魔法使いの弟子リターンズ(「魔法使いの弟子」後日譚その2)
魔法使いの弟子リターンズ(「魔法使いの弟子」後日譚その2)
【 1 】
「秘密恋愛っていうのも、素敵よね」
隣を歩く恋人が、携帯電話のディスプレイに向かってそうつぶやいた。
鈴木が怯えた顔で恋人を見つめたのも無理はない。彼女はいつもマイペースだ。マイペースというか無計画というか行き当たりばったりというか、とにかくそういう女性だ。彼女の行動をどう表現しようとも、その基本にあるのが優れた決断力であることは間違いなかった。
そして彼女の唐突な(周囲にとっては)つぶやきは、たいてい何かを決断した時にもらすものだということを、彼女の恋人として一年を過ごした鈴木はもう知っていた。
「あのう、祥子さん。それはどういう前振り?」
「あら、前振りってことじゃないんだけど」
顔を上げた彼女は、屈託のない微笑みを鈴木に向けた。
「また貴社のお仕事をご紹介頂いたのでお受けしようと思って。来月から一ヶ月よろしくね、鈴木さん」
それが二人にとって良い知らせなのか悪い知らせなのかは、鈴木も判断に迷うところだった。
* * *
背後で一年前と同じ軽やかなキーストローク音が響く。『派遣の三島さん』が紡ぎだすその音は一定のペースを保って途切れない。
一度意識がそちらに向くと、背後の存在が気になって仕事に集中できない。
鈴木は書き損じた葉書の三枚目を引き出しにしまって、席を立った。
「三事に、カタログ貰いに行ってきます」
第三事業部、通称三事に特に今たちまち必要なカタログがあるわけではないが、鈴木の方には今たちまち席を外す必要があった。行き先が三事なのは三島さん、葉書三枚、ときた三繋がりだ。
「行ってらっしゃい」
背中合わせに座っていた三島祥子が手を止めてこちらに笑顔を向けていた。
「はい、行ってきます」
鈴木はなんだか出かける前の夫婦みたいだなと思い、とたんに熱を帯びた頬を自分のてのひらでこすった。
廊下に出てから鈴木は一人つぶやいた。
「不倫とかしてる人、マジで尊敬する」
倫理にもとる行いとして不倫という言葉が使われるわけで、それを尊敬するというのはいかがなものかと、と誰かに聞きとがめられそうなつぶやきだったが、鈴木は真剣だった。
未婚の恋人との将来の結婚も見据えた真剣な交際を、彼女の派遣契約のために公にしないというだけでこれだけ肩に力が入ってしまうのだ。(派遣先の社員との交際が禁止されているわけではないらしいが、公にしてもあまり得にならないことくらいは鈴木にも想像がついた。)これがもし不倫だったりしたら、鈴木は今の百倍は不自然な態度をとって周囲にばれまくる自信があった。
恋人が同じ職場にいるのは嬉しい。嬉しいが、困る。
三事で貰ってきたカタログを営業部共用のカタログ棚に補充して空手で席に戻った鈴木は、三島の上司、大野課長が名刺入れを手に立ち上がるのを見かけ、何の気なしに低いキャビネットで仕切られた通路の向こう側を振り向いた。
そこに立っていたのは、雑然としたオフィスには場違いな、嫌味なほどのいい男だった。
見るからに既製品ではないと分かる上等なスーツ、外国人のようなピンクのワイシャツ、それが似合う長身とシャープな容貌。全身からできる男オーラが放出されている。鈴木のアシスタントの高野も来客を見つめたまま手が止まっていた。フロアのそこここにミーアキャットのように立ちつくす女性の姿があった。
鈴木はふと気になって背後を振り返ってみた。『派遣の三島さん』が背中を向けたまま同じペースで入力を続けていることにほっとして、次の瞬間に気付いた。こんなことでほっとしても意味ない。あのいい男は大野課長のところの客じゃないか。このフロアの誰よりもあの客に近づく可能性があるのは祥子さんじゃないか。
大野課長は通路で名刺交換をして、そのまま来客を自分の席に案内してきた。二人の姿をフロア中の女性(ただし三島さんを除く)の視線が追った。
大野の後をついてきた来客の足が急に鈴木の後ろで止まった。
「祥子。何でお前がこんなところにいるんだよ」
最初の呼びかけで、鈴木の右足が勝手に痙攣し、机の下で蹴られたファイルが鈍い音をたてた。ほぼ同時に、鈴木の背後で途切れずに続いていたキーストローク音も止まった。
