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月の光と水玉模様

作者: Cinnamon

いたずら好きの神様がレコードにそっと針をおろす。

今日も世界がまわり始める。


「どうだい、僕らに一篇うたってはくれまいか?」と紳士風のカンガルーはたずねる。

すでに軽く酔っぱらっているのか、その酒と煙草とチーズの混ざった奇妙な匂いが辺りを漂う。

「ええ、それでは」と僕はニッコリ笑う。

「"月の光と水玉模様"というのはいかがでしょう?」


―  誰かの庭で小さなダンスパーティーが開かれたんだ

    そこで僕は誰かとぶつかり「ごめんなさい」と声がした

     そして僕は出会ったんだ ツンと上を向いた鼻がチャーミングな彼女と

      それはまるで月の光と水玉模様をまとった夢のようで   ―


              ☆



吟遊詩人と名乗るようになってから、僕は行き先を見失い彷徨う渡り鳥になった。

時が流れ、僕らは汚れ、傷つけ合いの果てに生み出した未来の申し子たちに囲まれながらも、

ひとは尚、愛すことを忘れず、今も昔もその暖かみは変わることなく続いている。

そして僕はそんな世界が好きだ。

かつて数多くの吟遊詩人たちがそうであったように。


けれど厳密にいうと僕は決して吟遊詩人などではない。

歴史も、神話も、語り継げるべき事柄は僕には見つからない。

語り継げるべき相手も、語り継げるべき静寂でさえも。

ただ、便宜的に僕のことを吟遊詩人の端くれとでも呼んでもらえるのなら、

僕はそれに誠意を持って応えようと思う。


              ☆



「おはよう、カシア。今日もいい天気ね」とローズマリーは声をかけた。

「おはよう、ローズマリー」

カシアは、悩みなんてひとつもないのよ、といったようなローズマリーの声をとても気に入っていた。

いつものように微笑みと沈黙を漂わせる彼をよそに、ローズマリーは空を見あげて目をつむっていた。

「ほんとうにいい天気。それに、あたし、この曲も好きよ」

「ぼくも好きさ。何ていう曲名だったろう?」

「あら、そんなことあたしが覚えてると思う?」

「それもそうだね」ふたりは笑いあった。


空はどこまでも青く、広かった。

このダイアネルグという古い街は、その若々しい緑の豊かさと、このあたりでは一番おおきな都市の近郊ということもあって、比較的のんびりとしたベッドタウンとなっていた。街の中心を横切るようにはしる線路は行儀の良いヘビみたく上品にうねりながら都市へと続いている。

数多くの住民は毎朝、街のまんなかにあるダイアネルグ中心駅へと足をはこび、そこから半時間ばかりほど、構内で買った味のうすいコーヒーやら毎日の消費といった感じの味気ないサンドイッチを手にそれぞれがそれぞれの忙しい朝にひといきつき、これからはじまるであろう大量の紙切れとのながいながいにらめっこに備えているのだった。

しかしそれらの飽くなき憂鬱やコーヒーのうすさなんてものは、若いカシアやローズマリーにとっては永久にくることのない明後日のことのようなものだった。彼らは、今日への期待と明日への希望を考えるだけでその次の日の憂鬱なんか怖るるに足らないのだ。

彼らは若く、そして世界も若かった。

若さをうらやむ人たちは、しかしそんな世界を憎んでもいないし、大抵はむしろ暖かく見守っていようと微笑みかけていた。


「あ、"スケーティング・イン・セントラルパーク"」とカシアは突然思い出したようにささやいた。

それに気付いたローズマリーは、あら、なにか言ったかしら、という表情で彼の顔を見つめた。

「"スケーティング・イン・セントラルパーク"だよ、この曲」

「ああ、そうだったわ。あんた、よくそんなこと覚えているのね」

ふたりはやわらかな時のなか、木々を一部分刈ってつくられた細い木漏れ日の道をならんで歩いていた。

ダイアネルグ広場にて持参の紅茶とサンドイッチでも食べながら、明日のカシアの誕生日パーティーの概要をいくつかの友人と確認するためだ。途中、道ばたでどんぐりを拾っていたリスに「こんにちは」と挨拶をし、今日の午後の予定をきいてみた。

「あとで隣の丘の私の友人に久々に逢うつもりさ。今日は見てのとおり天気が素晴らしいからね。木漏れ日の下、ゆれる光の雫にあわせ二人でダンスをするんだ。きっと素敵な一日になると思う。このどんぐりはそのときに食べようと思ってね。余ったら、すくないけど明日の君の誕生日パーティーにも持っていくよ」

とリスはそのちいさな体長くらいの大きさもある靴下にどんぐりを詰め込みながら言った。

くちのなかに含んでいてはまともに会話することだってできないのだ。

「ところで二人は散歩かい?」

「いまからチコリとアニスに会いにいくのよ。明日のことを話しあうんだけれど、あたし、それよりも花の香りのする風に吹かれながらお昼寝がしたいわ」ローズマリーは大袈裟にも思えるような身振りをし、そのまま午後の風をまとって昼寝する自分の姿を想像して笑みがこぼれた。

「きみはほんとうに自分勝手なんだから……」とカシアは呆れて言った。

「そんなことないわ、そうよね?リスさん」ローズマリーはくちを尖らしながらリスに同意を求めた。

「そうじゃないということにしておいたほうがすべては丸く収まるようだね」リスは大声で笑った。

「それじゃあ、私はもう少しどんぐりを拾わないといけないから」とリスは右手いっぱいのどんぐりをくちに含んだ。そして「ほひへんよう……」と言って素早く去っていった。


              ☆



「悪くないんじゃないか?なぁ、おまえ」とカンガルー紳士は隣にむかって相づちを求める。

蒼いドレスをすらっと着こなすコアラは、そうね、という微笑みをうかべる。

ありきたりだったけどあなたがそう言うのなら、といったふうに。

それからカンガルー紳士は、ちょっと失礼、というと席をたち、4マルティンと引き換えにグラス一杯の赤ワインを手に持って戻ってくる。

「あら、私の分はなくて?」とコアラ婦人はすまし顔でカンガルー紳士のほうを見る。

「まだグラスが空いてないじゃないか。ワインという飲み物はね、じつにゆっくりと味わって飲むものなのさ。もちろん、自分のペースでね。次の飲み物が用意されてから一気に飲んでしまおうなんて、ワインに失礼だ。とくに、テーブルワインといえども、僕はこのオーストラリア産の赤ワインに対して失礼に当たる行為はしたくないんだ」

