、競って次々旋回し向ってくる。轟音とともに吐き出される弾は、斜めに滑空する私たちの〈イブラゼル〉の後に流れ、白い尾を引き消えていく。
飽きることなく宙を滑りつづける。前方には青い空。後方も同じ。ただ、背中側にちらほら黒い点のような敵機が見える。視線を降ろせば、大渓谷がぽっかり口をあけ、轟々と水を落とし続けている。
この〈女神の御髪〉が、常に主戦場だ。まわりでは、花火のようにぱっと光って、敵味方の戦闘機がお互いをしとめようと旋回しては撃ち合っている。
「十時方向、敵機〈舞姫〉三機確認!」
クリスが叫ぶのが、簡易の通話機を通じて耳に入る。赤い機体に、銀の一線を引いた〈イブラゼル〉を途端に旋回させ、彼は主砲をぶっ放した。
正面から、〈舞姫〉の純白の機体が迫る。弾をばら撒きながら、三機が位置をいれかえつつ接近してくる。回転する〈イブラゼル〉にそんな弾は当たらない。
先頭を勤める〈舞姫〉から少し照準をずらして、私は両翼の機銃を撃った。正面の〈舞姫〉は機体を傾けよけるが、死角にかくれていた二機目の左翼が被弾した。白い煙が尾を引いて、被弾した機体は、大渓谷の死の顎へ落ちていく。
「十二機目!」「行くぞ!」
私たちの声が重なった。機体が傾ぐ。オグル帝国戦闘機主力三機種のうち、もっとも敏速な〈イブラゼル〉のエンジンが唸りをあげる。
あ、と思ったときには、私はまっ逆さまに大渓谷めがけて落下していた。胃の腑がふわりと持ち上がる、不快な浮遊感。六戦目の今日はなんとか吐き気をこらえきる。
びりびり肌が波打つ。強烈な圧力が前方から襲ってくる。体がばらばらになりそう。
超高速の見えない壁が立ちはだかっているのだ。必死に操縦桿にしがみつく。
〈イブラゼル〉は空を切り裂いて大渓谷に飛び込むと、底の見えない奥へ躊躇いなく突き進む。巨大な滝が巻き上げる水滴が、豪雨の如く降り注ぎ視界を遮る。だがレーダーにはすぐ後に敵機〈舞姫〉が二機、追随している様子が映し出されている。
「クリス!」思わず叫ぶ。
レーダーのことではない。眼前すれすれに、沸き立つ水面が――大渓谷の底があったのだ。
がくん、と強烈な返しで機体が起きる。したかかに、後頭部を座席にうちつけ、目の前に火花が散る。水面すれすれに、〈イブラゼル〉が駆け、追いすがる〈舞姫〉もまた水しぶきの中をくぐって駆ける。その数がいつの間にか一機に減っていた。墜落したのか。
背後から死の弾丸が追ってきた。〈イブラゼル〉の頭上を通り過ぎ、腹の下の水面に着弾し、左右の空間に散っていく。一撃も掠らないが、怖気が私の背筋を駆け上る。
「マーク、大丈夫か!」「あんまり大丈夫じゃない!」「よし、いけるな!」
私の悲鳴など無視して、クリスが操縦桿を動かした。急激に角度を変えて、〈イブラゼル〉が空を目指す。〈舞姫〉もぴったり追いすがり、場所を変えての追撃が始まる。
今度の〈舞姫〉操縦者は優秀らしい。クリスが一機にこれだけ追い回されるのは珍しい。焦りが私を支配するが、クリスはいつもと同じ調子で、黙々と空を目指していた。落下と同じ強烈な圧力が全身を襲う。ぐっと頭を押さえつけられるような、何度経験しても耐え難い苦痛だった。急加速による血流の乱れだ。早く、早くこの拷問が終って欲しい。