「あら、りゅうじんさん。お久しぶりです」
祥子はいつもどおりの口調で、にこやかに答えた。鈴木は思わず椅子ごと後ろを振り向いていた。もっとも隣の席のアシスタント、高野優子は最初の呼びかけで後ろを向いていたから、鈴木は出遅れた感があった。
大野が知り合いらしい二人に向かって言った。
「お知り合いでしたか」
「元上司です」
「元部下です」
二人の返事が重なった。そのタイミングのよさに、鈴木は何故かいらっとした。
【 2 】
大野は来客に一通り課の説明をした後、後からやってきたもう二人の来客を連れて会議室に移動した。
その一群が通路の向こうに消えたとたん、高野がキャスターを勢いよく滑らせて椅子ごと三島の隣に移動し、噛み付くように訊いた。
「三島さんっ! さっきの人誰なんですか?」
「監査法人からシステム監査に来た人」
「そうじゃなくって」
いつもと同じ、落ち着いた口調の三島に、高野がじれったそうに言い募った。
「三島さんの知り合いなんでしょう? 歳とか独身かとか出身校とか」
「歳? 今は……三十七か八? 私が一緒に仕事してた頃は独身だったけど今はどうなのかしら。大学はアメリカのどこか……大学じゃなくて院だったかも……あ、あと車はポルシェよ」
あやふやな言い方をしていた三島が最後の部分だけはきはきと答えたのに鈴木は思わず微笑んだ。しかしいつの間にか三島の周りに集まっていた女子社員達は、そのあやふやなプロフィールからでも必要な情報を得たらしかった。誰かが溜息をついた。
「ああいう人ってドラマにしか出てこないと思ってた」
「むちゃくちゃエリートっぽかったよねー」
「だって監査法人でしょ。エリートっぽい、じゃなくてエリートだよ。MBAとか持ってそう」
「ああ、持ってるみたいよ」
三島のあっさりとした返事に周囲はまた溜息をつき、鈴木は久しぶりに学歴コンプレックスを刺激された。新入社員研修では分け隔てなく教育を受けたように見えたものの、結局のところ一ヶ月の研修が終わると旧帝大出身の同期はほとんどが会社の中枢に近い部署に配属されていた。鈴木のようなそこそこ有名な私大出身者達は、『会社に入れば学歴なんか関係ない』というのは嘘だったな、とそこで悟ったのだ。
「名前何でしたっけ?」
「りゅうじんさん」
「『りゅうじん』さんってどんな字書くんですか? 日本人? 『りゅう・じん』さん?」
誰かの質問に、三島はまたいつもと同じ口調で答えた。
「実家は神社だって言ってたから日本人だと思う。簡単な方の『竜』に神様の『神』で『りゅうじん』」
「ふわー」
誰かが言葉ともつかない声をもらした。
「あんな神主さんがいたら、ツアー組んで参拝に行っちゃうー」
「格好いい人は名前まで格好いいんだー」
「白いオーラがぴかーっと周りに出てなかった?」
「うちの部長のとは違った輝きがね」
こんな時まで部長の頭のことを持ち出さなくてもいいだろう、と鈴木は内心で思ったが恐ろしくて口には出せなかった。まったくもって女子達は容赦がない。
「でも何だかすごいですね、こんなところで再会するなんて。三島さんも今日来たばっかりなのに、すごい偶然じゃないですか?」
いらっとした。二度目だ。
何で女ってこういう偶然とか好きなんだろうな、と鈴木は思った。
「あら、でもものすごい偶然ってわけでもないのよ。元々御社の基幹システムはABCで作ってるでしょ? 多分私も竜神さんもABC情報システムの出身だから、御社の仕事をご紹介頂いたんじゃないかしら。でも竜神さんが監査人だとABCの担当者さんは大変そうねえ」
恋人の祥子がいつもマイペースなのは鈴木にとっては悩みの種だったが、今日だけはこのマイペースっぷりが頼もしく思えた。この派遣先を「御社」と呼ぶ距離のとり方も好きだ。
仕事中だというのに、鈴木は背中合わせに座る恋人が好き過ぎて切なくなった。今すぐ抱きしめたい。
そんな白昼夢からは早く覚めろとばかりにワイシャツの胸ポケットで携帯が震えた。出かける時間にセットしていたアラームの振動だ。鈴木は机の上を片付け、足元に置いた営業鞄を手に立ち上がった。
