紹介された教師
ばーさんが呪文を唱え終わると、その隣に1人のローブを着た男がいた。ローブはばーさんが身につけているものと見た目は同じだ。並んで佇む姿を見ていると、年老いた母と初老の息子といった感じに見える。
(ひぇひぇひぇ、紹介するぞ。こやつがお主に王国語と魔法を教えるトーマス・エディスンじゃ)
(トーマス・エディスンです。よろしく)
そういうとエディスン先生は俺に向かって一礼した。
うん、名前を聞いた瞬間、どこぞの発明王を思い出したのは俺だけじゃないはずだ。名前が1文字違いというのがまた憎らしい。
(え? あ、俺、木村勇治です)
とても元営業職とは思えないような挨拶で切り返す俺。いやだって、まさか異世界に来てまで元の世界の有名人に似た名前を聞くとは思わなかったから。
エディスン先生はあらかじめ担当する科目について説明を受けているのか、呼び出されても落ち着いた態度だった。
(さて、あとはエディスンに任せる。経過報告はエディスンから聞くからの、しばらくは会うこともなかろう)
(俺はひたすら勉強ってわけ?)
(そうじゃ)
(あれ、それじゃライナスの守護は?)
(当面はエディスンが努めることになるの)
それだったら最初からそーすればいいのにと思ったが、別にばーさんが俺を守護にしたわけじゃないんだよな。うーむ、理不尽だがこの不満は胸の内にしまったままにしておこう。
(では、任せた)
エディスン先生に向けて一言そう言うと、ばーさんはそのまま消えた。
後は俺と先生の2人だけとなる。
改めて見ると、髪の毛をオールバックにした渋いおっさんだ。初老とはいえ、こういう風にうまく歳を取れたらいいなぁと地味に思う。幽霊みたいになったんでもう無理だけど。
ああそれと、俺と同じように半透明だ。ばーさんはどうも生きているようだが、エディスン先生はどうなんだろうか。
(やぁ、君のことはアレブ殿から聞いてるよ。何でも異世界から来たんだってね)
(あ、はい。そーなんですよ。気づいたら幽霊みたいになってて、もうどうしたらいいのかさっぱりです)
やっぱりエディスン先生はあらかじめばーさんから俺のことを説明されていたようだ。なら、詳しい説明はしなくてもいいのか。助かる。
(確かに大変そうだね。ただの平民がいきなり守護霊なんて。まぁ、それでもなってしまった以上はどうにかしないといけないんだけどね)
(ええ、これからよろしくお願いします)
俺が一礼するとエディスン先生は大きく頷いてくれた。おお、頼りになりそうだ。
(そうそう、私のことも話をした方がいいね。気づいているかもしれないが、実は私は既に死んでいる。つまり霊体なんだ)
(え、そうなんですか?)
(ああ。君はどうやら精霊に近い霊体みたいだから全く同じというわけじゃないが、似たような存在ではある。その辺りは、魔法の講義のときに教えるとしよう)
(はい)
日本の学校に通っていたときとは違って、今の俺は真剣に先生の話を聞いていた。何しろ文字通り右も左もわからない状態なのだ。ここで見捨てられると詰んでしまう。
(それと、我々のような霊体とは、一体どのような状態なのかということも先に教えておくよ)
ほう、確かにそれは重要だ。この世界に来てから色々確認していたが、それを体系的に教えてもらえるのならありがたい。
(まず、我々霊体とは、生き物として既に死んでしまっている状態だ。なので肉体がない。これはつまり、肉体に端を発する制限がないということである)
(はい)
(例えば、三大欲求がない。肉体を維持するための睡眠欲や食欲は必要ないし、種族保存のための性欲もだ)
げ、やっぱりないのか! うわぁ、道理で我が息子が無反応なわけだ。
俺は悄然としながらエディスン先生の話を聞き続ける。
(他にも、空を飛ぶこともできれば、壁や人とぶつかることなくすり抜けられる)
(……地面の下にも潜り込めますよね)
(その通り。もう試したのかね。ふむ、なかなか探究心旺盛でよろしい。そうなると、移動の仕方はもう知ってるのかな?)
(ええ。前進や後退って念じたらいいんですよね。俺は移動範囲に制限がかかってますけど)
(制限? ああそうか、君はライナスという赤ん坊の守護霊だったね。だったらそういったこともあるのかもしれない)
そうか、家じゃなくライナスを中心にとした範囲か。そうだよな、でないとライナスがどこかに移動したときに俺置き去りにされてしまうもんな。それじゃ守護霊の意味がない。
(移動範囲はどのくらいだろうか?)
(えっと、大体20メートルくらいですかね)
(20メートル? メートルとは君の世界で使ってる長さの単位かね?)
(あ……)
そうか、やっぱりこっちじゃ単位が違うんだな。困ったな、単純にメートル法の単位を置き換えるだけだったらいいんだけど、尺貫法やヤード・ポンド法に変換しないといけないとなったら大変だなぁ。
ということで、早速エディスン先生と確認し合った。この辺りの単位は嫌でも付き合うことになるので、早めに確認しておくべきだろう。
その結果、どうやらメートル法の単位を置き換えるだけでいいことがわかった。何でも王国が人間を統一したときに単位もまとめて統一したらしい。おお、その辺の仕事をしっかりしてくれてて俺は嬉しい。覚えることは少しでも少ない方がいいしな!