レーダー上の背後の敵機がじりじり接近する。はっと後を振り返ると、相手の操縦者が視認できる距離だった。心臓が、大きく跳ねた。太陽が眩しい。
〈イブラゼル〉が回転した。回転した、としかいえない私を責めないで欲しい。なにしろ、正規の訓練を受けた軍人じゃないのだから、解説役に不適当極まる。
ぐんと上に抜けたかと思うと、敵機の真上に逆さになっていた。それも一瞬で、驚愕の表情の敵操縦者を残して機体は横に回転し、回転が終る前に今度は地面に向って前転して。
あれ、と思うと〈舞姫〉が前にいた。理解する前に指がスイッチを押している。火花が散って、白煙黒煙、そして急降下。名のまま舞うようにして〈舞姫〉が青空から消えていった。
「十三機目、新記録だ」
振り返って、直接言い聞かされた自己最高記録。ちょうど時を見計らったように撤退の号令がかかり、私達は他の〈イブラゼル〉〈メグメル〉〈ティルナノグ〉の一団に混ざって、陽光きらめく大瀑布を後にした。
■■■
誘導灯に従って、愛機を格納し終える。私たちはようやく足を床について、ゴーグルを外した。まだ空を飛んでいるような浮遊感がある。汗を吸い重くなった飛行服の上半身をはだけた。加速度に抵抗するのに下半身には加圧用のタイツを着けている為、やたらごわつく。
「お疲れ! すげえなマーク、順調に記録を伸ばしてるじゃないか」
アレイが満面の笑顔で迎えてくれた。拳をぶつけ合う。先を行くクリスを追い越して、私は廊下を右に曲がった。クリスに肩を小突かれて足を止める。
「おい、お前また飲むのか」
クリスは呆れ顔で、アレイも同じだ。
「飲まなきゃやってらんないわよー」
軽く言ったが、二人の顔を険しくさせる結果に終る。しくじってしまったらしい。
これまで私は何人をあの大渓谷に突き落としてきたのだろう。明日からは何人同じ運命を与えるのだろう。あるいは自分が彼らを追うのか。そんな鬱々とした気持ちを抱えたままでは、とうてい眠れやしない。
だから、初陣から二ヶ月と十日、私は出陣後は必ず、唯一の娯楽施設であるバーに足を運んでいる。 別に放っておいて貰っても、自分で好きに飲むのに、この二人どういうわけか私に付き合ってくれる。気を使わせてしまっているのだ。ありがたくも、申し訳ない。
「……仕方ない。三杯までならつきあってやる」
「よくがんばるなあ、クリス。四杯飲むとつぶれる下戸のくせに。俺は茶だけにしておくよ」
「わあ、奢ってくれるの? クリスったら紳士!」
「付き合うだけだ、馬鹿!」
アレイと二人で廊下を走る。後ろから、本気で焦った声でクリスが私たちを呼び止めたが、聞こえないふり聞こえないふり。途中バルク大隊長に挨拶して、廊下を駆け抜けた。
■■■
戦況は悪化の一途を辿っている。先月終わりに、一つの中隊が全滅し、一つの小隊が裏切った。そして一個小隊に相当するだけの人数が、基地から姿をくらましている。つまりは、戦意を失っての脱走だった。
ぼろぼろと荒い網の目から零れ落ちるようにして、オグル帝国は勝利の可能性を失いつつある。それは加速度的ともいえて、あの晩クリスが予想した終戦時期の半年から一年を下回る可能性も高くなってきていた。
今日の昼間も、予定より一時間早い撤退となった。きっと戦にならなかったのだろう。
議会では、降伏推進派が勢いを増し、街でも小規模な反乱が起きているときく。