「優子ちゃん、木村商事さんに行ってきます。戻り予定5時で」
「はい、いってらっしゃい」
「いってらっしゃい」
アシスタントの高野と一緒に三島や周囲の女子社員まで挨拶してくれたので、鈴木は若手営業マンらしく声を張って返事をした。
「ではいってきます」
背後でくすくす笑いが聞こえた気がしたが、鈴木はそのまま振り返らずにエレベーターホールに向かった。自分の姿がさっきのいい男の何分の一かでもきりっと見えたらいいなと思いながら。
鈴木は訪問先でもうすぐ新規の商談がありそうだとほのめかされ、予定より三十分ほど遅れて気分よく帰社した。戻ったらまず主任に報告をして、商談レポートをまとめて……事業部に在庫も確認しておいた方がいいだろうか。
高揚した気分はエレベーターがオフィスフロアに着いてドアが開いたとたん急下降した。三島と先程の来客、竜神が連れ立ってエレベーターホールにいた。
「おかえりなさい、お疲れさまです。お先に失礼します」
ただの挨拶を重ねただけの、誰にでもいう言葉だったが、祥子の声はいつものように耳に心地よかった。しかし彼女の隣の男の存在が気になる。たまたま一緒になったんだろうか、それともこれから一緒にどこかへ行くところなのか。訊きたい。
鈴木は口を開いた。
「お疲れさまでした」
口から出たのは背中合わせに座る隣の部署の同僚らしい、若手営業マンらしいただの挨拶だった。
別にこれからの予定を訊くくらいは不自然でもないはずなのに、訊けなかった。
鈴木が降りるのと入れ替わるようにしてエレベーターに二人が乗り込んだ。ホールに一人残された鈴木はドアが閉まると思わず振り返ってエレベーターの階数表示を見守った。
途中で止まって誰かが乗り込みますように。二人だけの時間ができるだけ早く終わりますように。
そんな志の低い願い事を聞き届けるほど神様は暇ではなかったらしい。ゆっくりと変わる階数表示は一定のペースを保ってカウントダウンを続け、最後に『1』になって止まった。
その事実よりも、自分のツキのなさに鈴木はがっかりした。
【 3 】
その晩遅く。
鈴木はもう一時間以上も送ろうかどうか悩んでは消していたメールをとうとう送信した。
『今日はお疲れさま。』
送信ボタンを押して、アニメーションの封筒が飛んでいくのを見守りながら、鈴木は考えた。祥子はこのメールにすぐに気付いてくれるだろうか。すぐ反応があるだろうか。
思わず溜息が出た。これじゃあまるで片思いみたいだ。付き合ってるのに。彼女なのに。愛されてるのに(多分)。
手の中で携帯電話が身震いをした。あわてて着信ボタンを押すと、心地よい声がスピーカーから響いた。
「コーキくん?」
嬉しいのとほっとしたので、床にあぐらをかいていた鈴木は電話を耳にあてたまま仰向けに転がってうーんと伸びをしながら彼女の名前を呼んだ。
「祥子さん」
「コーキくんって人気あるのねぇ」
いきなり笑いを含んだ声で祥子にそう言われて、え、と思わず声が出た。
「いつも爽やかね、って言われてたわよ。ちょっと嬉しかった。ふふふ、秘密恋愛の醍醐味ね」
「いじりやすいだけだよ。笑われてたし」
「それはコーキ君が可愛いからよ」
まるで子ども扱いだ。それ自体はいつものことだが、何故か今夜は胸が痛かった。
「祥子さん」
あの後まっすぐ帰ったの、と訊くつもりで名前を呼んだ。が、また鈴木の口は違うことを言った。
「どうだった? 派遣一日目は」
「うん、やっぱり慣れたところは働きやすいわ。周りの方もほとんど変わってなかったし」
祥子の派遣契約は短期の仕事が主なので、よく職場が変わる。人当たりはいいし仕事もできるからどこへいっても大きな苦労はないようだが、やはり働きやすい職場とそうでない職場があるらしい。フロアの女子社員全員が一つの会議室でほとんど会話もなく昼食をとるという会社や、祥子だけが忙しくて男性社員は朝から新聞を読んでいるような会社は、派遣期間が終わると祥子が元気になるので辛かったんだなと分かる。
それでも自分は親元に住んでいるから仕事を選ぶ余裕があるのだと祥子は言うが、鈴木は自分にもうちょっと甲斐性があればと思う。
