いきなり幽霊ってのは勘弁してほしい
(いやいやいや!)
自分のベッドで寝ていたはずの俺は、激変した環境に意識がついていけなかった。寝て冷めたら外国人の家? しかも昔の西洋っぽい? 何の冗談だよ?!
いや確かにね、そういった話があるってのは知ってますよ。その手の本も読んだことあるし。けどね、けどですよ、自分が当事者になるなんて普通は思わないでしょ?!
いろんな事情で異世界に入り込んですぐ慣れる主人公がいるけど、俺はそれが嘘だと今確信したね。少なくとも俺には当てはまらない。
しかも幽霊みたいなのってどうゆうこと? 生き物ですらないって、一体俺はこの世界に何しに来たんだよ。これじゃ何もできないだろう!
そうやって俺はひたすら思考を空転させ続けるが、環境も状況も何1つ変わってくれなかった。これが夢なら早く冷めてほしいが、興奮しているせいか眠気が少しもやってこない。いや、夢だから寝ても意味がないのか。いかん、やっぱり相当テンパってるぞ!
とりあえずもう1度周囲をよく見渡したが特に変化はない。目の前の女性も子供に意識を向けている。たまに何かをしゃべるのだが、さっぱりわからない外国語なのでお手上げだ。まぁ、赤ん坊に向かってしゃべっていることなんて、かわいいとか何とかなんだろうけど。
(よし、とりあえず自分の状態を確認しないと)
母親である女性と赤ん坊以外の家族は働きに出ているのか誰もいない。この様子ならしばらく誰も帰ってこないと思った俺は自分について考えてみることにした。とりあえず自分の状況を確認しないとね。ほら、有名な兵法書にも書いてあるでしょ? 『敵を知り、己を知らば百戦危うからず』って。読んだことないけど。
(まずは……)
俺は目覚めたら昔の西洋風の家にいた。この時点でわけがわからないが、とりあえず原因を考えるのは後回しにしよう。多分いくら考えてもわからないだろうし。
次に、俺の体だが半透明の幽霊みたいになっていた。しかも微妙に宙に浮いている。あ、でも足はあるな。古式ゆかしい日本の幽霊は足がないけど、今の俺にはどうやら当てはまらないようだ。西洋っぽいところだからか?
しかしこれ、どうやって移動したらいいんだろう。ちょうど真空の中にぴったりと止まっている感じだ。手足をばたつかせたり泳ごうとしたりしてみたが変化なし。仕方がないので近くにある食卓に触れようとした。宙に浮いているので、反動を利用して動こうとしたのである。すると、当然のように素通りした。感触さえありゃしない。
(あ、ということは……)
今ので気づいたが、自分の体は触れるのだろうか。
少し緊張しながら両手で顔を触ってみる。するとどうだ、しっかり触れるじゃないか!
(って、自分は触れるのか)
自分には触れることができて、自分以外には触れないのか。まぁ、幽霊だしな。見慣れない家の中とはいえ、現世の物には触れないようだ。
(しかしそうなると、どうやって移動したらいいんだ?)
地縛霊だとずっとこのまま動けないということになってしまうが、あれってこの世に未練があるからそうなるんだったよな。そうなると、元の俺の部屋ならともかく、こんな縁も所縁もない外国の家や外国人のところで俺が地縛霊になるはずがない。きっと動けるはずだ!
そう信じた──あるいは信じたかった──俺は動け動けと念じてみる。しかし、全く動かない。
(え、うそ、俺って地縛霊なの?!)
目が覚めたらいきなり見知らぬ家屋の中で、しかも地縛霊で全く動けないだと?! 何の罰ゲームだよ!
焦った俺は必死になって動け動け、前に動け!と念じる。すると今度はあっさりと前に動き始めた。
(へ? 動くの?)
最初のときは全く動かなかったのに今度はあっさりと動きやがる。一体どうなってんだ? あ、そうか。もしかして『動け』はダメで『前に動け』ならいいのか? つまり、あまり抽象的すぎると動いてくれないのか。確かに『動け』ってだけじゃ、どの方向に動いたらいいのかわからないもんな。
とりあえず地縛霊じゃなさそうで一安心した。うん、植物じゃないんだからじっとしてるのはつらいよね、やっぱり。
ということで今現在の俺はゆっくりと前進しているわけだが、そろそろ壁にぶつかりそうだ。いや、恐らく素通りするのだろうが、とりあえず止まれと念じてみた。すると、ぴったりと止まる。
(おお、つまり念じたとおりに動けるのか)
試しに後退と念じると後ろ向きに動き、右手に移動と念じると右側に移動した。まるでゲームのキャラ操作みたいだな。
(ふむ、障害物は素通りか)
前後左右や上下といろいろ念じたら大体そのとおりに動いてくれた。
上へ上るように念じるとゆっくりと上っていけるわけだが、生身の人間だった頃はもちろんそんなことはできなかったので密かに感動した。無闇に高いところが好きというわけではないものの、ほら、小さい子供が大人に肩車してもらうと普通は喜ぶでしょ。あれと似たようなもんだ。
もちろん、下へ降りるように念じるとゆっくりと下がる。放っておくと体全体が地面の下に沈んでゆく。物理的な制約を受けないため頭が地面の下に沈んでも苦しくない。そして止まるように念じる。
(……石の中にいる!)