都の高層建築におわす皇帝陛下は、どういう気持ちで国の動向を見守っているのだろう。
朝焼けの空を飛行するとき、靄がかかった都の影を遠くに見つけては、そう思うことを禁じえない。
早く、こんな戦が終ればいいのに。そうすれば、あんなエンジンの唸りなんかないで、追ってくる敵機の陰に怯えたり、弾幕に目をつぶったりしないで、悠々と広がる大渓谷の威容をめでることができるのに。
クリスの後に座って眺めた、日の出日の入りの美しさは、地べたで延々と綿花を摘んでいた私の知らない世界だった。その世界をもっと知りたいと思うことが不自然なことだろうか。
■■■
ふと目が覚めると、ベッドに寝かされていた。寝苦しい。のろのろと身を起こすと、頭をぶつけた。どうやら二段ベッドの下段に寝かされているようだ。
かけられた毛布から、かすかにムスクの香りがする。クリスのコロンの香りだ。
横を見ると、床の上に支給品の寝袋に包まって横たわる、クリスの寝顔があった。
またいつものように酔いつぶれた私を、クリスが運んできてくれたに違いない。自慢じゃないが、私はバーから自力で帰ってきたことがない。二日酔いはしないが、深酒すると気絶するように眠るたちなのだ。その私を部屋まで運んで寝かしつけるのが、クリスの役目となっている。
よくよく考えれば、いろんな身の危険があるように思うのだけど、このお坊ちゃまは妙に紳士で、安心して酔いつぶれることができるのだ。
伸びをして、起き上がる。このままクリスを床で寝せておくのはいくらなんでも酷い。
クリスの横にしゃがみこんで、肩をゆする。うるさげに眉根が寄って、ゆっくりアイスブルーの目が開いた。
「ねえ、自分のベッドで寝てよ。私、上に戻るから」
ぼんやりしている。体を起こしたまま、虚空を見つめるクリスの後頭部は、鳥の巣だ。この寝ぼけた姿をアレイに見せたら、大笑いするだろう。
突然、控えめな扉を叩く音がした。
こんな時間に誰だろう。よれよれのクリスの代わりに私が扉を開く。
薄く開いた扉の向こうには、バルク大隊長が厳しい表情をして立っていた。
「すぐに支度しろ。七階貴賓室に一時間後に集合だ。極秘任務だ」
「こんな時間にですか」寝ぼけ眼で、クリスが起きてきた。
「こんな時間でもだ。……お前達、酒臭いぞ。水風呂にはいって酒を抜いて来い。すぐにだ」
尻を叩かれ、私たちは飛び上がった。そして顔を見合わせる。眠気が飛んだらしい、クリスの形のよい眉が片方だけあがっている。
「極秘任務?」
初めて聴く言葉は、当然耳慣れない。
■■■
シャワーを浴びて向った貴賓室は入室してまずその豪華さに驚く。絨毯やカーテン、調度品に至るまで、まるでお城の一室のような重厚な高級感に溢れている。
猫脚の椅子に腰を下ろし、私達を待っていたのは、金髪に碧眼の若い男だった。濃紺の軍服の腕章や肩章がかなりの地位にいるのだと示している。どこかで見た顔だが思い出せない。
彼を見るなり、クリスが驚愕の声をあげた。
「殿下! どうしてここに」「声が高い、クリス」
どこかで見たというのは、つまり、街で見た肖像画でだった。
皇太子アシュラン。十年前、殺害された皇太子の弟にあたり、今は第一帝位継承者である。
そんな人物が何故ここに? お付のが数える程しかいないのはどうして?
