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血はめぐる、水もめぐる

作者: はるの

 兄弟っていったって、まさか血がつながってるわけじゃないって思っていた。庭先に埋まった〝兄さん〟は、しなやかな枝を空に広げて今日も今日とて光合成。若葉のみどりにが目にあかるく、身長はぼくより高い。皮膚はサルスベリみたいにつるっとしているけれど、葉のかたちはちがっていて、手のひらほどの大きな葉がわさわさ茂っている。ぼくは彼の弟らしいけれど、ただの人間だ。環境に優しそうな〝兄さん〟の外見とうらはらに、黄色い肌に黒髪、茶色の目とおもしろみも難もない姿かたちをしていて、だからこれと父親がいっしょだなんてとうてい信じられないんだけど、ねえ母さん。と仏壇に線香上げながらぼやいてみるものの、当の本人は写真立てのなかでほほえむばかりである。ため息まじりにお(りん)をひとつ。

 母さんはずいぶん前、ぼくが小学生のときに死んだ。母子家庭のうえ親戚にもめぐまれていなかったから、ぼくは母さんの位牌と写真を手に遠縁と施設のあいだをたらい回しの憂き目にあったわけだけれど話したってだれもおもしろがらないからそれは置いておく。肝心なのはここ三週間の話だ。忘れもしない。血がつながっているんだかどうなんだかわからない親戚のうちでシンデレラさながらにこき使われていたぼくを、たずねてきたひとがあったのだ。ちょうど夕飯のしたくをしているとき、三角巾に割烹着のまま出ていったら、立っていたのは茶色いツイードのジャケットの見知らぬ男。

「こんにちは。弟くん」

 にっこり笑ってそう言った。白髪混じりの黒髪を見るにけっこう歳がいっていそうだったが、表情は明るく若々しい。まんまるのフレームの眼鏡に、ぽっこり膨らんでシャツを押し上げる腹も相まって、動物に例えるならたぬきかな、という気がする。とそこまで考えて我に返る。なんのことだ弟って、ぼくには兄などいない。目の前のこのひとが? まさか。

「さあ、家に帰ろう」

「待って、ちょっと待ってください」

 ためらいもなくおさんどんスタイルのぼくの腕を引っ張る男を慌てて制すると、どうして抗うのかわからない、という顔をされて困ってしまう。「兄さんのところに帰らないのかい」「いや、待って、わけがわからないんですが」そんな問答を繰り返すうち、奥から現在ぼくを養っているおばさんが出てくる。玄関でなにを騒いでいる、と鬼婆めいた形相で。

 男はずうずうしくも家に上がりこみ、おばさんは熱湯のようなお茶をなみなみと注ぐはめになった。おばさんにとってぼくは体のいい労働力兼ストレスのはけ口であったので、はじめはぼくを渡すことをずいぶん渋っていた。けれど男が熱すぎるはずのお茶を平然と飲み干しながらぽんと札束を座卓に放り出すと目の色を変えた。かくしてぼくは三角巾と割烹着を脱ぐのもそこそこにあの家から連れ出されたのだった。

 家があるという山際へと向かう電車は日曜の昼間だというのにがらがらだ。席に座りながら、ぼくは聞いた。

「どうしてあんな大金を?」

「そりゃ、ぼくは兄弟は揃ってあるほうが美しいと思うからね。全集とうたっていながら一冊でも欠けていたら興醒めなように」

「ぼくに兄がいるんですか。聞いたこともなかったけど」

「異母兄だよ」

 男は鬼永(きなが)と名乗った。ぼくが顔を見たこともない父の、友人であるらしい。執念を感じさせる物言い通り、彼は蒐集家だった。鬼永さんの家までやってきて、彼がぼくをさがしに来たのは先の『一冊でも欠けていたら興ざめだ』なる美的感覚の結果であったのだと知る。すぐそばに青々とした山を仰ぎ見る一軒家は平たくぼろく、けれども広さだけは第一級で大きな部屋をいくつも擁する。その一間一間が本、花瓶や食器、あるいは丸まった掛け軸等々、蒐集品たちのうずたかい山で埋まっているのだ。ぼくが絶句していると、鬼永さんは、「ひとつ手に入ると、ぜんぶ揃えないと気が済まなくなる性質(たち)でね」と笑った。