カンガルー紳士の言葉は、さくら色に染まった頬のせいもあってかどうにも説得力に欠けていてコアラ婦人はクスッと笑ってしまう。

「あなた、かわいいわね……」

そんなコアラ婦人の意見はもちろんカンガルー紳士の耳にとどくはずもなく、僕に、なにかリクエストしてもかまわないか、と思いたったかのようにたずねる。

僕は、もちろんですよ、と返す。

「"セントラルパーク"。うん、そうだ……なんとかセントラルパークといったぐあいの名前の曲だった気がするんだが……いまいち思い出せないな。……あまり有名な曲ではないんだ。たしかビル・エヴァンスが誰かと共演していたと思う。わかるかい?」

「奇遇ですね。私はビル・エヴァンスを敬愛してやみません」

そして僕はリクエストされた曲を弾く。


それから僕は流れにのって続ける。

"明るい表通りで"、"スリーピン・ビー"、そして"ラッキー・トゥー・ビー・ミー"


              ☆



飴色の風がながれていた。

チコリとアニスは広場のちょうどまんなかあたり、おおきな木のしたの芝生に寝転がっていた。

気付かない彼らのかわりに、そのおおきな木は枝をゆさゆさと振り、カシアとローズマリーに合図をすると、二人はやれやれといった具合に顔をみあわせた。


「はやいのね、ふたりとも」

ローズマリーは芝生に寝そべるアニスとチコリを上から覗き込むように言った。

「あんたたちがあんまりおそいから、うっかりうたた寝しちゃったわよ」チコリは大きくくちを開け、あくびをした。

「ローズマリーだろう?おそくなった原因は。ぼくにはわかる」とアニスは言った。

彼もつられてあくびをしていた。

「そんなの簡単よ。わたしにだってわかるわ」とチコリはいい、そして、そうでしょう?という視線をカシアに向けた。

「ちょっと二人とも、今日はあたしじゃないわ」とローズマリーは主張した。「カシアがいけないのよ。今日はひなたを歩いていたいんだってわざわざ遠回りしてここまできたんだから」

「ごめんよ、でも久しぶりに曲を聴いたものだから……」とカシアは足下に擦り寄ってくるダンデライオンを見つめつぶやいた。

「気にしなくていいさ、カシア。ローズマリーのおもりばっかりじゃ体が擦り切れて半分になっちまうよ」

「アニスの言うとおりだわ。気にしなくてもいいのよ」とチコリはカシアの額に軽くくちづけをした。

ローズマリーは拗ねて「はやくお茶を飲みましょ!」と急かした。


スリーピン・ビーは花びらから花びらへと愛の小粒をはこんでいた。

そのちいさな愛のたねをふさふさしたみじかい体毛に絡めると、満足したかのように空へとむかって舞いあがり、そして孤独を感じとっては危険をもかえりみず精一杯のしあわせを伝えに飛んでいくのだった。

カシアたちはかばんから銀色のつつみ紙を取り出すとそれを広げた。そして、ローズマリーの「お腹が空いたわ」という合図とともにたがいに持ちよったサンドイッチを食べはじめた。ポットから簡易コップに紅茶を注ぐと、湯気みたいな誰かの白昼夢が午後一時の空へと吸い込まれていった。

すこしすると紅茶の香りに誘われたのか、ダンデライオンたちがあつまりだしたのでカシアはパン屑を与えていた。

「これ、もうすこしばかり温めれないかしら?」とチコリはスコーンをひとつ手のひらにのせて言った。

そうすると、もちろんだとも、とでもいう具合に太陽はその照りつけをいっそうに増し、チコリ達のまわりの空気が熱くなった。

「あら、あたしのチョコレートマフィンまで溶けちゃったじゃない」とローズマリーは言った。

そして、「溶けてしまっても、それはそれでおいしいのだけど……」とひとりで納得し、マフィンをちぎってはまたおいしそうにくちへとはこんだ。

ローズマリーが「おいしい」と言うたびにダンデライオンたちはその花をいっせいに咲かせ、そしていっせいに種子をわたのように膨らまし、枯れていった。カシアがそれにあわせ「そうだね」と微笑むとおだやかな風がその綿毛を連れ去り、あらたな生命をあたりに根付かせていった。


午後の時間は伸び縮みをくりかえし、1分間が120秒であり、15分間が実際に90秒だったりした。

一足さきにサンドイッチを食べ終えてしまったカシアは体をうしろに倒し、芝生のうえに寝そべった。

そして1、2、3……と数字をそらに浮かべながら昨日までの自分を振り返ってみるのだった。

ぼくはぼくでよかったのだろうか?

もしぼくが庭先に植えられた一本の木だとしたらどうなっていたんだろう?

それなら、林檎のなる木がいいね……

ぼくにお水と早朝のご挨拶をくださるおうちのご主人様を見守り続けよう。

ご主人様がぼくの枝に手が届くくらいおおきく成長なさったときは林檎をつけるんだ……

林檎は嫌いだと思う?いや、林檎を嫌いな子どもをぼくは見たことないぞ……

うんとあまく実らせよう。そうだ、それならその場ですぐ食べれるものね……

そこまで考えたところで、耳の辺りにじゃれあうダンデライオンたちを感じ、くすぐったくなってカシアはとび起きた。


明日、雨が降らないといいんだけど、とローズマリーは思った。

「明日、雨降らないかしら?」

「簡単なことさ」とアニスは答えた。「雨降りと友達になればいい」

「それはわたしにもできることなの?」とチコリは割ってはいった。

「できるさ。誰にでもね」とアニスは得意げに笑い、つづけた。

「いいかい、まず朝起きて窓の外をみるだろう?そしてきみは気付くんだ。今日は雨降りの日だってね。そしたら顔をいつもより丁寧に洗い、朝食をゆっくり食べ、しぼりたてのフレッシュ・オレンジジュースを一杯、最後に濃い紅茶を飲むんだ。きみはそうして身支度をすませ、いざ外へ出ようという時に傘を忘れるんだ。」

アニスはここまで言うと、レモンの利いたアールグレイをひとくち飲んだ。

「そう、外は小雨が降っているんだ。きみは傘をささずに中心駅まで歩く。雨降りはだんだんとその勢いを増し、きみは自分の足下ばかり目で追っている。そして思うのさ、雨なんか嫌いだ、ってね。そうすると雨はさらに強さを増し、きみはびしょ濡れのまま、今度は中心駅から家へと向かうんだ。家へ着く頃には風邪をひいているだろう。もちろんさ。そして襲いかかる疲労感に身をゆだね、眠りにつく」