全身を強張らせていると、皇太子殿下はようやく笑みを見せた。
「元気にしているみたいじゃないか、クリス。スティレット卿は……、父君は息災か」
「はい。皇帝陛下の御温情のおかげにございます」
これほどかしこまった相棒をかつて見たことがない。それにしても、スティレット家の威光はすごい。皇帝とも知り合いとは。
ぎくしゃくしていると、私にも極上の甘い笑みをひとつくれた上で、皇太子殿下がそっと黒い筒を差し出してきた。クリスが受けとる。封蝋は皇帝を示す双頭の竜だ。
ぎゅっと心臓を掴まれた気分になった。
「これを、明朝、日の出と同時にツハーナンに届けるのが君達の任務だ」
「ついに、終決するのですね」
「ああ。長かったな……」
遠い眼をして、殿下は深い息をついた。
「バゼラードを失った今、お前は我が軍で最高の飛行士の一人だ。その中でも、私が最も信頼できる男だ。お前にこれを託すのは、そういう理由だ」
「……飛行士に、信頼できぬ者がいらっしゃるのですか」
言ってしまってから、また後悔した。
皇太子の碧眼が驚いたように見開かれ、そして破顔した。
「そちらの小柄なレディが、新しい相棒か。なるほどいい組み合わせだな。目端が利く。クリスはちょっともの知らずだからなあ」
なんだか、あまり褒められた気がしない。クリスは余計なことを言うなと眼で訴えてきた。
「正直に答えよう。いる。降伏をよしとしない者たちが確かにいる。だがそれが誰か、個人まで特定出来ていない。まさか全員に確認してまわれないからな。だからなるべく信頼できる少数の精鋭にこの任に就いてもらう。バルク大隊長他二十名が君達の護衛につく。君達は、命をかけてこの書簡を――皇帝の御言葉を届けるのだ。いいな」
嫌だとか考えさせてくれとか、そんな選択肢はないようだった。きっと断ればそこで私たちは終る。あらゆる意味で、終るのだ。
手が汗でぬめる。書簡の筒をうけとったクリスは硬い表情で私を見た。私も彼を見る。
アイスブルーの眼が頷いた。力強く。私も頷き返した。少しぎこちなくなってしまったが。
「了解しました。必ずや、任務を果たしましょう」
皇太子殿下の双眸が細まった。
「あの泣き虫クリスが、立派になったな。……死ぬなよ」
■■■
まだ暗い夜空を、計器を頼りに突き進む。私たちをしんがりに、十機の〈イブラゼル〉が前を行く。彼らが護衛である。中心にいるのが、バルク大隊長の機体だ。
このままいけばあと一時間で、ツハーナンの中央戦略拠点だった。
大渓谷はすでに後。ツハーナンの哨戒機〈烈風〉が青い明りを灯して、あちこちをうろついている。まだ眼下に建造物はなく、地対空兵器の重く暗い黒色の機体がときおり見られた。
クリスは、無言だった。私もまた無言だった。
座席下の収納部に大切に収められた書簡ひとつで、この長く忌まわしい戦が終る。そのことが実感できない。しかも幕引きが私たちの手にかかっているだなんて。
既に、ツハーナン側に降伏の意思があることは伝えてあるという。そのため、哨戒機にもバルク大隊長が信号を送ると、攻撃されることはなくすんなりと国境を越えられた。
もうすぐ、日の出。日の出には中央戦略拠点に着き、この書簡を向こうの幹部に手渡す手はずになっている。そして同時に、オグル帝国全土に「敗戦」の知らせがもたらされる。
「あ、これって」「ああ。迎えだな」
レーダーに映りこんだ、前方に広がる二十ほどの点。ツハーナン側の戦隊に違いない。だが、彼らが攻撃してくる素振りはなく、薄暗い中でもその明りが視認できるまで近づくに至った。大きさからして〈舞姫〉だ。
バルク大隊長機がくるりと動いて、道を開ける。クリスは〈イブラゼル〉を少し加速させ、隊列の最前列に出した。迎え入れるように、〈舞姫〉の一団も真ん中を開ける。
あらかじめ知らされていた回線に、無線が入った。
