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酩酊  作者: 井野鹿潮
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俯瞰風景


 「私は、人を殺したことがある。」


 そう行って俯く平野に、僕は声をかける事が出来るはずもなかった。





 平野とは、大学二年生の夏に知り合った。切欠なんてものは単純で、禁煙ブームに抗う若者達の溜まり場、大学から少し離れた喫煙所でライターを貸しただけ。そうしたら、たまたま平野が僕の顔を覚えていたものだから、ほんの少し、ほんの少しだけ、話が盛り上がった。


 正直言うと、僕が煙草なんてものを始めた理由は至極単純な話で、未成年のくせに煙草を吸っていて、しかもそれが特別似合っている平野に、どうしようもなく惹かれたからである。大学一年、まだ桜も咲かない頃だった。


 さらさらと流れるような黒髪に、切れ長の目、少し控えめな胸、物憂げな表情で煙草を吸う彼女は、一枚の写真の中で佇んでいるようだった。


 女神だ、と本気で思った。


 彼女に少しでも近づこうと、内気な僕は髪型を変え、服装を変え、彼女に相応しい男になれるだろうか、などと恋する乙女のように、毎日を過ごしていった。

 付きあうだとか、そういう事ではなくて、僕はただ単純に彼女と親しくなりたかった。ただ、それだけを人生の糧にして生きていた。


 そんな中、喫煙所で、しかも平野の方から声をかけてくれたものだから、思わず声も裏返った。神様は僕のことを見ていてくれた、もうこれで死んでもいいと本気で思った。


 そこから距離を縮めていくにはそう難しくはなかった。元々、学科で浮いていた者同士(その理由は平野と違うものの)、講義を途中で抜け出しては二人で喫煙所に向かい、ただひたすらに無駄話をする様になった。食事や遊びになんて誘えやしなかったが、ちょっとした知り合い程度になれていれば十分だと思っていた。


 そのまま一年が経った。相も変わらず二人で講義を抜け出しては煙草を吸い、くだらない雑談をしていた。そろそろ戻ろうか、このままで単位なんとかなるかな、なんてことを言った気がする。平野が突然僕に、


「ね、私達付き合おっか。」


何を言っているのかわからなかった。





 一目惚れした日から三年、意中の相手から告白されるとは夢にも思わなかったもので、また声がひっくり返ってしまった。えっ、えっ、とトマトのように顔を赤らめる僕を見て、からからと笑った彼女の顔が、ひどく印象的だった。


 薔薇色の人生とは良く言ったもので、今までの人生がモノクロだったんじゃないかと思えるほどに、世界は変わっていった。


 僕はとにかく必死に、それはもう必死に平野を愛した。週に四回入っていたバイトが苦ではなくなった。平野の声を聴くだけで脳髄が蕩けたし、初めて手を繋いだ日にはあまりに感極まって涙が出そうになったものだ。二人揃って留年してしまった時には、お互いに顔を見合わせて苦笑いをして、もう一年ゆっくり二人で頑張ろうと言った。

 僕らは、二人で歩いてきた。





 彼女から僕は、どう見えていたのだろうか。





 平野はいつも僕と一緒に笑ってくれたし、いつも僕のみすぼらしい愛にも応えてくれた。自惚れでなければ、相思相愛で、どこからどう見てもお似合いのカップルだったと思っていた。


 一年半経って、僕と平野は同棲を始めた。元々平野が僕の部屋に頻繁に来て、料理が苦手な僕のために食事を準備してくれていたのだが、なんだかんだ面倒だったり家賃の問題だったりがあった。一緒に住んじゃおうか、と僕が言えば、うん、と彼女は言った。


 僕が慌てることもなくなって、彼女がからかうこともなくなって、ただ寄り添い合うように僕らは暮らしていた。ある日平野が、春川と夕飯を食べに行くと聞いた僕は、カップ焼きそばを食べながら平野の帰りを待った。翌日までのレポートがあった事を思い出した僕は、慌ててレポート用紙を取り出して、学生の本文に勤しんでいた。平野が帰ってきた。なんだかちょっと疲れていた様子だったが、


「春川といると疲れるの。今日はもうお風呂はいって寝ちゃうね。」


僕も春川とは少し交友があったので、確かに、と笑って流した。


 春川が自殺したのは、その翌日だった。平野は、凍った表情で、彼女の死を受け止めていた。

 外は雪が積もり始めていた。





 それから一週間経った今日、僕は彼女に相談を持ちかけられた。僕は、なんとなく彼女が僕に伝えたいことを理解しているつもりだった。


 彼女は、両性愛者だった。僕はそれを知っていたし、彼女も、何らそれを気にしていなかった。いや、もしかしたら心のどこかで引っかかっていたのかもしれない。だから、彼女はそれを忘れるために、僕と付き合ったのかもしれない。僕との愛も本物だけど、彼女に対してもまた、本物の愛を持っていたのかもしれない。きっとそうだ、だから疑うことはない、だって彼女は僕にとってたった一人の恋人なのだから。





「ねえ、高円寺。聞いて欲しいことがあるの。…うん、凄く大事な話、出来れば最後まで私の話を聞いて欲しいの。…。ありがとう、やっぱりあなたは優しいね。」


彼女は一度、深呼吸をして、切れ味の鋭い目で、真摯に僕を見つめて、ゆっくりと話し始めた。





「私は、人を殺したことがある。…ごめん、聞いて。この間、春川、自殺しちゃったじゃん、あれね、多分私のせいなんだ、私が、あの子に、優しくして、優しくされて、でね、あの子、死ぬ前日にね、私のこと抱きしめてね、告白しようとしたの、でも、私には高円寺がいるし、あの子には、もっと、もっと、私なんかじゃなくて、もっと素敵な人がね…」


彼女の言葉はそれ以降、言葉にならなかった。普段、あれだけ冷静な彼女が、大粒の涙を流して、嗚咽を漏らして、泣き出してしまった。

 いつ以来だろうか、彼女の泣いた姿を見たのは。もしかしたら、初めてだったかもしれない。俯瞰的にこの様子を見ているような錯覚に陥った。


 何となくわかっていた。何となくわかっていたつもりだったし、彼女が落ち着いたら、僕に伝えたくなったら、受け止めるつもりだった。


 でも、何だかわからないけど、本当に何だかわからないけど、僕は、受け止めることが出来なかった。





 彼女は、人を殺したことがあるのだ。おそらく彼女のことを、死ぬまで思い続けた人を、彼女は殺してしまったのだ。

 彼女の伝えた真実と、彼女を受け止められなかった自分に、一目惚れをした瞬間と同じくらいの衝撃を受けて、僕の目の前が真っ暗になっていった。


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