ローズマリーは、そばに身を寄せるダンデライオンたちが雨降りのなか歌いながらおたがいを励ましあっているところを想像していた。

「そして」とアニスは言った。「きみは夢をみる」

「夢のなかで、きみは'雨降り'に出逢うのさ。そしておそるおそる聞いてくるんだ。『ねぇ、いったいどうして雨にうたれてただ歩いていたんだい?』ってね。そして、ここが重要なところだ、いいかい?きみは雨降りにこう答えてあげるんだ。『それはね、雨降りさん、ぼくはあなたを避けようと思っていないからです』雨降りはそれについてこう答えるだろう。『……知らなかったな。僕はいつだって嫌われ者だと思っていた。でも、違うんだね?』『いいえ、違います。ほら、じつにいま、ぼくはあなたを嫌ってはいないでしょう?』そして雨降りはニッコリ笑うとフッと消えてしまうんだ。夢はここで終わる」

「それで……そのあと何がおこるの?」とカシアは聞いた。

「熱で2、3日寝込む」とアニスは言った。


              ☆



「あなた、ビル・エヴァンスの曲を好むと言っていたけれど」とコアラ婦人はたずねる。

「"ワルツ・フォー・デビィ"は弾けるかしら?」

「もちろんですよ」と僕は答え、"ワルツ・フォー・デビィ"を奏で、つづけて"マイ・フェイバリット・シングス"、それに"キス・ミー・アット・ザ・ゲート"、そして"バット・ビューティフル"を弾き、"サム・アザー・タイム"を最後に一息つくことにする。


すこしあとで、僕がバー・カウンターでギムレットのハイボールをちびちび飲んでいると、コアラ婦人がやってきてなにも言わずに僕の隣のスツールに座る。そしてバーテンダーに目線をおくり、彼がグラスを拭き途中のまま彼女の方に近づいてくるのを一呼吸分待ってから、カンパリをたのむ。

「それ、シェークしてくださる?レモンピールもおねがいね」

「かしこまりました」とひとこと残して彼はもとの場所へ戻っていく。

「それで」とコアラ婦人は言う。「あなたはどうして吟遊詩人なんてしているのかしら?」

どうやらその言葉は僕にむけられているのだと気付き、僕はいささか戸惑ってしまう。

彼女のほうへ視線を向けると、依然、彼女はバック・バーに飾られる琥珀色の蒸留酒を見つめている。

「的確に述べることができて」と僕は言葉を慎重に探しながら答える。

「しかも万人が納得のいく理由など僕にはありません。」

「それはいったいどうして?」

「理由があるとすればそれはあなたの心のうちに秘められているからです」

「それは初耳だわ」とコアラ婦人は軽蔑するでもなく、至極単純に声に出してそれを呟いてみせる。

「あなたが一瞬一瞬に感じとり胸の奥にしまってしまう、名もなきイメージたちをそっと両手ですくいあげ、形におこしてあげるんです。それは難しいことではありません。そしてある種の存在としてかたちづけられたイメージたちは明確な輪郭をとって、そのイメージの持ち主にじつにいろんなことを思い起こさせるのです」

コアラ婦人は目の前におかれた情熱色のカクテル・グラスには手をつけず、じっとしたままでいる。

「要するに」と僕は付け加える。「イメージの回帰です」

「それが私の求めるものであり、私の存在理由であり、あなたとこうして会話を持つことのできたきっかけなのです」

「あなたって、珍しいのね」コアラ婦人ははじめて僕のほうを向き、目をあわせてから、微笑する。

そしてカンパリをスッとひとくちで飲むと、いまは目の前にいるバーテンダーに、ダイキリのオン・ザ・ロックを、とオーダーする。

然るのち、赤いマラスキーノ・チェリーとかすかに感じるコアントローの香りがラムとライムの調律をゆるぎのないものとするダイキリがコアラ婦人の眼前におかれる。

それをひとくち飲んでから、「美味しいわ」と聞こえるか聞こえないかくらいの声でつぶやく。

そして「つまり、こういうことね」とコアラ婦人は切り出す。

「あなたは私たちが求めるところに存在し、そして本当に求めているものを呼び起こしてくれるのね」

「少なくとも、それが私が詩を以て行わんとすることです」

「不思議なひと」コアラ婦人は微笑んで手に持ったロックグラスに目をやる。


              ☆



「置去りし瞳は寂しさの雫」とローズマリーは旋律にとらわれくちずさんでいた。

「けれど私はさようならとささやくの……」

彼女の唇は品のよい感じにちいさく、そしてうすい赤色に染まっている。その柔らかい唇のすきまから溢れるように旋律はながれ、宙を舞い、そして風にさらわれていった。

カシアはそれを見かけては、邪魔をしてしまわないように視線をもどし、そしてただ耳をかたむけているのだった。

「あたし」と曲の終わりにローズマリーは言った。

「きっとこの"ワルツ・フォー・デビィ"が一番好きなんだわ」

「そうみたいだね」カシアはそっと彼女のほうを向いて微笑んだ。

ローズマリーは満足げにその愛らしい唇の両端にえくぼをつくり、そしてまた髪を揺らしながら余韻にひたった。

「どうやら、次もワルツみたいだよ」とカシアは言った。「ぼくはワルツが好きなんだ。とても……」


「ところで明日の準備はできてるのかしら?」チコリが思い出したように言った。

「サルビアさんでしょ、マーガレットでしょ、それにアッシュにホリー、ミルトル、リリィ、ジェサミンにアンジェリカ……みんなにちゃんと声をかけておいたわ」ローズマリーはマーガレットの名前をくちに出す時、カシアのほうをちらっと見た。カシアは照れくさそうに下を向いていた。

「料理のほうはぼくに任せておいてくれ」とアニスは言った。「とびきりうまいものをこしらえてやるさ」

「お菓子はわたしね」とチコリが付け加えた。

「あたしにも作り方教えてちょうだいね」とローズマリーはすかさず言った。

「もちろんよ。明日、一緒に作りましょう」

「明日は楽しい夜になるぜ」とアニスは笑い、ふと思い出したようにカシアを見た。

「ところで、カシア、例のものは用意してくれたのかい?」

「うん」とカシアはこたえた。

「昨日のうちに、若い葡萄酒に実ったばかりのオレンジやレモンなんかを切って漬けておいたよ」

「いまからすでに待ち遠しいよ。去年は至福の味がしたものね」

「こいつは病み付きになるはずだよ」カシアは得意げに笑った。

「マーガレットが喜んでくれるといいわね」とローズマリーはカシアをからかった。

「そうだね。そうなるといいな……」カシアは今はもうオレンジ色の空に向けつぶやいた。



恋は楽しかったり悲しかったりするのさ

時に穏やかで時に狂おしいもの

良いことであり悪いことでもあるよ

でもそれがいいのさ


恋は素晴らしいもの

僕は知ってるよ……



やがて"サム・アザー・タイム"のイントロが聴こえる頃にはカシアたちは食べ散らかしたあとの片付けをしていた。散らかしたままでいると、ダンデライオンたちがわれさきにとパン屑を奪いあい、やがては傷つけあいをはじめてしまうのだ。