『我、ツハーナン共和国軍大尉アグニ・オルなり。遠路はるばるご苦労。貴公らの勇気ある行動に敬意を表す。この先は我の誘導に従ってくれたまえ。じきに拠点にたどりつく』
「こちらオグル帝国空軍所属クリス・スティレット。温かい歓迎感謝する。誘導を頼む」
ぱっぱと合図用の投光機がきらめいて、〈舞姫〉たちがくるんと一転して、同じ方向――ツハーナン市街地方面を向いた。
「ここまでくれば、もう大丈夫ね」
「ああ――」
クリスが深い安堵の息をついた。
突如、轟音と衝撃が走った。
被弾した。右翼の先端、ばらばらと部品が零れて落ちていく。
クリスがばっと操縦桿にしがみついた。〈イブラゼル〉が傾ぐ。急に角度が変わって、天地がひっくり返る。つまり、落ちていく。
悲鳴が喉につまって、声にならない。大嫌いな加速度が全身を襲う。
何が起こったの、何が起こったの、何が起こったの。
恐慌する頭を必死に上向けて、回転する視界の向こうに見つけたのは、夜空に光る火花たちだった。〈舞姫〉と〈イブラセル〉が絡み合うようにして交戦している。
私達、背後から、撃たれたんだ。あの位置にいたのは、……バルク大隊長。
混乱のきわみに、ふっと意識が遠くなりかける。
「マーク、敵機確認、浮上する! つかまれ!」
鋭い声がして、反射的に操縦桿を握り締めた。浮遊感のあとに、今度は下向きの圧力が襲ってくる。急上昇しているのだ。空中ですれ違った〈イブラゼル〉が、さっと弧を描いて後を追ってくる。ぶれのないその軌跡は、〈蒼穹の死神〉でなければ、うちの隊では大隊長くらいしか描けないものだ。
「どうして? なんで大隊長殿が! ねえクリスなんなの、何が起こったの!」
言いようのない切迫感が、私の喉を絞り上げた。
ざざ、ざざ、という砂嵐のような音のあと、低い声が響いた。無線からだ。
『クリス、マーク。やはり無事か。だがクリス。お前の無傷の記録は破ったぞ』
「大隊長! 一体、どうして!」
悲鳴じみた声が漏れた。クリスは無言だ。
『どうして。マーク、お前はわかっているだろう。クリスも、当然だ』
「……大隊長。正気ですね。ならば、俺から言うことはありません」
「クリス! 何言っているのよ!」
どうしてこんなことになるのかわからない。いや、わかっている。あの日の夕暮れどき、ふと見た大隊長のやり場のない怒りと、踏みにじられた愛国心。理屈で折り伏せることのできない、理性を超えた感情の奔流。
だけど、理解したくない。それこそ、私の感情の奔流だった。
今まで一緒に戦ってきた相手を――落とすなんて。
「大隊長、健闘を祈ります」
『お前達もな。互いの死力を尽くそうじゃないか』
ぷつんと途切れた無線の向こうに、大隊長の太い笑みが見えた気がした。
「マーク。聞こえるか、マカエラ」
場違いに穏やかな声音が聞こえて視線を上げると、座席の向こうでこちらを振り返ったクリスの顔が見えた。それでも減速しないのだから操縦桿は握ったままのはずだ。
「いいか、俺達は俺達のやるべきことを果たすんだ。それ以外を今、考えるな」
「でも」
「余計なことを考えたら、死ぬぞ」
声に銃声が重なる。背後からの弾を、〈イブラゼル〉は横に滑って避ける、避ける。
「これが終れば、戦も終わりなんだ。お前は村に帰れる。俺も好きなように飛べる。約束しただろう、綿花畑を案内するって」
「してないわよ」「じゃあ今しろ」「……高いわよ」
涙声がみっともない。クリスは鼻で笑って「言い値で買う」とクソ腹立つ金持ち宣言をして、操縦桿を引いた。
〈イブラゼル〉が回転する。縦に回転し、来た道を後に流れる。いつも敵機の後をとるあの技だ。抜けざまに、一瞬、迎撃可能な範囲に入った他の〈イブラゼル〉に、私の左翼から放った弾丸があっけなくあたった。きりもみして赤い機体が夜の闇に沈んでいく。
回転が終る。だが、大隊長機は以前後にいた。
どうしてっ? いつもならどんなやつでもこれで終るのに!
