第三章 魔物が近寄らない村
「私はヒイラギって言うの。この湖の向こう側の森に住んでいるわ」
湖のほとりに立つ、初対面の少女がそう答えたので、茂みから現れた少年はとまどう。
「…………ボクの名前はクロ。……だけどヒイラギ、この湖の向こう側の森に住んでいるなんてウソだよね? この湖のまわりには誰も近寄っちゃいけないって、この村では決められているんだから……」
「クロ、あなた今、ここに来ているじゃない」
「いや……これは、その、えーと…………」
この場所で誰かと会うとは思っていなかったクロは、言い訳を考えてなかったので、どう答えていいか迷う。
ドン!
その時、空に雲一つないのに雷のような大きな音がして、クロは驚く。
そして気が付くとクロは、いつの間にか現れた自分の母親であるスミレ(菫)に抱かれていた。
スミレはまだ二十七才で、クロのような子供がいるにしては若い。
「クロ、その子に触ってないわね?」
「え?」
「触ってないわね!」
近寄ってはいけないと言われていた場所で、いきなり現れた母親に捕まって、クロは涙目になる。
「……はい、お母さん…………」
ヒイラギもいつの間にかいる、もう一人の女に抱かれていた。
スミレはその女にうなずいてから、クロを抱いたまま茂みの中に消えていく。
それを見てヒイラギは、自分を抱いている女に尋ねる。
「スミレに子供がいるなんて、知らなかったわ……。どうして教えてくれなかったの、ヒスイ?」
ヒスイ(翡翠)と呼ばれた、二十才になったばかりの女は、ヒイラギの髪をなぜながら、歩き出す。
「…………あなたは、私たち世話役の女以外とは、なるべく誰とも、かかわってはいけないからよ……。それにあなたの存在は、この村で生まれた直系の女以外には、知られてもいけないの…………。だからあの男の子の事は、もう忘れなさい」
ヒスイが湖の向こう側の森の中の家に、ヒイラギを連れて帰ってしばらくしてから、スミレもその家に戻って来る。
ヒイラギから吸収していた力で、音速で走ったスミレは、自分の子供であるクロを一瞬で家に送り届けてきたのだ。
スミレはキッチンにいるヒスイの横に立つと、リビングでテレビを見ているヒイラギには聞こえないように、小さな声でささやく。
「ごめんなさい、ヒスイ。てっきりヒイラギは、私の後ろにいると思い込んでいたの……。二度とこんな事がないように、これからは気を付けるわ」
ヒスイは昼食の仕込みをしながら、それを否定する。
「いいえ、スミレ。あの時、魔物の武器の練習を見てくれって言ったのは私だから、悪いのは私よ。…………でもとにかくクロが、ヒイラギに触ってしまう前に気が付いて良かったわ」
「ええ、そうね……。クロには、かなりきつく、しかっておいたから、もう二度と、ここには近寄らないと思うけど…………」
スミレとヒスイがそんな話をしていると、ソファに座っていたヒイラギが、キッチンの方を振り向く。
「ねえ、スミレ……今日は魔物狩りを、やりたくないわ…………」
それを聞いたスミレは、リビングに行ってソファに坐り、ヒイラギの肩を抱く。
「どうして、ヒイラギ? 魔物狩りは、私たちの戦闘技術を落とさないためにも、毎週、欠かさずにやった方がいいわ。特に今日は、ヒスイが初めて先頭になって戦う番だから、やめたくないのよ」
「うーん……。それは分かっているけど…………。なんだか今日は、嫌な事が起りそうな気がするの……」
キッチンにいたヒスイもリビングに来てソファに坐り、ヒイラギの頭をなぜる。
「ヒイラギ、私たちが絶対にあなたを守るわ。信じて」
「…………私、自分の事を心配しているんじゃないの。だって私は、無限の命を持っているんでしょう? それよりも私は、普通の人間でしかない、あなたたちが死んじゃって、一人になるのが怖いの…………」
ヒスイがスミレに目配せをする。
まだ世話役になって間もないヒスイよりも、ヒイラギが生まれた時から、七年間ずっと世話役を続けているスミレの言葉の方が、説得力があるからだ。
それでスミレはヒイラギを、より強く抱き寄せる。
「人間である私たちだって、あなたに触れている限り絶対に死なないんだから、安心しなさい。どんな事があっても、あなたを一人にはしないわ」
スミレにそう言われて、ヒイラギはしぶしぶ、うなずく。
「……………………うん。分かった…………」