ひととおりゴミくずをまとめてしまうと、それらを布でつつみ、おのおのが革かばんの中につめた。

彼らは「おやすみなさい」とおたがいの頬にくちづけをし、5秒間の抱擁を胸に感じてから、それぞれの帰路についた。

「雨降りのやつに明日は我慢していてくれと伝えておいてくれないか」

別れ際、カシアはアニスに言った。

「おやすい御用さ」とアニスは言い、それからちょっと考えて、

「台風の機嫌はわからないけどね……」と付け加えた。

「彼女と仲良くなるには、渦のなかに飛び込まなくちゃならない」

彼らがその場を去る頃には、彼らが座っていた場所を囲むようにダンデライオンたちがいっそう色鮮やかに咲き誇っていた。


              ☆



夢のなかで僕は悲しみを抱いていた。

このちっぽけな世界にあって、街はいろとりどりの花で満ちあふれている。

それはときに慈しみの色であり、苦しみの色であった。

寂しさの色であり、楽しさの色であった。

憂い、悔み、喜び、憤り、憎しみ、親しみ……

悲しみ、そして愛しみ。

それはじつにひと独りでは抱えきれぬほどなのだ。

それでも僕らは愛でるようにすべての花を両手で優しく包み込み、

誰の目にもふれないところでそっと広げては漂う香りにとらわれ、

そしてまた誰の目にもふれないようにそっと包み込むのだった。

もちろん、なかには苦手な香りのする花を記憶とともに捨ててしまうものもいた。

あるいは、抱えきれぬほど育ててしまった花をささえきれず、

やがてはそのすべてをまっ逆さまに落としてしまうものもいた。

だが、大抵は、記憶とともに本のページのあいだにすっと挟み込まれ、

いつか忘れ去られた頃に再会し、その香しき懐かしさにひたるのだ。

そして僕は悲しみを抱いている。

僕のではない。どこか、遠い誰かの悲しみだ。

ひとは独りで深すぎる悲しみを抱えきれぬ。

悲しみの色は儚く、同時に永遠なのだ。

鮮やかに、そして美しいほどに真実なのだ。

耐えきれず腕から花はこぼれ落ち、花は行き場を失う。

僕はその花を一度拾ったことがある。

それから、こぼれ落ちた悲しみたちは僕のもとへやってくるようになった。

彼らは彼ら自身の悲しみでふかく覆われており、

僕がそっと手を差し伸べると、おそるおそる僕の方へ寄ってきた。

彼らが僕の腕のなかに包まれる時、僕はにっこりと彼らに微笑みかけた。

彼らも、僕ににっこり微笑みかけた。

そして僕の一番好きな色へとそのすがたを変えるのだ。

その色はあたたかく、太陽の匂いがした。


              ☆



遊戯場にいるような"ベリー・アーリー"の音色を背にカシアは熊猫と踊っていた。

熊猫はどうやらどこか東方の生まれらしく、カシアが実際に目で見るのはこれがはじめてであった。

ふかふかした白と黒の愛らしい模様に、陽のやさしい光をすみずみまで吸収した洗いたてのシーツのような匂い、それになんとも言えぬ懐かしさをその鼻先で感じながら、まるで抱きつくようにステップを踏んでいた。カシアと同じくらいの背丈であるこの熊猫の腕はとても短く、上手になんて踊れやしないのだ。

それでも、熊猫はその気だるいからだを精一杯動かし、なるたけカシアから笑顔をひっぱりだせるよう懸命に努力をしていた。

しばらくしてあまりに楽しそうなカシアを見て、ローズマリーはいてもたってもいられなくなってしまった。 そして熊猫の背中にとつぜん飛びつくと、すぐさま腹のほうへ回り込み、一番体温の高いところを目がけて自分の鼻を押し付けた。熊猫は一瞬驚いていたが、ローズマリーの「んー」という声とバラの香りに警戒心をとき、カシアと3人で手をつなぎ踊りはじめた。


やがて曲が"不思議の国のアリス"になるころには、庭の木々もワルツの3拍子にあわせて嬉しそうに枝を揺らしはじめた。何事かと思い、その土だらけの身を地面のからひょっこり出したもぐらも足場を固めるのを忘れたまま上半身だけで体を左右にゆっくり振っていた。

夜行性のネズミたちは軒下からコソコソ出てくると、先ほど台所で手に入れたチェダーチーズを掲げて跳ねまわっていた。それを狙っていたのら猫もあまりに隙だらけなネズミを前にすべてがどうでもよくなってしまったのか、ふんっと鼻から息を出すと、とぼとぼ夕闇の中へと消えていった。

果実入りの葡萄酒を片手に騒いでいたアニスたちもくるくると回りはじめる世界に気付いたのか、目を閉じて鼻歌まじりに酔いしれていた。


「こいつはまいったな」とアニスはチコリを見て言った。

「なんだかよくわからないけど、やけに楽しいんだ」

「あら、わたしもよ……」とチコリが答えると、アニスにくちづけをし、しばらくのあいだその姿勢を保っていた。


「マーガレット、あんたもこっちに来なさいな」とローズマリーの遠くから呼びかける声が聞こえると、マーガレットはアッシュに「ちょっとむこうへ行ってくるわね」とひとこと残し、カシアたちの輪のほうへ歩いていった。

「こっちへおいでよ」とカシアはマーガレットに手を差しのべ、彼とローズマリーのあいだに誘って熊猫と4人でワルツを踊った。もぐらはすでに地面から這い出ていて、ネズミと楽しそうに追いかけっこをしていた。


曲が終わり、"ダンシング・イン・ザ・ダーク"の始めの部分がかかると、ローズマリーは気を利かしたのか「のど乾いちゃったわ、あたし」と言って、カシアとマーガレットを後にのこし、サルビアたちのいるテーブルへと向かっていった。


カシアにとって、それは一生忘れることのないだろう素晴らしき夜であった。

普段はもの静かにしか笑わない彼もこのときばかりはいつにない大声で笑い、はしゃぎ、そしてとびきりの笑顔を振りまいていた。彼のまわりには笑顔の草が然るのちに顔を出しはじめ、やがて笑顔の花を咲かせた。