焦燥に血の気が引く。それでも機械的に、他一機を私は打ち落とす。クリスの放った主砲は、離れたところで〈舞姫〉を丁度葬った〈イブラゼル〉の尾翼に直撃した。
また大隊長の猛追が始まる。
視認できる残りの〈イブラゼル〉は、私たちのものを抜いてあと三機。そうしているうちにも〈舞姫〉に打ち落とされた一機が黒煙を噴いて、異国の地に落ちていった。
あと二機。〈舞姫〉はまだ十三機が残っている。
多勢に無勢だ。誰が見ても、それがわかる。それでも、背水の陣か、もと仲間の〈イブラゼル〉は激しく〈舞姫〉にくらいつき、一機を葬り、そして横腹に一撃を食らって粉砕した。
残りは一機。
私もただ戦況を見ているだけじゃない。じっとその瞬間を待っている。だがそのときはなかなかこない。大隊長の〈イブラゼル〉が私たちの正面にくることがないのだ。
恐ろしい話だった。あの筋肉質で、豪快に笑う大隊長の操縦技術は正確無比で抜群の安定感を誇っている。クリスに引けをとらなかい。いや、一枚上手かもしれない。
縦横に飛び回る私たちの〈イブラゼル〉の軌跡を正確に、一瞬の間もおかずに追跡してくるのだ。右翼に被弾しているとはいえクリスの操縦に曇りはない。だというのに、ループもターンも駄目。下から抜こうが上から抜こうがぴったり張り付いてはがれない。
その間にも、薄皮をはぐ様にして、私たちの〈イブラゼル〉は小さな被弾を繰り返し、外装や細かな部品が引き剥がされている。
「ちょっと! 〈蒼穹の死神〉が聞いて呆れるわ。無敗記録まで献上してやるの?」
怒鳴ると、抗議のつもりか急なターンがやってきた。既に平衡感覚は危うい。
警報が響いた。ターンのせいではない。見れば燃料計が危険域に入っていた。もともと速さを優先させた〈イブラゼル〉は他機種よりも積載燃料が少ない。燃料の重みも減らし、戦闘に特化させるためだ。加えて国境を越えてからの大戦闘。もう燃料は底をつく寸前だろう。
クリスの舌打ちが、通話機を通して聞こえてきた。不気味な一瞬の沈黙を置いて、彼が落ち着いていった。
「このままじゃ、撃墜される」弱気だ。「いいかマーク、俺の言うとおりにしてくれ。お前の協力が必要だ。操縦桿のロックを外せ。俺も、ロックを外す」
言われるままに、操縦桿のロックを外した。だがこれは操縦席、つまりクリス側の操縦桿についている、握りこむときに押し込まれるボタンが離されているときじゃなければ、ロックを外しても動作しないのだ。しかも、クリスはなんのロックを外すというのだろう。
はっとした。速度計に記されている危険域の表示が消えた。
「ちょっとクリス! まさか、あんた……」
「マーク。俺が落ちたら、お前が〈イブラゼル〉を飛ばすんだ。大丈夫、お前なら出来る」
「何その根拠のない自信は! 冗談じゃないわ、死ぬ気なのっ? いや、殺す気でしょ!」
「馬鹿! 生き残るためにやるんだよ! 生き残ったら、キスの一つくらいくれてやる!」
いらない、という言葉は漏れ出た悲鳴にかきけされた。悲鳴もすぐに止まる。
がくんと、全身を殴られたような加圧があった。肉を骨からこそぎ落とされるような、そんな衝撃だ。急激な加速によって、息が詰まる。速度計の針はぐんぐん上がり、あっという間に常の危険域まで到達した。
警報が二重唱になる。速度出しすぎ、燃料なさ過ぎ。〈イブラゼル〉の悲鳴だ。
体にかかる圧力は、もうたとえようがない。視界がぐっと狭くなり、頭が朦朧とする。加速度による血流障害、それに伴う視野狭窄や脳の虚血などの諸症状が……、たしか最後は気絶だっけと、まともに働かない脳内で、夜なべして学んだ知識を引っ張り出した。
加速度による加圧は、その人の体重に比例する。理屈で言えば、つまり、クリスよりも体重の軽い私のほうが影響は少ない。そしてクリスよりも体重の重いバルク大隊長は……。