祥子と結婚しても今より苦労させることが分かっているだけに、鈴木はなかなか将来の話ができずにいた。遠回しにはそういう意思を伝えているつもりだが、実は祥子にさりげなくかわされているような気がしているのだ。祥子がマイペースなのはいつものことだから、かわしてるわけではなく素でやっている可能性もあるのだが……
「あの『システム監査』って?」
「去年リプレースした業務システムの監査ですって」
鈴木の無言に、祥子が噛んで含めるような説明を追加した。
「システム開発ってお金がかかるでしょう? それに開発費って内訳がはっきりしないじゃない? だから、外部の監査機関に頼んで開発が適切に行われたかの検証をしてもらうのよ。旧システムに比べて操作性やパフォーマンスが改善しているかどうかとか、使ったお金に見合った業務改善ができているかをチェックしてもらうの。今回の評価の結果によっては、海外の現地法人向けの英語版を検討するらしいわよ」
祥子はすらすらと答えたが、鈴木の胸は何故かちくんと痛んだ。祥子の言葉は祥子自身のものなのか、誰かの受け売りなのか――何故かそう思ってしまった。
「竜神さんって」
「うん?」
先を促す相槌に、鈴木の口は今日三度目の裏切りを果たした。
「すごい人みたいだね」
また言えなかった。どんな話をしたのか、あの後でどこかへ行ったのか、一言そう訊くだけでいいのに。
「そうねぇ。すごく仕事はできる人だったけど」
「そんな人と一緒に働いてた祥子さんもすごい人だったんだ」
「ううん、私は全然よ」
祥子は謙遜していたが、エレベーターホールで見た二人の姿を鈴木は思い出していた。元上司と元部下と言っていたが、あの時の二人は同じ空気をまとっていた。お似合い、なんて口が裂けても言いたくない言葉だったが。
結局訊きたいことを口にできないまま、次の日も会社だしと適当な時間で電話を切ってその日は終わった。
次の日からまた祥子は一年前と同じように鈴木の背後に座り、一定のペースでキーボードを叩き続けた。鈴木は席にいる時は背後の存在を意識しながら、これも一年前と同じように一日の半分以上は営業活動のため外出をした。外出と帰社の時にかけられる一言に幸せを噛みしめた。
あの祥子の元上司、竜神は他の監査人と一緒に小会議室にこもって監査を続けているそうだ。昼に会議室から出てきて、たいていシステム部の大野課長と昼食をとりに行く。借り物の書類に飲み物をこぼすといけないからと、三時には会議室から出てきてシステム部の空き机で休憩するらしい。これは祥子からではなく高野からの情報だった。他にも女子社員が彼らにもお茶を出すかどうか(期待を込めて)大野に確認したが、本人達にコーヒーを買うからと辞退されてがっかりしたとか、竜神さんになら女子社員達が私物として常備しているコーヒーを出すのにと悔しがってるとか何とか。鈴木は軽い相槌を打って高野の話を聞き流した。
鈴木が三時にオフィスにいてお茶を飲む機会は少なかったが、その日はたまたま顧客との約束がキャンセルになって時間が空いたので一度帰社した。
「お帰りなさい」
祥子の声に迎えられ、鈴木の肩が軽くなった。祥子の机の上にお気に入りの紙包装のキャンディを見つけて、鈴木は小さく微笑んだ。咳が出やすいからと祥子はいつもキャンディを持ち歩いている。車に乗って祥子がまずすることはバッグから取り出したキャンディを小物入れにセットすることだ。
「三島さん、そのキャンディもらっていいですか?」
声をかけた鈴木に祥子が一瞬にやりと笑いかけ、すぐ『派遣の三島さん』らしいとりすました笑顔に改めてから頷いた。
「いま何味ですか?」
「パイナップル」
祥子は鈴木の手に黄色いキャンディを一つ落とし、自分の手にも同じキャンディを落とした。最近発売されたミックス味のこのキャンディで、祥子の目当ては二個しか入っていないオレンジだ。祥子と外出する時は他の味の消費をいつも鈴木が手伝っている。そんな二人だけに通じる秘密をオフィスで共有することで、祥子の言っていた『秘密恋愛の醍醐味』というのが鈴木にも少し分かる気がした。
ありていに言えば、すごく楽しい。
「それ何? そんなの出たんだ?」