で、こっちにとってのメートル法はアーテム法と言うらしい。1メートルが1アーテムと等しく、あとはキロメートルがオリカーテム、センチメートルがイトゥネッカーテム、ミリメートルがイリマーテムとなっている。尚、アーテム以外は単語が長めなので、それぞれオリク、イトゥネック、イリムという略称があり、公式書類以外だと一般的にはこの略称が使われているようだ。
(ふむ、ということは、ライナスを中心に半径約20アーテムが君の行動範囲というわけか)
(はい、どうもそのようです)
今後はしばらく、こうやって知識のすり合わせが必要になるな。赤ん坊にゼロから教えるのとどっちが大変なのかはわからないが、俺はこのすり合わせをエディスン先生とやっていくしかない。
(わかった、それについてはとりあえず置いておこう。それで、霊体というのは人間だったときと異なることがわかったと思う。それらを踏まえた上で、君は今後王国語と魔法を覚えていくことになるのだが、授業は原則として丸1日24時間行う)
(は?)
俺は一瞬聞き間違いではないかと思って目を疑った。え、寝る間もなし?
(まぁ確かに驚くのも無理はないが、先程も言ったように霊体には肉体的な制限はない。つまりだ、いくら学問に励んでも疲れないということだよ!)
(なんだってー?!)
全くもってすばらしいと両手を広げながら感動しているエディスン先生だったが、学ぶことにそこまで思い入れのない俺にとっては喜ばしいことではない。
(先生、休憩も睡眠もなしですか?!)
(うむ、霊体には必要ないからな)
(いや、気疲れとかしません?!)
(研究に行き詰まったときなんかは確かにするが、基本的な言葉と魔法を覚えるのであれば問題あるまい?)
大ありだよ! これだからできる人間ってのは困るな! できない人間ってのはしょっちゅう蹴躓くんだぞ?
(先生、せめて復習する時間くらいはほしいです)
(もちろんだとも。1度覚えただけで完璧に使いこなせる人間などそうはいない。君は特に出来が悪そうだとアレブ殿もおっしゃってたから、私もその辺りは覚悟しているよ)
あのばーさん何てことを! いや確かに天才って勘違いされるよりはましだけど!
(とは言ったが、ちゃんと休憩くらいは挟むつもりだよ。確かに精神的な疲労は霊体でもするからね)
(わかってんじゃないですか……)
にやりとしつつこちらの反応を面白がってるエディスン先生を、俺はげんなりした表情で見返した。ああ、俺、遊ばれてる。
(ともかく、君は魔王を討伐する可能性を秘めたライナスを守るという重責を担っている。いずれライナスが世界中を旅するときに、君はそれを1人でやり遂げなければならない。その旅はきっとここで学ぶことよりも辛くなるはずだ。だから、今のうちにそれに耐えられるようになってほしいんだよ)
(え、あ、はい……)
突然真顔で言われた俺は神妙に頷くしかなかった。いや、それはわかってるつもりなんですけどね。でも、絶対思ってる以上に厳しいんだろうなぁ。
(ま、それはまだ10年以上先の話だ。当面は言葉を覚えることに集中しなさい)
そうだな、まずは言葉がわからんとどうにもならないからな。せめて会話くらいはできるようになりたい。あ、魔法も覚えないといけないから、読み書きもできるようにならないといけないのか。
幾分表情を崩したエディスン先生は俺に向かって話を続ける。
(それと、今は念話を使って会話をしているけど、言葉を学ぶときはこの状態のままだと学習できない。そこで、言語学習ができるよう君に特殊な魔法をかける)
なるほど、確かに霊体では念話しか使えないんだから、そのままじゃ勉強できないよな。
エディスン先生は俺への説明を一旦区切ると、何やら呪文を呟いてこちらに手をかざしてくる。手の先には青く淡い光が輝いており、それが俺とエディスン先生の全体を包み込んだ。そしてしばらくするとその光は消えてなくなった。
(なにも変化ないようですが……)
「×▲!〇?」
(え?! 何今の?!)
(聞き取れたかね?)
呆然とする俺に対してエディスン先生はにやりと笑う。
さっきの念話じゃないよな。さっきの魔法の効果か。
(今のはなんですか?)
(君と私の2人の間だけ、人間と同様に口や耳を使って会話ができるようにしたんだよ。もちろん今やっているように念話へと切り替えることもできる)
すげぇ! エディスン先生すげぇ! これならちゃんと勉強できるぞ!
(すごいですね! 霊体でもちゃんと勉強できるんだ)
(更に、読み書きをすることもできるよ。霊体用のペンと羊皮紙もあるからね。いくら書いてもペンのインクはなくならないし、羊皮紙も書いては消せる上にいくらでも用意できる。むしろ生きているときより学習環境がいいくらいだ)
そう言ってエディスン先生はペンと羊皮紙の取り出し方と使い方を教えてくれた。まだ王国語のできない俺は、適当な日本語や絵を描いては消してみる。む、普通に書いて消せるな。
(おお、ちゃんと書けますね)
(もちろんだとも。これから君はこれを使って王国語を覚えるんだ)
(はい!)
便利な魔法もあったもんだ。俺は珍しく学習意欲が湧いてきた。
(そうそう、ライナスの守護だけど、しばらくは私がすることになる。だから君は勉学にだけ励んでくれたらいいよ)
ばーさんも言ってたな。どうせ今の俺は何もできないんだから、これはむしろ渡りに船だろう。
(はい、よろしくお願いします)
(うむ、それでは早速始めようか)
ということで、この日からエディスン先生による俺への教育が始まったのだった。