 もともとはこの家は、父の持ち物であったという。

「あとのことを頼んで突然いなくなってしまってね。そのとき私は詐欺にあって一文無しだったから、渡りに船と転がりこんだ」

「詐欺?」

「そう。龍のミイラを売ってくれるって話だったんだけど、ずいぶん金を騙し取られた」

 聞くからに眉唾な。騙されるひとがいるものか、と思ったけれど目の前にいるからなにも言えない。金を取られたというのに気にしている様子もなく、鬼永さんはあっけらかんとぼくを庭に誘った。兄が居る、と言って。

 そして紹介されたのが庭の隅に根を張ったあおあおとした姿だったというわけだ。ぼくはそれこそ詐欺にあっているのだと思った。けれど至極まじめに鬼永さんはぼくを〝兄さん〟のとなりに並ばせ、うんうんとうなずく。

「やっぱり、兄弟だな。こうして並ぶとしっくりくるよ」

「……似てるってことですか?」

「そうだね、その目もとのくりっとしたところはよく似ている。弟くん、名は浅茅(あさぢ)だったね」

 鬼永さんは一度家に引っこんだ。奥から出してきたそれを手渡しながら、有無を言わせぬ笑みを口もとに刷く。

「兄さんは瀬木。兄弟どうし水入らずで仲良くするといい」

 水入らず、と言いながら手渡されたのは水のなみなみ入った如雨露だった。言われるまま、〝兄さん〟――瀬木の根元に水をかけると、気のせいでなく、葉むらがざわざわと鳴った。この緑色が兄だなんてなにかのまちがいだ、きっと。だけどそんな思いに反して、如雨露をにぎる手の皮膚はびりびりとしびれて、彼の喜びを解していた。


 以来、三週間になる。いつしか瀬木に水を遣るのはぼくの役目になっていた。瀬木は葉に水をたっぷり溜め込む性質らしく、快晴続きの五月は水遣りがかかせない。水を遣ると、瀬木が嬉しげに身を震わせるのが肌の感覚でわかる。むずむずとしたものが指先の細い血管を通ってはい登り、通った道を熱くするのだ。はじめこそその感触を気味悪く思っていたぼくだけれど、人間は慣れる生きものだ、近ごろではなんとも思わないどころか、水を遣るたびすなおに喜びを示す〝兄〟にかわいげさえ感じていた。もっとも、瀬木を兄だと認められたわけではなかったけれど。皮膚の感覚のことは鬼永さんに話していない。さすが兄弟だと感心されるのが嫌だった。

 ある朝、起きると部屋は薄暗く、さあああ、というノイズがあたりを満たしていた。ずりずりと膝で畳を移動して庭を見ると、雨。ずいぶん久しぶりだった。今日は水遣りがいらないなと反射的に考えている自分がいて、首を振る。

 瀬木のみどりは雨のなかにあって、さらに冴えわたるようだった。心なしかいつもよりものびのびと枝葉を伸ばしているように見える。雨を受けて不規則に揺れる葉を見ていると、いましがた抜け出してきた眠りの世界にまたいざなわれそうだ。とろとろとまぶたが重くなり、いまにも眠ってしまうというところで背後から呼びかけられる。鬼永さんだ。ずいぶん慌てている。

「浅茅くん、庭に出していた水盆、軒下に入れてくれ」

「濡れちゃいけないものなんですか」

「瀬木の陰に置いているやつだよ。金魚が入れてあっただろう、この雨じゃ溢れてしまう」

 鬼永さんはぼくの胸に半透明の雨合羽を押しつけると、ほかにも片すものがあるから、と畳敷きの床を蹴ってきびすを返す。ふだんから気を配っておけばこんなに慌てることもないだろうに、男やもめにとはこのことか。

 雨合羽を着て庭に出て、瀬木の木陰に寄る。水遣りのとき何度か見ている水盆だ。瀬木の無聊をなぐさめるのに置いているらしい。ふちが紺色と白の紋様で彩られたそれは、改めて見ると思いのほか大きい。そのうえ水で満たしてあるから重たいだろう、ずるずると引っぱっていくしかなかった。

 かがんで、水盆に手をかける。息をととのえ引こうとした、そのとき。ぬかるんだ地面に足をとられた。あ、と思ったときには体が均衡を崩している。

 とっさに手を伸ばした先に、瀬木がいた。濡れた手でつるつるとすべる幹にしがみつく。

 とたん――どくん、と全身が脈打った。

 思えばぼくは、そうして瀬木にふれたことがなかった。幹の手触りをたしかめるくらいはしたけれど、こんなふうに抱きしめたことはない。いざ全身をふれあわせてみると、べったりと瀬木に接した手のひらを、肩を、右の胸を……心臓をめぐってゆく一本の熱い流れを、強烈に知覚させられた。