二人がキャンディを口にいれたとたん、背後からバリトンの声が響いた。
【 4 】
鈴木は後頭部の毛が逆立った気がした。祥子が鈴木の背後に向かって答えた。
「ええ、新製品です。色んな味が一本に入ってるんですよ」
「お前、限定とかそういうの好きだよな」
ちくっ。いや、ちくちくちく位か。鈴木は胸の痛みを測った。そんな鈴木の横を通って竜神が前に出て、祥子に手を伸ばした。
「くれ」
「オレンジはあげませんよ」
祥子の口調にすねたような響きを感じて鈴木の胸のちくちくはずきずきに進化した。しかし次に竜神のとった行動は鈴木の想定外だった。
ぽきん。
軽い音がした。竜神がキャンディを包む紙包装を二つに折った音だった。
「はぁ」
祥子が大きな溜息をついた。
「オレンジが好きならオレンジから食えばいいじゃん。ほら」
オレンジのキャンディが顔を出す紙包装の片割れを、竜神が祥子に差し出した。
「竜神さんていつもそうですよね」
「何が?」
「人のものは俺のものみたいな態度のことです」
「もしかして怒ってる?」
口調も人当たりのいい笑顔もいつもと変わらないが、祥子は少し怒っていた。鈴木には分かった。しかし鈴木と同じようにそれが分かっているらしい竜神は、からかうような笑みを浮かべていた。
鈴木はずきずきする胸に手を当てたいのを我慢して、静かに自分の席に戻り、椅子に座って二人に背中を向けた。パイナップル味のキャンディは何故かいつもほど甘く感じられなかった。
『秘密恋愛の醍醐味』が楽しかった分だけ、今の気分との落差は大きかった。
二人の間に漂う親しげな空気にあてられたのもあるが、鈴木を落ち込ませた原因は他にあった。
オレンジにたどりつくまで二人でキャンディを一つずつ食べて、オレンジを二個とも祥子にあげる、そんな小市民らしい幸せは、竜神のさっきの行動に比べてあまりにちんまりとしていた。竜神ならきっと同じキャンディを百本買って、オレンジだけを祥子が飽きるまで食べさせることもできるだろう。
もちろん鈴木にだって同じキャンディを百本買うことはできる。それくらいはできる。でも竜神がああするのを見てそれを真似するのは、自分がそれを思いついてするのとは全然違うのだ。
豪快奔放、そんな四字熟語が頭に浮かんだ。
全然かなわない。学歴も経歴も外も中も、人としてのレベルが違いすぎる。
なんだかくよくよする。
その日以来、鈴木は三時にオフィスに戻らないよう気をつけてスケジュールを組んだ。もともと外回りの時間だから不自然ではない。システム監査は二週間と聞いていた。それが過ぎるまで鈴木が気をつけて、二人が一緒にいる姿を見ないようにすればいい。
暑い日だった。六時前に帰社した鈴木は、席に戻る前に冷たい飲み物を買っていこうと自販機コーナーへ足を向けた。
「いいから俺のとこ来いよ。一生面倒みてやるよ」
自販機コーナーの手前に並んだ観葉植物越しに、バリトンの声が響いた。
「ちょっと待って下さいっ!」
鈴木の、よく持ち主を裏切る口が、勝手にそう叫んでいた。
誰がいるかは見る前から分かっていた。鈴木が考えるより早く閃いたとおり、竜神と祥子の二人がそこにいた。祥子は片手に紙コップを持ったまま驚いた顔でこちらを見つめている。竜神は面白そうに鈴木と祥子を見比べていた。
「祥子さん、祥子さんは……」
ここで格好よく恋人宣言やプロポーズや、そんな言葉を発すれば……でもできなかった。それはまるで竜神の真似というか、後追いではないか。
結果、言葉につまった鈴木は酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせるだけだった。
「竜神さん」
祥子が鈴木の窮状から目をそらして(と鈴木には思えた)、竜神を見つめた。
「すごく魅力的なお申し出ですが、遠慮させて下さい。私には向いてないと思うので」
「もっと検討しろよ」
「いえ、気持ちは変わりません」
竜神は軽く肩をすくめた。普通の男がやればわざとらしい仕草だが、竜神のは本場仕込みらしく自然だった。
「分かった。じゃあ俺はここにいない方がいいな」