マーガレットも、これまで見たこともなくそしてこれから先もおそらくお目にかかることのないだろう熊猫とたくさんの笑顔の花にかこまれ、カシアに話しかける声の調子がどことなくいつもより高かった。


ひとしきり踊ってしまうと、熊猫は小さく「ありがとう」と言い、カシアも「ありがとう」とこたえた。

そしてその言葉を最後に、そのままもとのうすらでかいぬいぐるみに戻ってしまうのであった。

カシアはその等身大ほどの熊猫のぬいぐるみをきつく抱きしめると、そばに立っていたマーガレットのほうを見て「こんな素敵なプレゼントをありがとう」とあらためて言った。

「いいのよ……わたしも熊猫を見るのは初めてだったもの」とマーガレットは得意げにこたえた。

「こんな素敵なものだとは思わなかったわ。協力してくれたみんなのおかげね」

カシアはもういちどつよく熊猫を抱きしめると、「ありがとう……」と誰にも聞こえないか細い声でつぶやいた。


              ☆



要するに、カシアがマーガレットたちから贈られたものはしま模様に飾られたちいさな箱で、開けるやいなや、たちまちおよそ予測できないほどの煙とともに背丈5フィートほどの熊猫がその愛くるしい姿を現したのだった。

「それ、'いんちき'にひとつだけ置いてあったわ」とマーガレットは言った。

「'いんちき'って街外れにあるあの異国風のちっちゃなお店のこと?」カシアは奇妙なスパイスのにおいを思い出し、しかめつらをした。

「そうよ、'いんちき'。アッシュの提案なの」

「アッシュか……じゃあ彼にありがとうを伝えないとね」

アッシュ、という言葉がマーガレットの口からこぼれたとき、カシアの胸はずきんと音をたてた。しかしその音は誰に聞かれることもなく、永久の無へと響いていくのだった。


カシアの誕生日パーティーに顔をだすことのできなかった作家のミルトルとリスからはそれぞれ本と小包がとどいていた。ミルトルから贈られた本の表紙には'こいのうた'と記されており、右下には'アシィ'と書かれていた。1ページ目には次の言葉がそっとおかれていた。


「ひとを憎むな。ぼくたちのこころは憎しみという感情を込めるには小さすぎる」


リスが送ってくれた小包をあけると、きんちゃく袋いっぱいに詰められたどんぐりと'エスカルゴとどんぐりのフリカッセ ブルゴーニュ風'と銘うったレシピノート、それに手紙が底に入っていた。

「カシアくん。こんな手紙で君の誕生日を祝うことになってしまって申し訳ない」と手紙に書かれていた。

すまないが、となりの丘へと住まいを引っ越すことにしたんだ。

しばらくこの土地に慣れるまできみのところへは出かけることができないかもしれん。

お別れの言葉は言わないさ。

近いうちに私の息子を連れてそっちのほうに挨拶にいくことができると思うからね。

手紙の最後は「お誕生日おめでとう」としめくくられていた。その下にはリスのサインと日付までしてあった。

アニスとチコリからはカシアの好きな杏仁酒が手渡された。

それはカシアが飲んだことのある安っぽいアーモンド酒などではなく、本当に杏の核からうまれる幻想的な夢の香りがした。カシアがひとたび蓋をあけ、鼻先を近づけてその夢の香りをじゅうぶんに堪能すると、なごり惜しそうにきっちりと蓋をしめ、そして1分後にまた蓋をあけて幻想の世界へと誘われるのであった。

ダイアネルグの次期市長とうわさされているサルビアからは、彼のもっとも尊敬するビラージュ=ジョン・スプリングウッドの新作が贈られた。

それは気持ちのよい感じに包装されていて、リボンまでついていた。

「それを読むといい」とサルビアはカシアに言った。

「文章が素敵なんだ。きっと君も気に入ってくれるとおもう」

「ありがとう、サルビアさん」カシアはていねいに礼を言った。

「僕はこれまでじつにいろいろな本を読んできたけれど、彼ほどの天才をみたことはないぜ」

「そんな難しそうなもの、ぼくに読めるかな……」カシアは不安になった。

「難しくなんかないさ。いいかい、読むんじゃない、感じるんだ。要するに、風の声を聞くのとおんなじさ」

「風の声?」

「そう、風の声。僕はね、スプリングウッドのファンキーさがたまらないと思うんだよ」

文学におけるファンキーさとはいったいどういうことなのだろう、といった顔のカシアにきづいたサルビアは彼の肩に手をおき、「大丈夫さ」といった。サルビアの言葉の奥底には強靭な意思が宿り、その意思にみのる果実をそっと差しだしているようであった。


ローズマリーからはちいさなおもちゃのようなものがカシアに手渡された。

「はい。お誕生日おめでとう、カシア」

「ありがとう、ローズマリー。とっても嬉しいよ」

リボンや金銀の包装さえ施されていない手の平ほどのおもちゃを受けとり、カシアはその重さ、握りごこち、固さなどを確かめるようにいじってみた。どうやらそれはカシアの知識を掘りおこしてもどこにも見当たらない、異質の機械的ななにかであるらしかった。

「それ」とローズマリーは言った。「あたしとおそろいなのよ」

そう言うと彼女はかばんから似たような形状のおもちゃを取り出してみせた。

それはカシアのものよりいくらかでこぼこしており、数字まで記されていた。おもちゃ?

「まるでおまもりみたいだね……」

「そう、おまもりよ。だから大切にしてちょうだい」とローズマリーは満足した顔で言った。

そして「あたし、サルビアさんのところにいってくるわ」というと足早に行ってしまった。


              ☆



そして僕はいま"エミリー"を弾いている。

カンガルー紳士はどうやらバーボンのオン・ザ・ロックを飲んでいるらしく、時折グラスのなかに指をいれては丸氷をくるくると回している。コアラ婦人はそれにあわせ、バーボンのソーダ割りをひとくち飲んでは細長い煙草を口にそえている。

二人のあいだに会話は存在せず、どちらもそれぞれ別のことを考えているようにおもえる。

僕は"ピース・ピース"へと曲を変える。


月の無いこの夜に、酒場はひどく孤独に満ちている。

静けさが日中の冷めやらぬ興奮を追いかけ、その興奮をやっとのことで掴まえるとき、それがたいしたものでなかったことに気付くのだ。

そのころにはすでに静寂が疲労した静けさを覆い、より深い沈黙へと進化を遂げるのである。

ろうそくの灯火のような日々の出来事がポッと不意に現れては、一瞬の安らぎを創りだし、またすぐに音もなく消えていく。僕らは、その灯火の数をかぞえ、いくばくかの凍えを癒しつつ、深い眠りにつく。


