残念! 学ぶことからは逃げられない
矛盾点を修正しました(2016/01/27)。
アレブのばーさんが去った後、俺は1人残された。いや、正確には赤ん坊のライナスとその母親もいるのだが、お互いいないも同然だからね。
そして失敗したなと思ったのが、このあと何をすればいいのかわからないということだ。これからどうなってしまうのかという不安もあって妙な焦りが湧いてくる。
(まいったな)
俺は顔をしかめつつ唸った。こんなことなら、ばーさんに何か暇をつぶせることを教えてもらっとけばよかったな。
本当にやることがないので何とはなしに赤ん坊の方に視線を向ける。
ばーさんによれば、あのライナスという赤ん坊が俺の守護する対象らしい。俺としては選択肢がないので守るしかないのだが、困ったことにどうやって守ったらいいのかわからない。それは後日教えてもらえるのだろうが、今すぐ問題が発生しても対処できないのはいいのだろうか。それとも今のところ何も起きないと考えているのかもしれない。
それにしても、このライナスもかわいそうな奴だと思う。こういった昔だと子供は親の仕事を受け継ぐのが当たり前だと聞いたことがあるから、やることが決まっていること自体は仕方ない。けど、それが魔王討伐なんだもんなぁ。死ぬ危険が高いことをやらされるなんてたまったもんじゃない。ゲームをプレイするときの設定なんかだと軽く流すだけだけど、こうやって目の当たりにすると職業選択の自由って大切だと思えてくる。まぁ、今の俺の置かれた状況はそれ以前の問題なんだが。
というようなことを考えながら俺は時間をつぶしていた。何しろやることがないのだからひたすら何かを考えて時間を潰すしかない。頭のいい奴や機転の利く奴なら色々思いつくのかもしれないが、俺はそこまでできる奴じゃないしね。あ、少し悲しくなってきた。
こうやって色々考えながら過ごしていたところ、ふと窓から入り込む日差しを見るとだいぶ赤みがかっていた。
(夕方か)
この世界にも昼夜の区別はあるのかと変なことに感心する。
そういえば、この家に住んでいる家族ってこの親子だけじゃないよな。最低限父親はいるはず。更にいうと祖父母や親戚もいるかもしれない。昔は大家族で皆が同じ家に住んでいたらしいからね。
そんなことを考えていると、母親がライナスをゆりかごに移して粗末な台所に立つ。そして、鍋の置いてある釜戸に薪をくべて火をつけた。夕食の用意をするようだ。
(どんなものを作ってるんだろう)
どうやら今日は作り置きしてあるもので済ませるらしく、鍋の中もをかき混ぜたり釜戸の火を調整したりするだけのようだ。新たに何か作ろうという気配がない。そして、なぜかそれがとても残念なことに思えた。何を期待してるんだ、俺は。
しばらくじっと見ていると、温まってきた鍋の中身から湯気が立つ。俺は気になって母親の隣に立つと鍋の中を覗き込んだ。何やら水っぽいスープらしきものに具が浮いてる。更に顔を近づけてどんな香りがするのか確かめようとした。
が、
(あれ、匂いがしない?)