竜神はそう言って、自分の手にした紙コップを祥子に差し出した。祥子がそれを受け取ると、竜神は鈴木とは目も合わせずにその場を離れた。まるで相手にされていないということなのかもしれないが、微笑まれたりにらまれたりするよりも対等な立場だと感じたのは鈴木の思い込みかもしれない。
祥子は両手に持った紙コップを少し眺めて、最初から自分が持っていた方を鈴木に差し出した。
「飲む?」
「そっちでいいです」
鈴木は祥子が差し出したのとは逆の、さっきまで竜神が手にしていた方に手を伸ばした。竜神の飲み物を祥子に飲ませたくなかった。
「竜神さんの下で仕事しないかって誘われてたの」
「仕事……?」
「そう。仕事の話。あ! 鈴木さん、そういえば今日は七時から会議だって課の皆さんで仰ってませんでした?」
いきなり祥子の口調が『三島さん』に変わった。鈴木も言われたとたんに予定を思い出して声を上げた。
「はい!」
「続きは後で。会社出る時に電話して」
祥子がそう言って、小さく笑った。
【 5 】
正面玄関を出たところで祥子に電話をすると、会社から二本離れた通りに来てと言われた。駅に急ぐ人の流れに逆行して指定された場所へ向かい、路上駐車帯を見回すとそこに見慣れた祥子のBMWが停まっていた。
「お疲れ様」
祥子の声を聞いてほっとするのはいつものことだ。鈴木は自分の頬と気持ちがふにゃあっとゆるむのを感じた。
「お腹すいた? 食べたいものある?」
「別にない。祥子さんと一緒にいたい」
「甘えたさんね」
そう言いながら、祥子が車のエンジンをかけた。
手近なファミリーレストランで食事を済ませてから、祥子はデートの帰りによく寄る大きな公園の横に車を止めた。向かい合わせより隣り合った車中の方が会話が弾むのは、バーカウンターなどと同じで顔は見えないのに距離が近いせいかもしれない。
「竜神さん、あと一年したら今の監査法人を辞めて自分の会社作って独立するんだって。それでそこに来ないかって誘われたの」
食事の時にはお互いに触れなかった話題を、祥子が突然始めた。
「本当に上司としては尊敬できる人だし、あの人の下に集まる人達と一緒に仕事ができたら面白いだろうなあって、それはすごく思ったんだけど……私、きっとまた具合悪くなるから」
祥子には喘息の持病がある。普段は薬でコントロールできる範囲だが無理をすれば体調を崩す。祥子は新卒で入ったABCでプログラマからSEになり、そこで体調不良を理由に退職した。しばらくのんびりしてから、今のような短期の派遣契約で働くようになったのだというのは、付き合いだしてすぐに聞いていた。
「短期なら少しは無理もできるんだけど、ずっとだとね。季節の変わり目のたびに仕事減らして下さいなんて、普通の会社じゃ言えないし。竜神さんのとこは多分、目が回るくらい忙しくなるから。声かけてもらえたのはすごく光栄だし、やりたい気持ちはあるけど、きっと周りに迷惑かけちゃうし」
「一生面倒見てやるって言われてたから、どきっとした」
鈴木は小さな声で言った。そんな簡単な言葉では表せないくらいの衝撃だった。
鈴木にはまだそう言い切れる自信がない。それなのに目の前の壁を楽々と飛び越えた竜神は、壁の向こうにいる祥子をどこか遠くへ連れて行こうとした。祥子を引き止めたかったのに言葉が出なかったのは、それが自分の我がままだからと躊躇したわけではない。ただプロポーズの後追いなんてしたくないという自分の格好つけだった。
鈴木がぽつりと言った。
「竜神さんて男の俺から見てもいい男だし。俺、あの人と同じ歳になってもあんなに格好よくなれる自信ないよ」
「竜神さん格好悪いわよ!」
突然祥子が叫んだ。
「あの人、今オートマのポルシェ乗ってるのよ! びっくりしちゃった! オートマじゃなくてPDKだって言い訳してたけど、マニュアルじゃなきゃポルシェじゃないみたいに言ってたくせに!」
「しょ、祥子さん。Pなんとかって何?」
「ポルシェ・ドッペル・クップルング。クラッチ踏まなくてもギアチェンジすると自動的にクラッチを抜いてダブルクラッチ効かせてくれるの。スポーツMTみたいなものよ」
鈴木には祥子の言ってることがほとんど分からなかったが、むきになって言い張る姿にふと思った。
祥子さんって、昔あの人のこと好きだった?