僕は"ニアネス・オブ・ユー"を弾きはじめる。


              ☆



サルビアのとなりでローズマリーはいくらかおとなしそうにサルビアの話に耳をかたむけていた。

そのつぶらに輝く茶色の瞳はサルビアの黒い瞳を飽きることなく見つめ、ほおは少しばかり紅潮していた。

サルビアの話はローズマリーがこれまでに耳にしたことの無いような類いの物語で、彼女が驚き、共感し、そして感動するたびにミモザがあたりに顔を出しはじめた。

やがて二人はたくさんのミモザに囲まれ、そのやすらぎの香りに包まれると、サルビアは調子良くなり、もっと話を続けた。若いローズマリーにはサルビアの話す彼の崇高な野望がもうひとつ理解しえなかったが、そんなことは彼女にとってたいした問題ではなかった。


魅惑の明かりも甘い会話もいらない

あなたのそばにいれること ただそれだけでいいの……


              ☆



リリィがカシアのとなりに申し訳なさそうに座ると、彼に光る円盤を差しだした。

リリィの右足首には小さな鈴がくくりつけられており、彼女もそれをいつの時でも外そうとはしなかった。

要するに、鈴の音色が聞こえるときは、すまし顔の猫か、あるいはリリィがそばにいるのだ。

それはとても彼女に似合っていたし、ひとりで気まぐれにどこかに行ってしまうときにとても役にたった。

「リリィはね、この人たちのお歌がすごく好きなのよ」とリリィは言った。

「なるほど」とカシアは言った。「レギィユ……聞いたことはある。独創的なひとたちだとおもうよ」

「その円盤の中心に人差し指をいれて、まわしてみて」

「いったい何がおこるんだろう」とカシアは言い、言われたとおりに円盤を回してみた。

今宵はいつも以上に色鮮やかな月の祝福をうけ、その月影はいくらひとりじめしても永遠に尽きないように思えた。月のひかりは円盤の遠心力に捕らわれたように収束し、やがて銀色の暗号に反射されると分解されたひかりがそのかたちを作りはじめた。

いまカシアとリリィの眼前には"プルミエラムール"を歌うレギィユがそろい、それはまるでコンサート会場の特等席にいるような雰囲気さえ味わえた。

「こいつはすごいじゃないか、リリィ」

「でも月明かりの夜でなければ聴けないのよ」

「つまり、月明かりの夜なら好きなだけ聴けるってことだろう?」とカシアは微笑んだ。「ありがとう、リリィ」

リリィはそれを聞いていままでこわばっていた顔をくずし、いつもどおりの気まぐれな顔つきに戻った。

そしてカシアの肩にもたれかけるとレギィユの曲を静かにくちずさみ、目をつむった。


やがて右足首の鈴の音で目を覚ますと、さっと立ち上がり、カシアに「もう行かなくちゃいけないわ」と伝えた。

カシアも立ち上がってリリィの頬にお別れのキスをすると、リリィはカシアを見つめ「抱擁してもいいかな」ときいた。カシアがこたえる前にリリィは彼の首と腰に手をまわしきつく抱擁をした。

そしてきっちりおたがいの記憶をこころに刻み付けると、すぐに離れ、なにも言わずにジェサミンのほうへ鈴をならしながら走っていった。

「なにやってたんだい、おまえ」とジェサミンがリリィに問いかけるのがきこえた。

「なんでもないよ……」とリリィはうつむいて言った。


月明かりの夜空には"恋に落ちた時"が奏でられていた。


              ☆



「あなた、この詩は知っているかしら?」

僕がひといきついていると、コアラ婦人はたずねる。スピーカーからごく小さい音量で流れるビリー・エクスタインの"マイ・フーリッシュ・ハート"のことを言っているのだ。

「私のもっとも得意とする耽美的なナンバーですね」

「そう。じゃあそれをお願いできる?」

そして僕はできるだけこころを重ねるようにして"マイ・フーリッシュ・ハート"をうたう。


曲の終わりには、カンガルー紳士とコアラ婦人だけではなく酒場のすべてのひとの拍手を受けとり、僕はすこしばかり照れくさくなってしまう。明日にはこの街から去らなくては、と考えるといささか寂しさを感じ、切ない気持ちになる。

しかしそれは仕方のないことなのだ。

「よかったわ、とても」とコアラ婦人は言う。

「忘れていたなにかを思い出させてくれるような詩だったな」

カンガルー紳士はポケットから10マルティンと数えるのも面倒だというほどのイブ・コインを取りだし、僕にそれをにぎらせる。僕は「ありがとうございます」とていねいに礼をいってから、おかえしに"エンブレイサブル・ユー"を弾く。


それからカンガルー紳士とコアラ婦人は身支度をし、バーテンダーに会計を済ましてから、立ち去ろうとする。

「ありがとう、名もなき吟遊詩人くん」とカンガルー紳士は言う。

「こんなに長居をするなんてな。なあ、おまえ」

「そうね、ちょっと長居しすぎてしまったわ。でも悪い気はしないのよ。おかげでとても楽しい時間が過ごせたわ」

「そうだとも」とカンガルー紳士はおおきくうなずく。だいぶ酔いがまわっているようだ。

「ところで、あなた見かけない顔だけど」コアラ婦人は何かを思い出そうとしている。

「いったいどこから来たの?」


              ☆



「つまりね」とサルビアは諭すように言った。「僕は平等な世界を求めるのさ」

「いったいどうなっちゃうのかしら」とローズマリーはいかにも不思議だ、という顔をした。

「なるたけ平等にしたいんだ。なにもかもね」

ローストチキンが盛りつけられたおおきな丸い皿も、山みたいに盛られたサラダボウルもアニスやチコリとローズマリーが半日かけてこしらえた色とりどりのメインディッシュたちも、いまやすべてカシアたちによって中途半端に平らげられ、ネズミのエサになんかなるまいと精一杯のちからで細長いテーブルの上を駆け回っていた。

テーブルから足を滑らせたサーモンソテーの残骸は下で待ち構えていたのら猫にまんまとひとくちで飲み込まれてしまった。月のひかり、心地よい夜風、こぼれた葡萄酒……こんな幸せは太陽にだって奪えはしないだろう、とネズミは思った。だから、そのおいしそうなトマトピッツァ、どうか僕のもとから逃げないでおくれよ……


アニスやチコリたち、みんながどこへ行ったのかは誰も知らなかった。

誰もがこのひとときを、愛を語り、今日のあれこれを笑い、あさっての空想を広げ、思い思いに過ごしていた。そしてローズマリーはいまサルビアとふたりっきりでいれるこのときをずっと感じていたいと思っていた。ずっと…明日が来なくても……