 加速していくぼくの流れの向こうに、もう一本べつの流れがある。つるりとした木の皮膚ごしの、熱い血潮。それは瀬木のものだ。根からこずえへ、枝葉へ、ぐるぐると全身へ水をめぐらすそのリズムが、ぼくの鼓動と呼応する。濡れたてのひらがすべった。吐きだす息が湿る。にじむ視界で葉むらを見あげると、新緑に細かな水のつぶがからみつき、わずかな光にもきらきらと光っている。

 ひときわ音高い鼓動がふたつ重なって鳴り響いて、悟る。――こんなにもちがうけれど、兄弟、なんだ。だって皮膚のうちに秘めた流れが、こんなにも近しい。

 まぶたやほほを雨粒が打ち、つたい落ちていくのにもかまわずいると、ふいに頭上から声が降った。

 浅茅。

 それは落ち着いた青年の声のように感じられたけれど、ほんとうに聞こえたのかどうかわからない。空気の震えでしかなかったような気もする。ただ、ぼくの濡れた熱い皮膚に触れるとすっと血管まで染みこんで、そこに溶けた。浅茅。そう、ぼくは浅茅だ。兄が、ぼくの名を、呼んだ。

 ぼくは慕わしいひとにするように頬を摺り寄せ、目をつぶっていた。降り注ぐ雨が、ぼくと瀬木のなかをめぐる血をつないでいた。

 ……しかし、どこか熱病にも似た快美がはじけ消えるまでに、時間はかからない。

 葉にたまった大きなしずくが落ちて、ことさら熱いうなじを打った。そのつめたい衝撃ではっと我に返る。ぼくは幹にしなだれかかっていた体を起こし、後ずさった。ぬかるんだ地面に靴がめりこむ。

 いまのは、瀬木のことばだ。

 実感してしまうと、燃えさかるようだった体が急速に冷えていく。指先から、体の芯までこごえ、震えはじめる。降りしきる雨の音がいやに遠く、耳鳴りのように聞こえた。


 どうにか鬼永さんの言いつけを果たしたけれどそのあとはなにもする気が起きず、外で雨がそぼ降るなか、寝て過ごした。昼間に眠りすぎたせいで、夜は目が冴えている。まぶたをとじて無理やり寝入ることに成功したけれど、けっきょくは、夜半すぎに目が覚めてしまった。

 部屋は密度の高い闇ですっかり満たされていて、天井がどんな様子だかもわからない。それでもしばらくまぶたを開いたままでいると、目が慣れてくる。身を起こし、体だけひねって夜の庭を見やる。

 ……だれかに、呼ばれた気がした。

 立ち上がって、はだしのままひんやりとした土を踏む。

 その瞬間、あなうらが地面に吸いついた。間を置かず、足がずぶずぶと土に沈みこむ。体の芯が末端に末端に逃げていくような感覚があって、どんどん手足の自由がきかなくなる。なかばまで土にもぐった足がねじれて、ぐ、とその場に根付いた。振り上げた手も宙に縫いとめられ、先へ、先へと伸び、しまいに枝分かれする。かと思うとみどりの葉がめぶき、しげり、陰を作る。皮膚はつやつやとした茶色に変じ、するすると胴が伸びる。

 視界がおぼつかなくなったかと思うと、唐突に俯瞰。ぼくはあおあおと葉をしげらせる一本の木になり、庭の隅に生えていた。

 声を上げて、飛び起きる。荒い息を吐き出し、掛け布団をぎゅうと握りしめる。呼吸が落ち着くころようやく、夜半過ぎ目が覚めたことも庭に出たことも、木になってしまったことも夢だったのだ、と悟る。あたりはまだ真っ暗だった。闇のなかで前髪をくしゃくしゃとかき乱し、長い息をついた。ひどい夢だ。恐れがそのまま表れたような。

 でも――だって、そうだろう。木と人とのことばがわかる人間なんて、おかしい。はんぶん血がつながっているっていうなら、ぼくもいつああした緑色になってしまってもおかしくないんじゃないか?

