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酩酊  作者: 井野鹿潮
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序章

 私は人を殺した事がある。





「それじゃあ、またね。」


 その一言を残して、彼女はこの世を去った。享年23歳、寂しい秋が終わり、暗い冬が訪れる頃だった。


 はあ、と真っ白な息を吐いて、手のひらを祈るように擦り合わせる。手袋というものがどうにも苦手で、十一月下旬ともなると氷点下を平気でいく北海道は、とても好きにはなれなかった。


 五年前、受験に失敗した私は、滑り止めで受けていた北海道の大学に通うことになった。大学に入るなり私は煙草を吸い始めた。若気の至りでもあるし、自分への苛立ちを自分にぶつけているのもあった。おかげで周囲から浮いたのだが、元々、怒ってる?などと聞かれるほどには表情が硬いようで、昼食も一人、講義も一人、おかげで大学生特有のコミュニティに入ることも出来ず、留年までしてしまった。今は無事に昇級し、研究に勤しんではいるものの、相変わらず友人は少ない。

 そんな私が、何故こんな凍える空の下で待ちぼうけをしているのか。


「お待たせ、と言っても君も今来たところだろう?どうせ。」

 くつくつと笑う彼女の口元はマフラーで隠されて見えやしないが、目を見ればわかる。残念、私も今来た所です。

「まあ、そんなことはどうでもいい。行こうか。」


 今日は、この春川が、何をとち狂ったことか、私に夕飯を御馳走してくれるらしい。


 そもそも、この春川という女性は、私と学籍番号が一つ違いで、実験や色々な講義で多少関わりのある程度の存在だった。私も彼女もそのような認識だったはずだ。

 しかし、私が留年したという情けない情報を聞いた彼女は、何かと私に突っかかってくるようになった。過去レポートはいるか、テスト勉強を見てやろうか、など、今思えばその理由も解るのだが、当時の私には全くどうして、彼女が私にここまで執着するのかわからなかった。

 教授が面倒を見てくれたこともあって無事に四年生に昇級することが決まった日、彼女はおめでとう、と言いながら薄ら涙を溜め込んでいた。何だかんだ世話になりっ放しだった私は、ついうっかり涙を零してしまった。留年が決まっても、バイトでとんでもないミスをして社員にこっぴどく説教をされても、全米が泣いた映画のクライマックスを見ても泣かなかった私が、どういうわけか涙を堪えきれなかった。


「おめでとう。本当に、おめでとう。」


 それ以来、大学院生になった彼女は、事ある毎に共通の知人である山城だとかに、あの時こいつがね、なんて語ろうとするものだから、私は躍起になってそれを他人にばらしてくれるなよ、と止めたものだ。それをからかった春川が、と無限ループに続いていく。

 私の就職も無事に決まったある日、


「今度一緒に夕飯でも食べないか、寒くなってきた事だし、な。」


と、前後の関連性が全くない事情を春川がしどろもどろ伝えてきた。生娘でもあるまいになんだその誘い方は、などと思いながらも、私はいいぞ、と軽く伝えてしまった。


 今では、ひどく後悔している。


 鼻歌まじりに、見慣れないエプロン姿で料理を進める春川に、何と言うか居心地の悪さを感じた。キッチンの音に、ストーブのごう、という鳴き声が重なって、私を責めたてているように思えた。そんな私の何かを感じ取ったのか、


「もうすぐ出来るよ。」


屈託のない春川の笑顔に、私の発言権は殺された。


 普段から女性らしさを感じない春川だが、料理の腕前は一級品だった。ほくほくとしたじゃがいも、とろとろの玉ねぎ、ちょっと固めの人参、クリームシチューは絶品だった。それだけで白米が最後の晩餐のように最上級の味へと変わる。どうかな、と言いたげな彼女においしいよ、ありがとう、と、我ながら素直に伝えると、彼女は頬を朱色に染めながら、


「どういたしまして」


と笑った。


胸の奥を、ちくり、と何かが刺した。




 ごちそう様、さて、申し訳ないが、レポートの続きもあるし帰るよ、そう言って私は逃げるように腰をあげる。ゆっくりしていけばいいのに、と彼女が悲しそうに言う。春川、お前そんな顔も出来るんだな、とどこか冷静に思いながら、礼儀正しく掛けてあったコートに手を伸ばし、それじゃ、と短く別れの挨拶を告げる。


 もう手遅れだった。何も言わずに駆け出してしまえばよかった。


 腰に手を回され、背中にぎゅっと抱き着かれた。春川、どうした。どうしたとしか言えなかった。汗が噴き出す。どうしようもなかった。


「私は、君のことが…ね。うん、ここから先もやはり言わないとダメだろうか。」


「いや言っちゃダメだ春川。それ以上は、言わないで欲しい。ごめん、私じゃ…私じゃ、春川を」


「いや、わかってたから、うん。大丈夫だ、あー、柄にもない事をして申し訳ない。」


 そう言って、私の腰から手を離した春川は、私の後ろで震える声でこう言ったのだ。


「それじゃあ、またね。」


 


 

 それは決別の言葉で、離別の言葉で、死別の言葉だった。またね、と言った彼女はその時、なぜ、ああ、どうして、頭の中が、思考回路がぐちゃぐちゃになる。決壊したダムのように思考が漏れ出して、台風のように掻き回され、言葉をうまく紡ぐ事が出来ない。


 どうして彼女は自殺を選んだのだろうか。その訳を理解していても、本能が納得する事を拒否していく。


 あの時、少しでも違っていれば、何かが変わったのかもしれない。少しでも彼女に歩み寄っていれば、何かを変えられたのかもしれない。どうして私だったのだろう。切欠を今では聞くことも出来ない。過去を捻じ曲げることは出来ない。私には何も出来ない。こうして自分自身を呪いながら、醜く大声を上げて泣きわめいても、彼女が生き返ることなど決してないのだ。


 私は、人を殺したことがある。裁かれることなど決してないであろう。皆から贖罪を求められることもないまま、生きていくのだ。しかし、あの温もりが、あの声が、あの笑顔が、彼女が私に残した全てが、私の事を呪い続けていく。


 私の人生は、今日も、明日も、明後日も。

 その先も彼女に蝕まれていくことになるのだった。



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