「サルビアさんの言う世界平和ってつまりそういうことですのね?」

「おそらくね」とサルビアは対面に座る虚空を見据えてこたえた。

「あたし、世界が平和になるとしたら、しあわせが毎朝郵便受けに入ってるような世界がいいわ」

「なるほど…」

「お母さまがパンの焼けぐあいを、お父さまが新聞紙の匂いを嗅いでいるあいだに、あたしはその日の分のちいさなしあわせがどういう香りをしているのかいちばん最初に知りたいんです」

「…ふむふむ…」

「家族のみんなに今日のしあわせを伝えられるなんて、素敵だとおもいませんか?」

「…うんうん……え?なんだい?」サルビアは虚空とのにらめっこに敗北を喫し、それまで勝てることのないにらめっこをしていたことに気づいた。

「サルビアさん、いままた聞いてなかったでしょう?」とローズマリーがくちを尖らせて言った。

「あ、いや、そんなことはないよ……平和と愛。ラブ・アンド・ピースだ」

「僕の考える、なるたけ平等な世界とはね…」とサルビアはつづけた。「たとえば、立場の平等さだよ」

「身近なたとえを考えてみるね……そう、たとえばペットさ。たとえば、君がおおきなラブラドール・リトリバーをおうちに迎えたいとするだろ?僕らは彼に安全な住まいを提供する。しかしその代わりに彼は僕らのエゴのために束縛されることになる。だけど確保されたまいにちの食事の分は誰が支払う?だから彼は君に忠誠を尽くすのさ。でも考えてみてくれ、それがなまけもののシャム猫だったらどうなるだろう?彼はどことない気品があるからね。きっとネズミを追いかけまわすなんてことはしないだろう。でもちょっと待ってくれ。それじゃあ彼の食事は誰が払う?」

サルビアはいったん、呼吸をととのえた。

「……つまりさ、彼だって働かなきゃならない。ノルマは彼に直接相談してみないとなんとも言えないが、僕が市長になったらまずだいいちに、家からネズミを追い出す義務をあたえるね。そうでなければ、彼自身を追い出し、家に住みつくネズミに食事をあたえる代わりに、ヒゲソリ一回分くらいの電力をあのくるくる回り続ける遊戯で蓄えさせるね」

ローズマリーは、目の前にぶら下がったまま永遠に追いつくことのないチェダーチーズに狙いをさだめ爆走するネズミを想像してクスッと笑った。


「でも」とサルビアは言った。「平等にしたくないものがひとつある」

「愛するこころさ」

そのとたん、ローズマリーのからだはたちまち緊張し、リズムが急激にはやまったのを感じた。

それまで囲むように揺れていたミモザたちも、はっ、と息をひそめた。

「要するに、僕のいとしいフィアンセへの愛は誰にも分けることはできない……」

「……え……フィアンセ…?」

ミモザたちは音もなく枯れ落ちていった。

「あれ?僕、君にまだ伝えていなかったかな?僕はこんどアンジェリカと式を挙げるつもりなんだ」

「アンジェリカと……知らなかったわ、あたし……ごめんなさい」

「いや、悪いのは僕だよ。伝え漏らしてしまってすまない。君も式に招待しようと思っていたんだが……」

「あ……いやだわ、あたし、ネズミが散らかしたお食事がドレスについてしまったみたい……お手洗いにいかないと……」

「お話の途中でごめんなさい」とローズマリーは顔を伏せたままちいさな声で言った。

「アンジェリカとの結婚、あたし、賛成です。アンジェリカもお友達ですし、とっても嬉しいわ」

ローズマリーは精一杯の笑顔をつくり、その場をはなれた。


月のひかりは不穏に揺れ、はなやかなミモザたちが散ってしまってから空気が濁り、みんなとつぜん息苦しくなってしまった。サルビアも、カシアたちも、ネズミたちも、のら猫も、もぐらも……


              ☆



「それでね…」

「そのサンタさんの服を着たチワワのあとをこっそりつけていくとね……」

カシアはマーガレットと木のつるのハンモックに向きあって寄りかかっていた。

カシアが手と手で空気の重さをはかるようにチワワのおおきさを描いてみせると、ハンモックはすこし揺れ、マーガレットが昨日帰りみちで見かけたグレート・ピレニーズがどれほどおおきかったのかを両手いっぱいにあらわしてみせると、またハンモックはおおきく揺れ、カシアがその飼い主であるお隣のいじわるおばさんがさらに巨大であることをからだ全体をつかって示すと、ついにふたりはハンモックに振り落とされてしまった。

同時にしりもちをついたふたりは顔を見合わせ大声で腹をかかえ笑いあった。

そしてそのまま草原に寝転がってみると、カシアはマーガレットをよりいっそう近くに感じた。

ゆっくり目をつむると、いま見ていたお月さまがまんまるくまぶたの裏側にあらわれ、その明るさを捕えようとするとローズマリーのまるい顔に変形してしまって、カシアにはどうにもつかまえることができなかった。ローズマリーがまんまるい顔をしているだなんて言ったら、怒られちゃうよ……

そして、このまんまるい月をローズマリーはいま見てるのだろうか、と誰にでもなく問いかけてみた。

やさしい"マイ・フーリッシュ・ハート"の音色に耳を傾けながら、ふとローズマリーとサルビアが座っていたテーブルのほうに目を向けてみると、そこにふたつばかりあった人影がいまは見えないことにカシアは気づいた。そればかりか、月のひかりはいたって不平等にこの庭を照らし、テーブルの上におとなしく乗っていたはずのチキングリルまでいつのまにか月のひかりがより照らすほうへとのそのそ移動していた。


となりで目をつむっているマーガレットは気持ちよさそうに夜草のにおいをかいでいたが、カシアは「ごめんよ」とだけ言うとあわててとび起き、庭をざっと見回してみた。

そして絡みつく雑草の嫌がらせを蹴散らしながら屋敷のいりぐちまで一直線に走った。

やがてカシアの前にここは通すまいぞとたちはばかる玄関扉の挑発もあったが、聞き入れずそのまま勢いよく蹴破ってなかに入り、一気に階段を駆け上がった。階段は一段一段踏まれるたびに、醜くいやらしい笑い声をあげた。