灰色に染まる視界に、レーダーを映しこむ。一機、猛追している機体がある。まだ加速している。まだ、まだ。
がくんと、前の席のクリスの頭が仰け反った。落ちたのだ。大隊長機はまだいる。
やるしかない。私が、やるしかないんだ。
貧血と恐怖で震える手で、操縦桿を握った。手ごたえがあった。初めて自分で〈イブラゼル〉を操る。ただ真直ぐに、桿を倒す。警告音が遠くなる。生まれたての太陽が近く、近く。
夜明けだ。瑠璃色の空に、払暁の陽光が目覚める。
レーダーがプン、と軽い音を立てた。何故かその音がはっきり耳に届いた。敵機が、機銃の照準範囲外に出た合図だ。
下を見る。風にもまれた木の葉のようにくるくると回転しておちていく〈イブラゼル〉があった。地面に着く前に横合いから追ってきた〈舞姫〉の一撃を食らって、燃えた。
もう、加速は止めた。血液が沸騰し、強烈な吐き気がやってきて、私はたまらず戻した。胃液しか出てこない。呼吸が出来ない程の頭痛が襲い来る。
そして、大嫌いなあの浮遊感が胃の腑を襲って、更に咳き込み、――悲鳴を上げた。
落ちる。落ちている! そりゃ、操縦桿から手を離せば自由落下の世界だ。
必死で桿を動かすが、錐揉みして落ちる〈イブラゼル〉は言うことを聞いてくれない。あっという間に高度が下がり、今度は逆方向への加速度で視界が朱に染まった。
「いやあああああああぁ!」
地面が迫る。こんな異国の地で、鉄くずと自分の反吐にまみれて死にたくない!
ぎゅっと眼をつぶると、家族が妙に近くに見えた気がした。
頭を横殴りにされた。前にも後にもぶつけまくる。ぐるぐる回転する視点が定まらない。
最後に一発、したたか後頭を打ち付けて、揺れはおさまった。
「……マーク、生きてるか」
「死んでる……」
前方から、途切れ途切れの喘ぎ声が聞こえて、私はしゃがれ声で答えた。
機体は地面すれすれを低空飛行していた。主導権を失った私の操縦桿はだらりとしている。
クリスの黒い頭が、ちゃんと座席に乗っていて。それを見ると、涙がこみ上げてきた。
「中央拠点まで持つかな、燃料」
「知らないわよ」
軽口もぐったりして、キレがない。それでも、よかった。
生きて話せる。今はそれで十分だ。
■■■
誘導灯に従って舞い降りたツハーナンの中央拠点の滑走路には、正装した軍人がずらりと並び、私たちが床に降り立つと、一糸乱れぬ動きで敬礼した。クリスが敬礼し私も敬礼する。反吐まみれ、汗まみれの最悪な格好だが、ツハーナンの軍人は誰一人嫌な顔をしなかった。
居並んだ男達の間から、茶色い髪を綺麗に撫で付けた、背の高い男がやってきた。きびきびとした動作の中にも余裕が垣間見える。年の頃なら三十半ば。その精力に満ちた黒い眼を見ればすぐに、彼に敵意はないことがわかった。
「険しい道を、よくぞ参られた。貴公らの勇気に敬意を表す」
横のクリスがびくっと肩をすくめたのを、私は見逃さなかった。眼前の偉丈夫の目に宿る、嬉しそうな切なそうな複雑な色を見て取ったとき、ああ、この人が、と納得した。
「歓待、感謝いたします。オグル帝国主サザリオンの命を受け、ここにはせ参じました。どうぞお受け取りください。我らオグル帝国民の総意にございます」
差し出した書簡を受け取って、ツハーナン軍人は満足そうに頷いた。黒い眼に、曙光があたり、わずかに茶色く見える。慈愛に満ち満ちた、優しい眼だった。
彼は、わざわざ手袋を脱いで、右手を差し出した。
「よく来てくれた、クリス。それから、勇敢なレディ。君達を、心から歓迎するよ」
私が先に握手する。そして、彼の手はクリスの前にさしだされる。
クリスのアイスブルーの瞳は、橙色の朝日が差し込んで金色に輝いていた。その眦に、小さな輝きがあったのは、見間違いじゃないだろう。