その後、昼食がすんで夕方になると、交代の世話役の女二人が来て、スミレとヒスイは再びヒイラギを抱きしめてから、その家を出る。
ヒイラギの世話役は、村の二十代の女の中から十人が選ばれて、二人ずつで組んだ五組が六時間ごとに交代する。
だから次にスミレとヒスイの番が来るのは、二十四時間後だ。
ただしそれとは別に、今日は日曜なので、深夜になったら世話役の女たちは全員が集まらなければいけない。
日曜は週に一度の魔物狩りの日だからだ。
その日の深夜、集まった十人の女たちは、来た者から順番に次々とヒイラギを抱きしめる。
それは、もちろんヒイラギの力を吸収するための行為だが、それだけではない。
ヒイラギは、無限の命を持って生まれたために魔物から狙われて、不便な生活を強いられているから、みんな彼女をなんとか元気付けたいのだ。
それから女たちは、それぞれが持っている魔物の武器を確認する。
それらの武器は、百年ごとに生まれる無限の命を持つ者と、その世話役だった女たちが、代々村に残してきたものだ。
ただしこの村のまわりでは、武器を使う魔物は滅多に出現しないので、最も新しい武器でも百年以上も前に奪ったものだと言われている。
そして集まった女たちの中でも、スミレとヒスイは特に入念に武器の確認をする。
毎週行われる魔物狩りでは、そのたびに先頭になって戦う者が交代するが、今日はスミレとヒスイの番だからだ。
確認がすむと、スミレが両手でヒイラギを抱き、ヒスイがその横に並んでヒイラギの手をつなぐ。
その体勢なら二人とも、常にヒイラギから力を得られるのだ。
先頭になって戦うのが初めてのヒスイに、今日で七十回目のスミレが声をかける。
「行くわよ、ヒスイ」
「……ええ。いいわ」
スミレが走り出すと同時に、ヒスイもその横で走り出す。
ちゃんとスミレの速さに合わせないと、にぎっているヒイラギの腕がちぎれてしまうので、ヒスイは十分に気を付ける。
ヒイラギから力を吸収した者は、それを使って身体能力を上げられるが、彼女は自分自身の身体能力を上げられず、普通の七才の少女と変わらないからだ。
もちろんヒイラギの腕は、ちぎれてもすぐに再生されるが、七才の少女にそんな痛い思いをさせる訳にはいかない。
それでヒスイは全神経をスミレの動きに集中させ、さらにその後ろを、八人の女たちが横に広がって追従する。
それからしばらくしてスミレが叫ぶ。
「村の領域から出るわよ!」
それを聞いてヒスイは心の中で祈る。
どうかあまり強い魔物は出ませんように。
そして村を出ると、すぐに魔物たちの気配を感じてスミレは足を止める。
魔物たちの何体かが、ヒイラギが村から出た事に気が付いて、それほど遠くない場所に出現したのだ。
スミレたちは万が一の時にすぐに逃げ込めるように、村の領域のそばで魔物が来るのを待ち構える。
どういう訳か大昔から、魔物たちは村の中には入って来ない。
仕組みは分からないが、なんらかの自然の力で、結界のようなものができているようだ。
だから本当に危なくなった時は、村の中に逃げ込めばいい。
やがて月明かりの下で、遠くの方に体長二十メートルほどの『三つ首ムカデ』が五~六体ほど、こちらに向かって来るのが見えて、女たちはみんな、げんなりする。
『三つ首ムカデ』はそれほど強くなく、先頭になって戦うのが初めてのヒスイの相手としては、ちょうどいいのだが、その姿と動きが気持ち悪いのだ。
この時、女たちの中で、最も落ち着いていたのはヒイラギだろう。
生まれた時から、この魔物狩りに連れ出されてきたヒイラギにとっては、魔物も日常の一部だからだ。
スミレは抱いていたヒイラギを降ろして、その手をつないだヒスイが自由に動けるようにする。
「ヒスイ、私が常にあなたの後ろにいるから、好きに戦っていいわよ。でも攻撃に夢中になって、ヒイラギの腕をちぎったりしないようにね」
「分かっているわ」
そう言ってヒスイは、ヒイラギとつないでいるのとは反対の手で、カバンから魔物の武器である黒い玉を出して、それを本来の形に戻す。
ヒスイの、にぎられた手から空中にふわふわと漂う糸のようなものは、振ると女が泣いているような音がするので、『悲しみの糸』と呼ばれているものだ。
その糸は真っ黒なのに、なぜか夜の暗闇の中でもはっきりと見える。
そしてヒスイは、向かって来る『三つ首ムカデ』に向けて、その糸を振る。