 ばかばかしいと吐き捨て、立てた膝頭にひたいをこすりつける。止まれ、止まれ、と命じるのに、がくがくと震える体は恐怖を示すばかりで少しも思うようにならない。まなうらの闇は深くなり、ぼくを追いつめる。

 どれほどの時間そうしていただろう。ぼくは鼻腔をくすぐる香りに、顔を上げた。気のせいかと思ったけれど、ちがう。薄闇の向こうから、あまいにおいがただよってくる。熟れた果実のような、華やいだにおい。においをたぐっていると、ふいに、視界のはしになにかの影が引っかかった。

 庭のほうから、枝が伸びてきている。早回しの映像を見ているように、じわじわと、枝が軒下にもぐり、縁側を横切り、開け放たれた障子のあいだを通ってぼくのいる和室まで。……瀬木の枝だった。枝がこちらに近づくごとにあまいにおいが近くなり、発生源が彼なのだと知る。だけどいったいどこから、と思った、そのせつな。

 葉の陰に隠れていた白いつぼみが、にわかに頭をもたげた。かたく巻いていたそれはゆっくりとほころび、やがて八枚の花弁を伸ばす。長くふわふわとした雄しべが中心から垂れて、いよいよ花の香が強くなる。ひとつが咲くと、枝のあちらで、こちらで、つぎつぎに。あっという間に満開だ。純白は暗がりのなかでも侵されず、視界のそこここが明かりでも点ったようにほのじろい。

 肌が――目もと、ほほ、首筋、そこを覆う皮膚が、ぴりぴりと痺れる。なにかもの言いたげな空気を、感じる。思わず花に指先で触れたとき、そこに走る細かな血管が震え、ぼくは聞いた気がした。

 大丈夫。

 朝方聞いた声ならぬ声だ。瀬木が、話しかけてきている。

 大丈夫だよ。

 不器用にもただ繰り返すばかりだ。ただ枝をぼくに差し向けて、花を夜風にそよがせて。瀬木は言った。

 ごめん。

 しぼりだすような声に、はっと目をみはる。きっとそれが彼の精一杯なのだ、と唐突にさとった。

 ぼくを苦しめることになったおのれの声を発すること。ややもすれば神経を逆なでするような行為だと知りながら……それでもこうしてこの場を訪れ、言葉をかけてきたのは。

 それが自分にできるただひとつだと、知っていたからではないか?

 なにもしないではいられなかったではないか? ……ぼくのために。

 指で花びらをすう、となぞり、枝に触れる。ゆびさきでその表皮のすべらかさから内側の仕組みまで、感じとることができた。近いところにある。この声も、血と水の流れも。彼が肉親だということがふたたび心に迫ってきて、けれどちがうのは、そこに生まれるのが安堵だということだった。肺に溜まってゆく花のにおいはどこかなつかしい。すがりつき、泣きたくなるほどに。

 枕に頭をうずめる。視界を埋める満開の白と、むせ返るような花のにおいのなか、ぼくはふたたび眠りに落ちていった。恐ろしい夢はもう追ってこず、透明な暗闇がまなうらから溢れて、ぼくの思考をくるみこんでいった。


 翌朝、起きると、すぐそこの縁側に鬼永さんのずんぐりした背中が見えた。彼がなにを見ていたのかはすぐわかった。真夜中見たあの景色はまぼろしではなく、瀬木の枝はそこかしこに白い花を咲かせて家のなかまで伸びていた。

「一緒に暮らしていてはじめて見たよ、瀬木の花は。しかもこんなところまで枝を伸ばすなんてな」

「……きのうの夜更け、咲かせたんです。……いや、咲かせてくれたと言ったほうが、正しいのかも」

「へえ、浅茅くんのために。そりゃ風雅なことだ」

 よく見ておかないとな、と鬼永さんが身を乗り出す。それが妙に気恥ずかしい。目をそらしうつむいて、そのくすぐったさをやり過ごしていたけれど、そのうちぼくもいっしょになって瀬木の花を見ている。鼻腔を熟れた空気で満たして考える。ぼくが触れたとき、瀬木がぼくの名を呼んだのは、なぜだっただろう。

 考えて――今日も兄さんに、水をやろう、と思った。こずえに触れて、水のめぐり、血のめぐりを交わして話をしよう。薄情を謝って、それから。


本作は、2014年に頒布した同人誌『ないものがたり』に収録したものです。

アンソロジー水Web版に寄稿させていただくにあたり、加筆修正を加えてあります。

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