そう、いくら湯気が俺の顔を通過しようとも嗅覚が全く反応しないのだ。幽霊なんだからある意味当然ともいえるのか。
確認のため足を釜戸の中へ突っ込んでみる。普通なら燃え盛る炎の中に体を突っ込むと熱いと感じるが、やはり霊体では何も感じない。
なるほど、視覚と聴覚だけが有効なのか。そして、触覚、味覚、嗅覚はダメと。
(うーん、見たり聞いたりするだけか。残念)
こういった貧しい家庭の料理だから期待はできないんだろうけど、何か損した気分だなぁ。などと食い意地の張っている俺は思うのであった。
料理を見ながら少し落ち込んでいると、後ろで扉の開く音がした。振り向くと1人の若い男が入ってくる。
「〇△☓!」
「☓¥!〇*+△」
何か言葉を交わしたようだが、何を言ってるのかさっぱりわからない。あいさつでも交わしたのか? なんとなく夫婦のように見える。
その若い男はそのままゆりかごにまで進む。そして、顔を近づけて何かつぶやいた。やっぱり旦那か? それよりも、赤ん坊に語りかけるのはいいとして、とりあえず手は洗った方がいい。ばーさんも何かあっちゃ困るって言ってたしな。この様子だとウィルス性の感染症にも注意しないといけない。
(あーでも、昔は衛生観念なんてないしな)
異世界とはいえ、文明レベルが現代日本の数百年前なら衛生なんて言葉を知らない人も多いだろうな。そういえば、昔の乳児の死亡率って5割以上だって本で読んだことがある。これは、俺も意外と活躍する余地があるか? 現世に干渉できればだが。
こうして俺なりに何ができそうなのか、3人の様子を見ながら考えた。
俺はあの後、室内にいる3人が眠るまでじっとその様子を見ていた。別に興味があったわけじゃなく、それ以外にすることがなかったからだ。言葉はさっぱりなのでしゃべっている内容は全くわからないが、表情などからして世間話じゃないかと思う。
夕食が終わると、妻らしき女は食器を片付けるために台所へ立ち、夫らしき男はまた赤ん坊が寝かされているゆりかごをのぞき込んだ。しばらくは何事もなかったが、途中で赤ん坊が泣き出すと、ちょうど食器の片付けが終わった女がすぐにやって来た。そのまま赤ん坊を抱きかかえようとする女に向かって、男の方は落ち着かない様子で女に何かを話しかける。しかし、何か言い返されるとしょんぼりとしたのが俺にもはっきりとわかった。どうも怒られたっぽい。その様子に俺は小さく笑った。
その後、日が沈むと男と女は早々にベッドへ潜り込んだ。電気どころかろうそくも見当たらないようなところじゃ、暗闇の中でやれることもない。そうなると寝るしかないからな。
(と思ってたら……)
何やらベッドの方でもぞもぞと動く気配がする。
それで何をしているのか気になって近づいてみると、あーあれだ。明るい家族計画、じゃなくて、夫婦の営みってやつだ。まぁこんな何もないところじゃ、やれること何て限られてるわな。
けれど、このとき驚いたのはそのことじゃない。何となく予想はついてたし。そうじゃなくてね、全然反応してくれないんですよ、私の息子さんが。昨日までだったら間違いなく反応してたはずなのに、今はこみ上げてくるあの欲望が全くない。
(うそだろ……)
今までの自分から考えて予想外の出来事に、俺は目の前の行為を無視して自分の下半身に目を向けた。頭じゃ喜んでいるのに、わき上がってくるはずの性欲が全くない。こんな状態に陥ってしまうなんて俺は思わなかった。
(幽霊になると性欲がなくなるのか?)
どういった理由かわからないが、ともかく自分の下半身が無用の長物みたいになってしまって愕然とした。あまりのことにしばらく呆然としてしまう。
そして、次第に荒くなってくる声を聞いて空しくなり、壁を通り抜けて屋外に出た。
(ああ、どうしたらいいんだろうなぁ)
幽霊みたいな守護霊になってまだ数時間しか経っていないのだが、あまりの無力感にため息が出た。見るだけ、聞くだけという状態というのは思っていた以上に辛い。
(ひぇひぇひぇ、えらい黄昏とるのう)
(うぉ、いつの間に?!)
背後から突然声をかけられて俺は驚いた。そんな気配は全くなかったんだが。
(ほれ、もっとしゃきっとせんかい)
(はぁ)
振り向いた先にはローブを身にまとった背の低いばーさんがいた。名前はアレブだったよな。
(弛んどるというか、腐っとるというか……まぁよい。ほれ、お主に作業を与えに来てやったぞ)
(一体何を?)