とっさに思い出した言葉がそれだった。某古典コンピューターロールプレイングゲームの名言だ。俺がいるのは地面の下だが。
そんなアホなことをやって幾分落ち着いた俺は再び地上に出てくる。
近くにいる親子を完全に無視した行為だが、あっちも俺のことを無視しているのでおあいこだ。まぁ、気づかれると不審者として通報されることは間違いないので今は良しとしよう。
(あれ? それじゃ人間も素通りできるのか?)
改めて親子を見たとき、ふとそんな疑問が湧いた。今までは無機質ばかりで試していたが、有機質、特に動植物にはまだ試していない。
(今までの結果から考察すると、通り抜けられるはずなんだよな)
もし何かあったらどうしようという不安はあるが、こんなところにいきなり放り出された俺の身の上を考えると、これから先、人をはじめとした生き物と体が重なる機会というのはいくらでもあると思われる。後で致命的な問題を抱えてしまうよりかは、今のうちに試しておいた方がいいだろう。
ただし、お互いにどんな影響があるかわからないので、最初は母親の二の腕に人差し指の第1関節をめり込ませるところからにした。いやだって、赤ん坊を抱いて幸せいっぱいにほほえんでいる人に、いきなり大それたことをするわけにはいかんでしょう!
それならやらなければよかったのだが、好奇心の方が勝って人差し指の第1関節までを若い女性の二の腕にめり込ませた。大丈夫だと自分に言い聞かせつつやったわけだが、結果はあっけないほど問題なし。次は二の腕を掴んでみようとしたが、まるで何もないかのように掴めなかった。ここまでくればもう大丈夫だろうと思い、自分の体全体を女性と赤ん坊にぶつけてみたが、やはり思った通り素通りした。
(これだけ試してみればもういいだろう)
どうしてこんなことになってしまったのかは不明だが、とりあえず自分が幽霊みたいな存在で物理的な制約を受けないということはわかった。そしてそんな状態だから、もちろん普通の人には俺の存在を感知できなさそうだということもわかってくる。
まぁ、霊感の強い人なら何かいることはわかるかもしれないが、少なくとも一般人は無理っぽい。
(しかし、大変なことになったな)
俺は再び周囲に視線を向けた。そこは相変わらずみすぼらしい家屋で、目の前には昔風の貧しい親子がいる。
自分が幽霊みたいになってしまった原因はもちろん、今目の前の状況にどんな意味があるのかもさっぱりわからない。そして更に、これから何をすればいいのかということもわからなかった。
自分から自分以外の存在に何も影響を与えられないし、逆もしかり。もしずっとこのままの状態だとすると自分はどうなるのだろうか。
(そうだ、家の外はどうなってるんだろう)
思考が良くない方向へ落ち込みそうだったので、気分転換に家の外へ出てみることにした。どうせ扉を触ることなんてできないので壁を素通りする。
すると、家の外にはのどかな田園風景が広がっていた。数件の家が固まって1つの集落を形成していて、その向こう側には何かの作物が青々と育っている。稲、じゃないよな。麦か? 西洋っぽいところだし。
(おお、西洋版の時代劇みたいだな)
やはり知的好奇心が刺激されると気分が紛れるらしい。どこかテーマパークを散歩する感覚で集落をうろつこうとする。
(あれ? 前に進めない?)
おかしなことに、前進と念じているのにすぐ前へ進めなくなってしまった。おかしいなと思い再度前進と念じてみるものの動いてくれない。試しに後退と念じたら動いた。左右も同じ。
(なんだこれ?)
どうも移動制限があるらしい。
色々試した結果、どうやら家から約20メートルくらいしか離れられないようだ。もちろん前後左右だけでなく上下もだ。
(うっ、俺ってやっぱり地縛霊なのか?)
一応動けるようだが、かなり範囲は狭いらしい。こりゃ、あんまり動けても嬉しくないなぁ。いや、動けないよりは絶対いいけどさ。
(さて、どうしたものか)
とりあえず自分の置かれた状態については少しずつわかってきた。まだわからないことの方が圧倒的に多いが、それは今のところどうにもならない。
しばらくはひたすら待つしかないのかなぁと思って先程の親子のいる家の中へ戻ってくる。相変わらず若い母親は赤ん坊を抱いていた。今は授乳させているようだ。
(うーん、思ったほど嬉しくないなぁ)
現在絶賛異常事態中の俺にとってはそれどころではないということもあり、若い女性の授乳シーンを見ても何とも思わなかった。元々特殊な趣味もないしな。というよりほほえましいじゃないか。
(あーあ。何やってんだろう、俺)
次第に和んで落ち着いてきたせいもあって、だんだん親子の様子を見ているといたたまれなくなってきた。沸いてきた罪悪感に従って背を向けると、俺はため息をついた。
とそのとき、目の前に小さな光の球体が突然現れた。そして急速に大きくなる。
(え、今度は何だ?!)
呆然としながら、俺はそれをじっと見続けた。