クリスは、手袋を脱ぐと、震える手で、バゼラード氏の手を握った。
朝の鮮烈な光を浴びて、鳥達が空へ舞い上がった。
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ぎゅうぎゅうに荷を詰め込んだ鞄を背負い、待つこと二時間。ごった返す乗りつけ所は、なかなか私の番が来ない。首を伸ばして先を見ると、まだあと一時間はかかりそうだった。
暇を持てあまし、途中で買った新聞を広げる。十年に渡る戦が終結し、半月。ようやく実現した皇帝陛下と共和国議員の対面の、笑顔の写真が前面に押し出されていた。もちろん、この笑顔の裏がまっさらな善意のわけがない。だが今はまだ、人々は束の間の休息を謳歌している。本格的な復興が始まるのは、まだ先だろう。
私といえば、終戦と同時に兵役を終え故郷への帰還を許された。
クリスは職業軍人としてまだ後始末が山ほどあるらしい。終戦に一役買った、影の功労者である私たちには、その詳細を一切秘密にするという契約書を書かされ、かわりに莫大な褒賞が贈られた。これで父の病気も治せると思うと、素直に嬉しい。
私たちが果たした役目を公にしないのは、きっと大隊長麾下のことを伏せるためだろう。今から歩み寄らねばならない両国の間で、彼らの存在は異物なのだ。
あの太い笑みを思い出すと、胸の深いところで空虚な風が吹く。だが、結局どうすることもできないということはわかっていた。あれが彼らの意志だったということも。
もう何度目かもわからない、順番待ちによる車の見送りをして、ため息をつく。空が青い。
〈蒼穹の死神〉は、あれから殆ど会っていない。忙しいらしく、今日の出立も置手紙で残しただけだったのだ。せめて別れの言葉くらい会って言いたかったが。
ため息が青空に溶けた。
タイヤを軋ませて、一台の黒い車が横に停まった。誰だ、自家用車がある奴はこんなところに並ぶな、と苛立ちを覚えてその車を睨んだのだが、窓を開けて微笑みかけてきたのはあの〈蒼穹の死神〉だった。今日は随分こざっぱりした、空色のシャツをお召しだ。
「何してるの、こんなところで」
「暇だから、迎えに来たんだ。これから大連休なんだ。よかったら、乗せてやるが」
得意げな顔が癇に障る。突っぱねてもよかった。だが、前方にずらっと続く人の列を見ると、その気は失せた。
「どうぞ」
気障な仕草で助手席の扉が開く。荷物を抱えて滑り込み、扉を閉めると、まだ列に並んでいる人たちの恨めしそうな視線が刺さった。
「さて、オアヌだったか。時間がかかるな、一日半か……」
「はあ? 別にそこまで行かなくていいよ。適当な所で降ろしてもらえば、あとは列車で」
「だって、綿花畑見に行く約束したしな。連休だからちょうどいい」
「この時期、畑は更地よ。種まき手伝わせるわよ、馬鹿なこと言ってると」
「それは困ったな。もう自家用機を送ってもらっているのに」
「……このボンボンめ! 言っておくけど、案内料は高いわよ」
「車代でちょうどだろう。さ、出発するから、しっかり座れ。俺は地上の運転は苦手だ」
宣告したとおり、急激な発車に伴う衝撃が私を襲った。酔いそうだ。
「ちょっと、降りる、降りるわよ!」
じたばたする私を他所に、車は加速する。蛇行する車に、方々から批難の声があがる。
「まあそういうな、相棒。更地の上で飛ぶのも悪くないだろ」
憮然として肩をすくめた私を尻目に、青空を飛ぶ白い輸送船が太陽を受けて輝いていた。
第一回ルルルカップでウェブ掲載していただきましたが、当然選外でした(なにせ萌えない)。せっかくなので、読んでいただければと思い、こちらに投稿しました。読み返すと書いたころの自分、若かったな……と思います。
投稿したものの改行などをそのままアップしましたが、読みづらい……。すみません。