(言葉を覚え、魔法を使えるように修行するんじゃよ)
そのときの俺は呆然とその言葉を聞き入れていた。え、ばーさん、今言葉と魔法って言った?
(え? 言葉と魔法?)
(そうじゃ、物わかりが悪そうじゃから1つずつ説明してやる)
バカだという前提で話を進められることになったが、わからないことを教えてくれるということで我慢する。
(まず言葉じゃが、これはわからんと話にならん。じゃから最初に人間の共通語である王国語を覚えよ。それができたら、妖精語と魔族語を身につけること)
(魔法で言葉がわかるようにはならない?)
(そういう魔法も確かにあるがの。それでは魔法の効果を無効化されてしまうと言葉がわからんようになってしまう。じゃから1から覚えた方がいいんじゃよ。結局、楽はできんということじゃな)
そう言うと、ばーさんはこちらを小馬鹿にしたように笑う。その態度は腹が立つものの、言ってることは正しいのでやっぱり我慢だ。
(妖精語と魔族語? 王国語だけじゃダメなのか)
(ライナスが魔王討伐の旅を順調に進めていけば、必ず必要になってくるでの。お主も覚えておく必要がある)
(3カ国語も覚えられるかなぁ)
日本じゃ6年間学校で英語を勉強しても全然頭に入らなかったからな。日本語以外を身につけられる自信が全くない。
(ライナスが成人するまで15年ほどあるんじゃぞ。できて当然じゃろが。お主とて元の世界で生きていたときに使っていた言葉を覚えるのにそれ程かかったか?)
(いやまぁ確かにその通りなんだが……)
問題なのは、母国語と外国語は違うってことなんだよなぁ。ああでも、日本の英語教育は悪いって聞いたことがあるから、当てはまらないのか? うーん、わからん。
(教師はつけてやるから安心せい。さすがに独学で学べとは言わん)
(ああ、それなら何とかなるか?)
俺の疑問形の答え方にばーさんは眉をひそめたが、そのまま話を続けた。
(次に、言葉を覚えるのと並行して魔法を使えるようになるんじゃ。具体的には、ライナスを守るための魔法じゃな)
(俺でも使えるようになるのか?)
(お主の生まれ育った世界では魔法は全くなかったそうじゃが、こちらの世界に来て精霊に近い霊体となっている以上、できんはずがないわ)
(精霊に近い霊体?)
何か今、重要なことを言われたような気がする。その点を突っ込むと、ばーさんはひとつ頷いて説明してくれた。
(お主が幽霊と言っておるのは霊体のことじゃ。その霊体は生き物に宿るのと同じ命だけで成り立っておっての、魔法を使うとき以外に魔力をまとうことはない。それに対して精霊は精霊界からやって来た者達じゃ。こやつらは命である霊魂を核にして魔力をまとっておる。知恵のない下位精霊は単なる魔力の塊でしかないがの。じゃから、見た目は似ていても中身は全く違う。お主の今の状態は、霊魂を核としてその回りに魔力をまとわせておるんじゃよ)
(よくわからんが、何とも曖昧な存在だな)
(研究対象としては非常に興味深いが、残念ながら好き勝手にするわけにもいかん。ひぇひぇひぇ、命拾いしたのう)
このばーさん、今さらっと怖いこと言ったな! 俺は実験動物じゃないぞ!
とりあえず今の発言は聞かなかったことにして、次に気になったことを質問する。
(それで、その言葉と魔法は誰に習うんだ?)
(今呼び寄せる)
そう言うと、ばーさんは何か呪文を唱えた。
相変わらず何を言ってるのかさっぱりわからないが、これもいずれわかるようになる日が来ると思うとわくわくしてくる。
ばーさんの呪文の詠唱が終わると、その隣に光の球体が現れて人の形となるまで大きくなる。そして光の輝きが収まると、そこには1人のローブを着た男がいた。