訊いてみようかと思ったが、やっぱり鈴木は訊けなかった。今更訊いてどうなるものでもない。もしかしたら二人は付き合っていたのかもしれないし、あの一生面倒見てやるの言葉には違う意味があったのかもしれない。
でも、祥子は鈴木の目の前で断った。
それが全てだ。
「あのね」
祥子が静かに言った。
「私が、大好きなオレンジのキャンディをあげたいって思う人は、コーキ君だけだからね」
祥子の言葉が胸にしみこんだ。気付いたら目頭から湧き出していた涙を、鈴木は自分の手のひらで一生懸命止めようとした。
「祥子さん、俺すごく心配で、祥子さん引き止めたかったけど、何て言っていいのか分からなくて、格好悪くてごめん」
「ううん、あの時のコーキ君格好よかったよ」
祥子に回された腕の中で首を横に振ると、涙が頬にこぼれた。自分でも情けないと思うのに涙が止まらないのは、慰めてくれる祥子の腕が心地よすぎるせいだった。
「コーキ君……今日お泊りしない?」
鈴木の頭の上から祥子の囁きが降ってきた。
鈴木は慌てて顔を上げた。驚きで涙もぴたっと止まった。
「駄目だよ。明日も会社だし、二人で同じ格好で出社したら絶対ばれるって!」
「もうー、コーキ君ったら真面目ねぇ」
祥子が口をとがらせた。いつもながら年上とは思えない可愛さだ。
「ワイシャツなんてその辺でも買えるわよ。スーツとネクタイが同じでも違うカラーワイシャツ着てたらきっとばれないわよ」
ぶんぶんと首を横にふる鈴木に向かって、祥子は更に訴えた。
「今日なら着替えも車にあるし、ちゃんといつもお泊り用のホクナリンテープ(経皮吸収型の気管支拡張剤)だって持ち歩いてるのに、コーキ君ちっとも誘ってくれないんだから」
そこで祥子は言葉を切った。急に鈴木は自分の口から水分がなくなったのに気付いた。そんなことはありえないけど、でも本当にそうなのだから仕方がない。
「祥子さん」
何故か鈴木はそこで咳き込んだ。決まらないことこの上ない。すかさず祥子が小物入れのキャンディを差し出した。
「はい」
先頭に顔を出したキャンディを手にとった鈴木は、それを祥子に差し出した。
「祥子さん、オレンジ」
「コーキ君食べて」
「いいよ、食べなよ」
「私はこっちを美味しく頂きます」
そう言いながら祥子が鈴木の方に身を乗り出し――
「やっぱワイシャツ買いに行こうか」
鈴木の切羽詰ったつぶやきに祥子が笑顔で頷いた。その顔を見て鈴木は何かを言いかけたが、言葉に詰まって言い直した。
「俺、頑張っていい男になるから」
「ううん。ならないで」
驚いた鈴木の耳に、祥子が口を寄せた。
「これ以上ライバル増えたら困る」
そのささやきが、鈴木の頭から自制心や判断力などという余計なものを全て吹き飛ばした。
頭に残ったのはただ一つ。
もうワイシャツ同じでもいいよな。
end.(2011/05/14サイト初出)