息をととのえてから、カシアは物音ひとつしない自分の部屋のドアを3回ノックをしてみた。

当然、返事はなかったが、ドアをあけた先には熊猫のぬいぐるみに抱きつきながらほそぼそ泣いているローズマリーがいた。

彼女のまわりには心配するかのようにイブニングローズが集まり、なんとか彼女から笑顔を引き出そうと変なかおをしてみたり、とび跳ねたりしていた。しかし彼女のからだに触れてしまうと一気に燃えあがり灰になってしまうので、結局はなにもできずにおろおろしているだけであった。

カシアはそっとローズマリーに近づき、彼女の頭をゆっくり撫でた。

そしてそのまま横に座り、しばらくのあいだずっとそのまま撫でていた。

やがてローズマリーは声を出し泣きはじめ、いよいよイブニングローズたちは涙をこぼしながらその場に耐え尽きてしまった。窓のそとではのら猫がしずかにローズマリーとカシアを覗いていた。

のら猫のあたまにはもぐらが乗り、その上にネズミが乗っていたので、その影に気づいたカシアはかいぶつがやってきたのかと勘違いしてしまったが、よく見ると月のひかりに反射された6つの涙の雫がかいぶつの影のなかで印象的に輝いていた。

そしてローズマリーが泣き終わるまでゆっくり待ってから、彼女のほおにそっと手をあて、100年分のくちづけをした。ローズマリーはなおも泣きながら、熊猫から手を離し、カシアの抱擁を受けとめた。


「すごい熱だよ、ローズマリー」カシアはローズマリーのひたいに自分のひたいをあてて言った。

「こころが枯れそうなの」とローズマリーは言った。「さむいのよ……」

「かわいそうなローズマリー……泣くのはおよしよ。せっかくのお化粧が台無しになっちゃうよ」

「いいのよ…お化粧なんて…」とローズマリーはつぶやいた。「だからもうちょっとこのままでいさせて……」

カシアはローズマリーの背中を、昔どこかでおぼえたリズムを思いだすように忘れないように、ゆっくりたたいていた。彼女のちいさな体はとても熱く、そしてひどく凍えていた。

窓からさし込む月明かりの照らす先にはローズマリーの手があり、カシアとおそろいであるおもちゃのおまもりがしっかりと握られていた。そしてカシアもポケットからローズマリーにもらったおもちゃのおまもりを取りだしてじっと眺めてみた。

「……それ、受話器なの」ローズマリーはそっと言った。

「受話器?つまり、電話機の受話器?」

「あたしのは送話器。……どこにいてもお話ができればあんたが迷子にならないですむでしょう?」とローズマリーはうつむきながらちいさな声でつぶやいた。やわらかそうにゆらゆら揺れる茶色の髪のあいだから、ほのかに紅く色づいたちいさな耳がのぞいた。

「でもぼくのは受話器だよ。それに……ぼくが迷子になったことなんていちどもなかったとおもうよ」とカシアが言うと、ローズマリーの頬までより紅くなってしまった。

「……あたしは大丈夫だから…」とローズマリーはそれにはこたえずに、うつむいたまま言った。

「……マーガレットのところへ行かなくてもいいの…?」


ローズマリーの瞳からこぼれ落ちる春の雫は音もなく床へ着地し、さっきまであたりを埋め尽くしていたイブニングローズたちはつぎつぎに死滅していった。

熊猫のぬいぐるみは動かぬまま涙をながしていたが、いくらローズマリーに雫を落としてもすべて蒸発してしまい、ローズマリーのこころは枯れていくばかりだった。


カシアには月明かりのカーテンでローズマリーをつつむこともできた。

そこらじゅうに落ちている星屑を拾いあつめて両手いっぱいに差しだすこともできた。

夢から夢へと飛びまわり、お腹いっぱいになるまでお菓子を食べさせてあげることだってできた。

まっしろな翼でこのちいさな世界のすべてを見せてあげることも、

そのかよわい手を引っぱって昨日や明日を駆け巡ることも、

処女雪におおわれた純白の迷路を目の前にひろげてあげることも、

彼にはなんだってできた。

けれど、ローズマリーの美しい涙の雫をぬぐう術だけがいくら探しても見つからなかった。

カシアは自分の無力さにうちひしがれ、同時にこれまでの自分の生きかたを憎んだ。

たったひとりの女の子を前に、なにもしてあげれない自分自身が憎かった。


けれどいくら自分を憎んでみても、なにひとつ変わることはなかった。


どんな想いもありのままに届けるから、

ひとは完全ではないから愛しあうのだ。

みんな、等身大のあなたが好きだよ。

大切なのは愛をそそいでくれるひと……

気づいて、きみはひとりじゃないよ……

深呼吸して、こころのうたに耳をすましてごらん。

どんなに時が過ぎてもぼくらのこころはいつもあたたかい。


そして、カシアはついにその茶色の瞳からこぼれる水玉をそのあたたかい手で拭ってあげることができた。

「好きな人はいくらでもつくることができるけれど」とカシアは言った。

「ローズマリーはひとりしかいないんだ」


静かに、そう、とても静かに、"マイ・ロマンス"が奏でられていた。


「ねぇ、あたし、忘れていたことがあるわ」ローズマリーはカシアをみあげた。

「うん」カシアはいつものように微笑んだ。


さっきまで枯れていたイブニングローズはいま溢れんばかりに息を吹きかえした。

それを目でゆっくり確認してから、カシアはとてもシンプルに言った。


「あたたかい紅茶でも飲もうよ」


              ☆



ところで、"月の光と水玉模様"には続きがあるのをご存知ですか?

それは「めでたしめでたし」と終わりを告げたのち、こう続くのです。


―  そしてふと誰かが手を握る暖かみを感じたんだ

    僕はしま模様の花に埋もれ寝そべっていたのさ

     目の前には輝くような 月の光と水玉模様

      ツンと上を向いた鼻の彼女がやさしく微笑んでいた  ―


まぁ、ほんとうのところ、そんな続きはたったいま僕が考えついたものなのですけどね。



いかがでしたでしょうか?

ところで、物語や構成自体は僕が考えたまったくのでたらめですが、

この文章スタイルは僕独自のものというには少しばかり影響されすぎていると思います。ですが僕の中には一種の憧れのようなものがあって、どうしても書きたいようにしか書けませんでした。それはいままで読んできた数少ない名作たちから影響されてきたものであり、単なる自己満足であろうと、模範をすることでそういった偉大なひとたちの仲間入りをしてみたかったのかもしれません。


貴重な時間を頂いてまで、この短い物語を読んでくださってありがとうございました。いくらか穏やかな気持ちを感じてもらえたら、著者としてとても嬉しいです。


アシィ、勝手ながらあなたの素敵な言葉を引用させてもらいました。

ここで感謝の気持ちを示したいと思います。ありがとう。

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